30:一生のお願い


 葵衣の兄が無害な怪異だったというのなら、これまで俺たちを襲ってきていたのは、幸司の怪異だったということになる。


 俺はそれを、どうしても信じたくなかった。


「結界を破り、ここまで入り込むことができるとは……相当な力を蓄えてきているようだ」


 神主にとっても、怪異が本殿まで侵入してくることは想定外だったようだ。


 立ち上がって数珠を構えた神主は、影に向かってお経のような言葉を唱え始める。


 そのお経に効果があるのか、怪異は背をのけ反らせて――正確には胴体が反転しているので、腹を丸める形で――唸り声を上げた。


 神主の声が大きさを増していくにつれて、呼応こおうするように唸り声もまた大きくなっていく。あの村で聞いたような、耳を塞ぎたくなる声だ。


「きみはもうこの世の者ではない、生ける者に執着するのはおやめなさい」


 数珠を掲げた神主は、徐々に怪異との距離を縮めていく。


 真っ黒な身体はガタガタと大きく震えだし、その目や口元からは黒い液体が噴き出している。明らかに苦しんでいるような反応に見えた。


 どうやらこの神主は、話の通りとても強い力を持っている人物のようだ。怪異の存在に恐怖することもなく、真っ向から対峙している。



 その様子を見た俺は、このまま怪異を祓うことができるのではないかと思った。


「ッ……!?」


 しかし、次の瞬間音を立てて数珠が弾け飛んでいく。同時に、神主の身体は宙を舞っていた。


 千切れた数珠が床に散らばり、そのひとつが俺たちの前まで転がってくる。


 まるで紙切れのように吹き飛ばされた神主は、痛みに呻きながらも起き上がろうとしていた。


「ぐう……ッが、あ……!」


「か、神主さん……!」


 そんな神主の背中を踏みつけた怪異は、大きく開いた口から大量の黒い液体を吐き出していく。


 それを頭から浴びた彼は苦しげな声を上げ、四肢しし痙攣けいれんさせる。呪離安凪ジュリアンナが浴びたのと同じものだ。


 ほどなく彼は、どす黒いドロドロの吐しゃ物を吐き出す。直感的に、溶かされた体内のそれが溢れ出してきているのだと思った。


 埃ひとつなく綺麗に磨かれていた本殿の床は、瞬く間に黒く染め上げられていく。


 やがて動かなくなった神主から興味を失った怪異は、ギョロリとした瞳で柚梨を捉えた。


「っ……柚梨!」


 すくむ両脚を叱咤して立ち上がった俺は、柚梨を連れて咄嗟に本殿を逃げ出す。


 葵衣も俺たちの後を追いかけようとしたのだが、彼女は見えない壁に阻まれていた。


「ちょっと、何コレ、何で……!? 兄貴!? ねえ、アンタの仕業なの!?」


 葵衣を見つめるその怪異は、彼女の傍から動こうとしない。


 これまで彼女を守り続けてきたというのなら、危険な場所へ行かせないようにしているのも彼なのだろう。


 丈介も同じく、本殿の中から出られなくなっているようだった。


(でも、これなら少なくとも、あの二人は安全だってことだ)


 葵衣の兄は、悪いものに取り込まれきってはいないのかもしれない。だからこそ、大切な人間を守ろうとしているのだ。


 走って参道まで移動したはいいものの、背後から地響きのような足音が急速に迫ってくるのが聞こえてくる。


 そちらを振り返る前に、俺は圧倒的な力によって地面に押し付けられていた。


「ぐあッ……!」


 骨も内蔵も潰されてしまうのではないかと思うほどの力に、ただ呻くことしかできない。


 これまでも投げ飛ばされるようなことはあったが、こんなに物理的な力だけで圧倒してくるようなことはなかった。


 もう逃げ回ることすら許されないというのか。


「樹……!」


「う……ゆ、ずり……逃げろ……!」


 力のある神主ですら、祓うことのできなかった相手なのだ。


 何の力も持たない一般人の自分に、この怪異をどうにかすることができるとは思えなかった。万策ばんさくは尽きたのだ。


 せめて彼女だけでも逃がせたらと声を絞り出すが、俺を地面に押し付けていた力は、その矛先を柚梨へと変える。


 恐怖で座り込んでしまった彼女は、迫りくる怪異を見上げることしかできない。


『人の情念というものは、この世でもっとも恐ろしい』


 先ほどの神主の言葉が、脳内に蘇る。


 まだまだこれからの人生があるはずだった年齢だ。思い残したことなど、山ほどあっただろう。


 そんな幸司が、怪異に取り込まれてまで自分たちに執着する理由がわからなかった。


(そういえば、あの時……アイツ、何言おうとしてたんだろう)


