変貌する罪を沈めて
サトウ・レン
第1話
鎖された世界で見つけた彼女の姿に、一瞬、僕は呼吸を止めた。
「はじめまして。あなたは、誰?」
はじめまして。彼女は、そう言った。嘘を言っているわけではない、と分かっていても、馬鹿にされているのではないか、とそんな気持ちが萌してくる。容姿、口調、仕草。完璧な模倣、というものがあるなら、それは彼女のために使われるべき言葉だ。もう会うこともないと思っていたひとがそこにいる。
彼女は、どこまでも死んだ姉に似ていた。
ワンルームマンションの一室に、物語の世界でしか見たことないような頑丈な檻があり、その中から彼女が僕を見据えている。姉にそっくりな彼女らしくその姿はあまりにも美しくて、恐怖よりも前に、僕は見惚れてしまった。もう二度と見たくなくて、そしてもう一度見たくて仕方なかった姉は、僕の憧れだったのだ。
「バイトで、あなたを見張ることになりました」
「また、監視、か。たまには白馬に乗った王子様でも現れて欲しいものだけど」
「すみません……」
「なんで謝るの?」と彼女がため息をつく。その息のつき方まで、姉に似ている。「あなたは悪いことをしたの? していないのなら、もっと自信を持ちなさい」
僕が闇なら、姉は光だった。あまりにも陳腐な言い回しだけれど、それ以外に僕と姉を対比するうえで適当なものが見つからない。
「名前、聞いてもいいですか?」
「私の? ……そうか、あなたはそういうタイプなわけだ」
「タイプ?」
「えぇ」と彼女が楽しげに笑う。「私に会った時の反応は、大体ふたつのタイプに分かれるから。情を持たないように、一切私について知ろうとしないひとと、ふたりきりの空間で相手を知らないことに耐え切れず、私について色々と知りたがるひと。きみは後者ね」
あなた、から、きみ呼びに変わり、僕はどきりとする。かつて姉も、僕のことを名前ではなく、きみ、と呼んでいたからだ。
「まぁ、まったく知らない相手と一緒にいるのはつらいですから」
「私の名前は、アイよ。愛してるの、愛」
姉の名前も、アイ、だった。ただ漢字は違う。姉は、藍色の、藍だ。彼女は……いや、愛は、どこまで僕のことを知っているのだろうか、と思った。事前に僕の情報を知るのは不可能だ。分かってはいても、こんな偶然、信じられるだろうか。
愛と話しながら、僕が思い出していたのは姉の藍のことだ。藍は僕が人生で会った誰よりも魅力的で、姉弟という一線をこえて、僕は彼女を自分の物にしたい、しなければならない、しない人生などありえないくらいの感情を抱いていたけれど、藍は僕の想いをすり抜けて、その魅力を絶やすことなく、人生を終えた。
藍について考えた時、一緒によみがえるのが、渓流のせせらぎだった。釣り人もすくない静かな秋の渓流で、僕と藍は出会った。僕と血の繋がりのない姉は、物心つけばそこにいたような存在ではなく、はじめての出会いがあったのだ。
『私がきょうから、きみのお姉ちゃん』
なんか慣れないね、と続けて笑う藍に、僕は恋をした。当時まだ僕は小学生で、藍は中学生になったばかりだった。
「どうしたの?」と愛がちいさく笑う。「ほら、もうすこし近付いたら? 大丈夫。この檻に入っている間、私は何もできないから」
僕は愛が腕いっぱいに手を伸ばしてぎりぎり手の届かない場所まで、近寄る。
懐かしいかおりがする。彼女からは罪のにおいがした。
きっかけは高校時代の同級生からの電話だった。大学を卒業して以降、就職もせず、色々な仕事を転々としていた僕の現状をどこかで知ったのか、面白い仕事があるんだけど、と彼は話しはじめた。そんなに仲の良い相手ではなかったけれど、面白い仕事、という言葉が僕の興味を惹いた。いまの一番の愛読書は、無料の求人情報誌、というくらい新たな仕事に飢えている状態だったのだ。
「もし断るにしても、絶対に口外はしないで欲しいんだけど……」
「なんだよ、怪しい仕事か。もちろん誰にも言わないさ。でも明らかに怪しい感じの治験のバイトくらいなら何度もやったことがあるし、そのくらいなら驚かない自信はあるけどな。まぁ犯罪が絡んでいて、捕まる可能性がある、って分かってるなら断るよ」
