第90話
俺が仲間たちの元に戻ろうと飛び始めて、それからすぐのことだった。
(ん……? あれは……)
眼下の森の中に、ちらと人影が見えた。
オークではない。
その人物は、俺がいま見てきたエルフ集落からわずかに離れた場所で、木の陰に隠れて集落の様子を覗き見ていた。
最初は逃げ延びたエルフだろうかと思ったが、その人物は遠目にも、どこか見たことのあるシルエットのように思えた。
そう、あれはまるで──
(──アイリーン? だが、彼女がこんな場所にいるわけが)
このグレイスロード王国の王女にして騎士であるアイリーンは、俺の幼馴染みでもあり、そうそう見紛うことはないと思う。
だが彼女は王都グレイスバーグにて、王女として、あるいは騎士としての活動をしているはずだ。
それがこのような場所にいる道理がないのだが……。
(……いずれにせよ、近付いて働きかける必要があるか)
俺はそう考え、その人影のもとまで降りていくことにした。
それがエルフの生き残りであれ何であれ、あそこにいてはまずい。
回収してフィノーラたちと合流させるべきだろう。
だがそう思って近付いて見てみると──
(やはりアイリーンだ。なぜこのような場所に……?)
そのショートカットの銀髪と、男装ながらわずかに少女らしい愛らしさのあるシルエットは、間違いなく俺の幼馴染みのそれだった。
俺はいよいよ彼女の近くまで降りてゆく。
「──っ!? って、鷲……?」
アイリーンがこちらに気付き、腰の剣に手をかける。
誤って斬られてはかなわないので、俺は彼女から多少距離を取って、地面に着地した。
それから
「アイリーン、なぜキミがここにいる」
「へっ……?」
アイリーンが俺のほうを見て、腰の剣に手をかけたまま呆然とした顔をする。
それから俺を指さして、口をぱくぱくとさせた。
「なっ……あっ……う、ウィル……? なんで……?」
アイリーン視線が俺の顔から、すすすっと下に動く。
そして彼女は、ボンッと湯気を噴くようにして顔を真っ赤に染めた。
……ん?
どうも様子がおかしい。
だがそのような瑣事を気にしている場合でもない。
俺はアイリーンに近付き、彼女の手を取ってこの場から離れるよう誘導する。
「ふぇっ……!? う、ウィル、何で手を掴むの? この暗がりの中、ボクをどこに連れていく気なの?」
「アイリーン、なぜキミがここにいるのかなど疑問は尽きないが、ひとまずこの場を離れるぞ。あの集落の近くにいるのは危険だ」
「ちょっ、ちょちょっ、ちょっと待ってウィル! え、待ってちょっと、ボクもう何が何だか……え、なんで? なんで?」
「細かい話はあとだ。ついてこい」
「あうぅっ。わ、分かったけど……えええぇぇっ……」
大人しくついてくるアイリーンだったが、やはりどこか様子がおかしい。
何やらもじもじしている様子で、たまにちらっと俺の下半身のほうに視線を投げては、また顔を赤くしてぐいっと顔の向きを逸らしたりしている。
謎の動作だ。
俺は彼女の視線が気になって、自身の下半身に目を向けてみた。
そして、そこでようやくアイリーンの様子がおかしい原因に気付いた。
なるほど、そういうことか。
鷲の姿で、服を着ない状態でずっと全身を外気にさらしていたものだから、違和感に気付けなかった。
「……すまん、アイリーン。自分の格好について失念していた。
「いやその見苦しいっていうことはないっていうか、むしろ貴重なものを拝見させていただいてしまったというか……いやいやいやそうじゃなくて……えっとえっと……う、うん、分かった。勘弁する……」
俺に手を引かれるアイリーンは、普段の彼女の快活さあふれる姿とは異なり、きゅうっと大人しくなってしまっていた。
だが彼女は、次には思い出したかのようにぶんぶんと頭を振り、真面目な顔になって俺に聞いてくる。
「それより、どうしてウィルがここに?」
「それはこちらの台詞だ。なぜアイリーンがこのような場所にいる」
「ボクはオーク退治の任務で近くの村まで来てみたら、討伐を頼まれた洞窟にはオークがいなくて。で、それとは別で近くのエルフ集落にオークの大軍勢が向かっていったのを見たって話を聞いて、それでここまで偵察しに来たんだけど……」