 過ぎったのは、電車の中での光景だった。


 黒いモヤに飲み込まれていく直前に、幸司が俺に向けて何かを言おうとしていたことを思い出す。


 そうしている間にも、柚梨の目の前には怪異となった幸司が迫っていく。


 彼女の頭を掴み、大きな口を開けてそれを飲み込もうとしているのだ。


『……な、い……』


 必死に記憶を掘り起こし、思い返した口の動きを、頭の中で反芻はんすうする。


 痛みに朦朧もうろうとする意識の中で、やがて俺はひとつの答えに辿り着いた。


『わ、た、さ、な、い』


 あの時、幸司はそう口にしていたのだ。


 何のことを言っているのかなんて、もはや聞くまでもない。だってそうだろう?


 これまであの怪異が求め続けてきたのは、ずっとただ一人だった。



「お前……好きだったのか、柚梨のこと」


 彼女の頭を飲み込みかけていた怪異の動きが止まる。


 俺はどうにか身体を起こし、その巨体に向かって言葉を投げかけた。


「だから、ホントは俺のこと……嫌いだったのか?」


 幸司は、俺の気持ちに気づいていた。


 俺自身は幼馴染みという立場に胡坐あぐらをかいて、ずっと否定を続けていたが。そんな姿は、彼の目にどう映っていたのだろうか?


『認めなくてもいいけどさあ。ぼちぼち素直になんねーと、そのうち誰かにられちまっても知らねーからな。たとえば俺とか?』


 幸司は、友人と想い人を奪い合うような男ではなかった。俺の気持ちを知っていたからこそ、身を引くためにアプリを始めたのかもしれない。


 そんな本音の一端にすら、俺は気づくことができなかった。


 この先もずっと人生を共有できるくらい、最高の親友だと思っていたはずなのに。


(スマホのパスワードのことも、柚梨のことも。親友だとか言いながら、俺はお前のこと何ひとつ知らないままだったのか……?)


 怪異から言葉を引き出すことはできないが、柚梨を取り込もうとする様子はない。


 執着が強いほど、感情は暴走すると言っていた。それならば、彼女を死後の世界に取り込むことは、幸司の本意ではないのかもしれない。


 彼の意思がまだそこにあるのかもわからないが、まともに動くこともできない俺にはもう、声を掛ける以外の手段が見つからなかった。


「憎まれてたんなら、それでもいい……俺、ニブくてごめんな、幸司……だけどさ、柚梨だけは見逃してやってくれないか?」


 頬の内側が切れているのか、喋るたびに口の中に血の味が広がる。怪異はまだ、柚梨の頭を掴んだままだ。


 それでも、俺の話を聞いているのか、動く気配はない。


「代わりにさ、俺のこと連れてってくれよ。それでチャラにしてくれないか?」


「い、つき……やだ、何言ってんの……!?」


 思いがけない提案に、抗議の声を上げたのは柚梨だった。けれど、俺は構わず言葉を続ける。


 これだけ強い執着を持つ相手に、手ぶらで帰ってくれと言っても、通用するとは思えなかった。


 元々、彼女を巻き込んだのは自分だ。幸司の憎しみを生む発端となったのも自分ならば、犠牲になるのは俺自身であるのが筋だろう。


「なあ、頼むよ幸司。……一生のお願い、聞いてくれないか?」


 耳慣れた、幸司の口癖だ。


 それを何度聞いてきたかはわからないが、俺が口にするのは、思えばこれが初めてだった。


 その時、動きを止めていた怪異が柚梨の頭を離す。


 苦しそうな唸り声を上げると、柚梨の頭上から神主にしたように黒い液体を吐きかけた。


 それを浴びた柚梨は、苦しそうな声を漏らしてその場に倒れ込んでしまう。


 ああ、せっかくここまできたのに、俺は柚梨を助けることができなかった。


 あの黒い液体を浴びた彼女の身体は、骨や内臓が溶け出して、あっという間に死んでしまうのだろう。


 やはり、怪異を相手に言葉での説得なんて無駄だったんだ。


 既に力の入らない俺はそのまま地面に伏して、真っ黒な足と、その足元に倒れる柚梨の姿を見つめる。


 液体を浴びた彼女は、そのまま連れて行かれてしまうものだと思った。けれど、黒い足はゆっくりときびすを返す。


 そうして俺の前で立ち止まると、柚梨にしたのと同じように、黒い液体が降り注いできた。


 重力に逆らい入り込んでくる液体で気管を塞がれてしまい、息ができずに苦しい。


(俺も……死ぬのか、ここで……)


 黒い涙を流しているようにも見える大きな瞳に見下ろされながら、俺は意識を手放したのだった。

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