第89話
エルフたちの準備が整い次第、拠点の移動を開始した。
と言っても、ほぼ全員が着のみ着のままなので、準備といっても移動の必要性と実行タイミングを周知するぐらいのことではあったのだが。
ただ百人近い人数の移動となると、それなりに厄介なものだ。
闇夜の下、
そう思った俺は、一つ行動を起こすことにした。
「フィノーラ、俺は少し抜ける」
「ん……? ああ、構わないが、どこへ行くつもりだ?」
「少し空を散歩してくる」
「は……?」
俺はフィノーラに自身の行動予定を伝えると、近くの木の陰に隠れ、着ているものを脱いでから二つの呪文を唱えた。
一つは
これは暗闇の中でも、明るい日中と同じようにものを見ることができるようになる呪文だ。
そしてもう一つは
これは術者自身が任意の動物に変身することのできる呪文で、変身後はその動物の能力で活動できるようになる。
変身できる動物の種類に制限はあるが、よほど巨大なものや魔獣といった類のものでなければたいてい大丈夫だ。
俺は
そして翼をはためかせて飛び上がり、やがて大空に舞った。
(こうして空を飛ぶのも久々か……)
森の木々を上から俯瞰できる高さまで舞い上がると、風に乗って、夜の闇の中を悠然と飛び回る。
夜空を見上げれば星々が煌いており、それを見ると、下界での出来事など小さいことのように思えてしまう。
だがいまは、そんな感傷に身を任せるために空を飛んだわけではない。
(周囲にオークがいないかどうかだ)
大鷲となった俺は、
空中を遊泳し、旋回し、滑空し、あちこちを飛び回った。
その結果、移動するエルフの集団の近くには、オークの群れらしきものは発見できなかった。
一安心といったところか。
(あとは……あれか)
一通り周囲の偵察を終えた俺は、夜空をゆっくりと滑空しながら、一つの方角を見据える。
周囲の風景はかなり遠くまで森林で満たされているのだが、その森林地帯のある一ヶ所、灯りの集まっている場所があった。
それはフィノーラから聞いていた、彼女たちの集落が存在するはずの一帯だ。
そこまでの距離は、徒歩ならおそらく一時間ほど、いまの姿なら全速で飛べば二分とたたずにたどり着けるだろうといった具合だ。
そして、そこに灯りがあるということは、いま現在そこに何者かがいるということだと思われる。
オークか、エルフか──
(見てくるべきだろうな)
俺は意を決して、偵察の足を伸ばすことを決めた。
二度ほど軽く羽ばたいて翼を傾け、目的地となる方角へと向かう。
夜空の下を、びゅうびゅうと吹きすさぶ風を切り裂きながら飛ぶ。
ぐんぐんと目的地が近付いてくる中、行く手の先の夜空に暗雲が立ち込めていることに気付いた。
(あの雨雲、こちらに向かっているか……しばらくすると雨になるな)
偵察中に降られることはあるまいが、そのあとが少々問題だ。
とは言え、それもいま考えるべきことではない。
余計なことを考えていて敵地で下手を踏むような間抜けになるべきではない。
そんな思考をしながら百を数えるほどの時間を目的地に向かってまっすぐに飛び続けた頃、俺はついに、その集落の上空にたどり着いた。
そこはレファニアたちが住んでいたエルフ集落を、そのまま数倍の規模に拡大したようなツリーハウス集合型の大集落だった。
いまはその地面のところどころで篝火が焚かれている。
そしてそこには、吐き気のするほど胸糞の悪くなる光景が、これでもかというほどに広がっていた。
集落の地面のあちこちに、無惨に殺されたエルフの死体が転がっていた。
首や手足をへし折られ、あるいは頭を潰され、あるいは内臓を引きずり出されているといった有り様だ。
それらの死体は、エルフの中でも男が多いように見える。
一方、あちこちで焚かれた篝火の周囲では、見るも禍々しい饗宴が催されていた。
多数のオークが品の悪い豚声を発しながら、多数のエルフの女を蹂躙している。
エルフの女たちからあがっている声は、嬌声などという生易しいものではない。
いずれも明らかなる悲鳴、それも嗚咽や断末魔に近い類のもの。
つまりはこういうことだ。
このエルフの集落は、オークの軍団に襲撃され、陥落し、多くの者は殺されるか捕らわれた。
そして殺されたのは主に男のエルフで、捕らわれたのは女のエルフ。
捕らわれた彼女らは、オークどもの欲望の捌け口として、あるいは子孫繁栄のためのモノとして利用されている。
(……駄目だ。落ち着け。いま俺一人が下りていって何ができる)
現在進行形で起こっている悲劇を目の当たりにしたことで、俺の心は義憤に囚われそうになる。
いますぐ地上に降りていって
だが駄目だ。
それでは足りない。
戦術的可能性を検討しても俺一人で奴らを全滅に追い込む算段はまったく立たないし、ロード種やエンペラー種の動き方次第では、俺が撤退する間もなく肉塊に変えられる可能性だって低くはない。
サツキたちに向け、この案件に踏み込み過ぎるべきではないと言ったのは、誰あろう俺自身だ。
しかしこうして事態を目の当たりにすると、意志が揺らぐ。
理性が鳴りを潜め、正義感と直情に己が支配されそうになる。
そんなものは理性的な人間のあるべき姿でないと訴える俺が、小さくなって隅っこに追いやられる。
支配するのは、暴力的なまでの感情。
だが救いだったのは、俺の中の直観が、正常に機能してくれていたことだ。
無理だ。
俺一人では無理だ。
こいつら全員を俺一人の力で皆殺しにすることなど不可能で、最終的に殺されるのは俺のほうだ。
その直観的認識が歯止めとなって、俺の直情的行動を押し留めた。
(しかしせめて、敵の総大将の姿ぐらいは拝ませてもらう)
俺は上空で大きく旋回をしながら下界を見下ろし、目標となる対象を探す。
上空から木々の隙間を縫って見える場所は限られていて、集落内の全貌を見渡すことはできない。
だが──
(──あれか)
集落内で焚かれた篝火の中に、ひときわ大きなものを見つけた。
そこには多数のオークと、それに比例した数のエルフの女がいるのだが、ほかの場所のようにそれらが入り乱れた饗宴が行われているのではなかった。
その輪の中心に一体、とりわけ尊大な存在。
一般のオークよりも二回りは大きいその存在に向け、周囲のオークたちが傅くようにして、己が手にしたエルフの女を献上する仕草を見せていた。
降下して近付いて見てみようかとも思ったが、そのとき、その存在が上を向いた。
まるで上空にいる俺を見ているかのようで、さらには周囲のオークたちに、こちらを指さして何事かを伝えているようだった。
──あれは勘が鋭いなんてレベルじゃない。
この時間に鷲が渡りでもなく上空を旋回していることに違和感を覚えたのかもしれないし、普通に動物としての鷲を多少の脅威として警戒しただけかもしれないが、俺の中の警戒心が、あまり近付くべきではないと警鐘を鳴らしていた。
(……いまだけだ、いまだけその立場に浸っていろ。──貴様は必ず叩き潰す)
そう思念した俺は、感情的に深入りしている己を自覚して心の中で苦笑をしつつ、何はともあれとその場から飛び去ったのだった。
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