「いや……怪しいことは否定しないけど、捕まる可能性はない。ただ命の危険がゼロとは言わない」
「なんか曖昧な言い方だな」
「曖昧な言い方しかできないんだよ。……ある人物を監視して欲しいんだ」
そして彼は、場所だけを告げた。隣県に住んでいる僕とは違い、彼はいまも地元に住んでいるのだろう。まぁ彼みたいなのんびりとした人間は、田舎でのほほんと暮らしているほうがお似合いだ。
彼の告げた場所は、岐阜県浅黄市だ。生まれてから高校までの期間を過ごしたところに、僕は卒業以来、久し振りに向かうことにした。捨てた故郷に対して、帰る、という言葉を使う気にはなれなかった。
岐阜へと向かう電車に揺られながら、僕が考えていたのは急に電話してきた高校時代の同級生のことだ。
友達だったか、と言えば、友達ではなかったはずだ。嫌いではなかったが、好きではなかった。そんな存在だった。だから電話越しに名前を告げられても、すぐに顔と名前が一致しなかった。特別何かに秀でたところはなくて、嫌いでも好きでもなかったけれど、下には見ていた記憶がある。
彼とはファミレスで待ち合わせをして、そこは僕たちの通っていた高校の生徒がよくたむろするところだった。僕も何度か同級生たちと一緒に行ったことはあったけれど、僕はあまり仲間内で集まって行動するのが好きではなく、決して回数は多くなかった。彼はその時の面子には入っていなかったはずだ。僕が比較的関わりの多かったグループの連中と彼は親和性が低かったのだ。
一度、そのグループの中で乱暴者だった宇野の恨みを買って、彼が殴られている光景を見たこともある。顔を腫らし、口の端から血を流す彼を見ながら、ひどく同情した記憶もあった。確か宇野の彼女が、結構タイプだと言ったとか、そんなのが理由だったはずだ。なんで、そんなことになったんだっけか。忘れてしまった。
「久し振り、山田」
「山崎だよ」
「あぁ悪い……」
僕は名前を間違えてしまい、山崎は眉間にしわを寄せていた。悪気があったわけでも、冗談が言いたかったわけでもない。気軽に名前を間違えてしまう程度の間柄なのだ。なんでその程度の関係性しかない僕に、仕事を依頼してきたんだろう、という気持ちもある。
「俺には、そもそもそれくらいの関係性の知り合いしかいないんだよ。それに、まぁお前はなんとなく受けてくれそうな気がしてな」
山崎が僕のことを、お前、と呼んだ時、なんだか不思議な気分になった。学生時代はこんなにフランクに呼び合っていただろうか。大人になるにつれて変化するパワーバランスをふとしたことで意識してしまって、変な気持ちになった。
まぁ、いいや、と僕は話を続けることにした。
「……そうか。で、さ。仕事の話だけど。監視、ってどういうことだよ」
この時点まで、僕は仕事の詳細についてまったく知らなかったし、改めて聞いたうえでも、何のためにそんなことするのかよく分からないままだった。
あるワンルームマンションにいる、とある人間を監視して欲しい。日数をはっきりと決まっていなくて、判断するのはその監視対象である。別に監視対象とコミュニケーションを取っても構わないし、取らなくても構わない。命の危険がないわけではないが、もし途中で嫌になったら逃げてもいいし、前金は返さなくても構わない。山崎から聞かされた話を要約すると、こんな感じだ。
常識的な判断をするなら、断るべき仕事だ、とはもちろん分かっていた。でも僕にまともな常識があったなら、こんな人生を歩むはずがない。
なんとなく受けてくれそうな気がした、という山崎の勘は正しい。電話がきた時点で、僕の中に断る選択肢はなくて、その気持ちは実際に彼に会って、話してみても、変わることはなかった。
高額の報酬は魅力的だったし、人間を監視するバイトがいったいどういうものなのか、実際に見てみたい、という好奇心もやはりあった。
そして僕は、姉にそっくりな女と出会った。
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