「なるほどな。俺たちはオーク退治のクエストを受けた流れで、別の集落のエルフたちと知り合ってな。いまはエルフに雇われて、その流れでここにいる」
「えっと、『俺たち』っていうことは、サツキちゃんたちもいるの?」
「ああ。この場にはいないが、近くにエルフたちの集団とともにいる」
「そっか。ちなみにボクも、近くの村に騎士見習いたちを待機させてる。……話に聞いただけでも、あの規模のオークの群れの近くには、ちょっと見習いたちを連れて見にいく気にはなれなかったから。戦うにしても逃げるにしても、ボク一人のほうが身軽だし」
そう言ったところで、アイリーンは黙りこくる。
後をついてくる彼女の様子を見てみると、その顔は悔しそうに思いつめたような表情を浮かべていた。
それから彼女はうつむきながら、ぽつりとつぶやく。
「……あのオークたちは、許せない。……でも、ボク一人じゃあの数は相手にできない。だけど見習いたちは命を落とさせない前提だったら足手まといでしかないし、そうでなくても彼我の戦力差を覆せるほどの戦力には到底ならない……」
そう言ってアイリーンは、彼女を連れて歩いていた俺の手を引いて引き止めた。
そして彼女は、強い意志を宿した瞳で俺を見上げてくる。
「ねぇウィル、お願いがあるんだ。ボクはオークどもを倒して、あのエルフたちを救出したい。でもボク一人じゃ足りない。──だからウィル、キミに手伝ってほしいんだ」
そこまで言ってから彼女はまた気まずそうに視線を伏せる。
「でもこれはボクの勝手な想いで、国からの依頼じゃない。報酬はボクがキミに個人的にあげられるものしか用意できない。──だけどお願いだ! ボクは彼女たちを、いまからでも、あの地獄から救いたいんだ!」
それはアイリーンの、真摯な想いだった。
俺はそれを聞いて──
しかし、彼女の願いを聞き入れようという気にはなれなかった。
俺は彼女に向かい、自身の考えを伝える。
「アイリーン、キミのその願いは聞けない。──敵は強大だ。キミの想いは純粋で美しいと思うが、強い想いは状況判断を捻じ曲げる。キミのその想いに乗せて、俺は自身の命を賭けようとは思えない」
「えっ……?」
アイリーンの瞳が、いまにも割れそうなガラスのような脆さを映し出した。
彼女はおそらく、俺が彼女の願いを受け入れる前提で、その願いを口に出したのだろう。
そしてアイリーンは、何かを取り繕うように、続く言葉をつらつらと紡ぎだす。
「あっ……そ、そうだよね……ごめん、なんかボク、勘違いしてたみたいで……。そうだよね……ウィルは冒険者で、気持ちで戦ってたら、命がいくつあっても足りないもんね。あはははっ、ごめんごめん。いまの聞かなかったことにして。ボクが間違ってた。あははは……」
アイリーンはなおも割れて砕ける直前といった儚さを全身から放ち、視線を泳がせていた。
……うむ、明らかに言い方を失敗したようだ。
俺の真意が誤って伝わってしまった様子だ。
「アイリーン」
「え、えっと、その……ごめん、ボクそれ以上聞いたら、壊れそう。またにしてくれないかな」
アイリーンがそう言って、俺の手を振り切り逃げ出そうとする。
俺は構わずに、走り去ろうとする彼女の背中に語り掛ける。
「違うんだ、アイリーン。協力しよう」
「いやあああああっ……って、はい?」
耳をふさぐ姿勢になったアイリーンが、俺のほうへと振り向いてきた。
「え……いま、何て? だってさっき、ボクの願いは聞けないって言ったよね? 命を賭けてまで、オーク退治には協力できないって」
「違う。キミの想いそのものには乗れないと言ったんだ。俺は俺の判断で、あのオークどもと敵対し、エルフたちを救い出す算段を立てる。キミはキミの想いで動いてくれ。俺はどこかで一線を引いて退くかもしれないが、それまではお互いに協力できるはずだ」
アイリーンは、目をぱちくりとさせて、俺のほうを見ていた。
それからぽつりと、こんなことを言った。
「あー……そう言えばキミ、そういう誤解されやすいこと言う人だったね。忘れてたよ」
「思い出してもらえたようで何よりだ。──では、共闘ということで構わないか?」
「──うん」
アイリーンはそう答えて、心底嬉しそうに微笑んだ。
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