17:アンインストール


 車に乗り込むと、安心したからなのか強い疲労感に襲われる。


 運転を担当する丈介には申し訳なかったが、俺たちはやり遂げたという達成感を胸に、車中でぐっすりと眠ることができた。


 流れ続けるラジオからは、もうあの呻き声が聞こえてくることもない。もちろん、車の窓に張り付く影だって無かった。


 当たり前に平和だった日常が、ようやく戻ってきたのだ。


 二人と別れて最寄り駅に到着する頃には、薄暗い住宅街を街灯が照らす時間になっている。


 葵衣たちとはまた後日、顔を合わせたいという話もしていた。


 今度は怪異調査のためではなく、単純に友人として会いたいと思ったのだ。


 あまりにも非現実的なことが起こりすぎて、人生の中で一番長い一日だったといっても、過言ではないかもしれない。

 それでも無事に柚梨を守ることができた。俺にとっては、それだけで十分だった。


「……柚梨、ごめんな」


 見慣れた駅の改札を抜けていつもの分かれ道に立った時、俺はぽつりと謝罪を落とす。


 その言葉の意図がわからなかったのだろう柚梨は、不思議そうな顔をして俺の方を見た。


 行きは不安でいっぱいだった彼女の表情は、晴れやかなものへと変わっている。もうすっかりいつも通りの柚梨だ。


「ごめんって、どうして謝るの? 無事に解決できたのに」


「そうだけど……元はといえば、俺が柚梨にアプリに登録してほしいなんて頼んだから、こんなことになったんだと思ってさ。ホントならあんな怖い思い、する必要なかったのに」


 始めは幸司の死の真相を知りたいという一心で、一番身近だった柚梨に協力を仰いだのだ。


 結果としてそれが彼女を危険に晒す原因となり、危うく命までもを落とすところだった。


 今こうして向き合うことができているのは、単純に運が良かっただけなのかもしれない。


 だって、ひとつでも行動を誤っていたら、きっと柚梨はあの影に飲み込まれてしまっていたのだろうから。


「助けるって言ったのに、危険作った原因が俺だったとかさ」


 笑えない。そう言おうとしたところで、俺は言葉を飲み込む。


 柚梨が突然、俺の両手を握ってきたからだ。

 無意識に俯いていた顔を上げると、目の前の柚梨は笑っていた。


「助けてくれたでしょ、ちゃんと。ありがとう、樹」


「柚梨……」


 つられて笑顔を浮かべて見せるが、上手く表情を作れている自信がない。


 彼女に情けない顔を見せたくなくて、俺はまた視線を落とすが、そこで妙な違和感に気がついた。


 繋いでいる柚梨の手が、どうしてだか黒ずんでいるように見えたのだ。


 もう夜なのだから、影が重なってそう見えているだけかもしれない。あるいは神社での一件で、汚れがついたままだったのかもしれない。


 あれだけ黒い吐瀉物としゃぶつを吐き出していたのだから、汚れが残っていたとしても別に不思議ではないだろう。


 そんな風に思ったのだが。再び顔を上げた瞬間、俺は反射的に息を飲む。


 視界に入った彼女の顔は真っ黒に染まり、両目は底の見えない穴に、大きく開いた口元からは舌が垂れ下がっていたのだ。


 柚梨の面影など一切感じさせない姿がそこにはあった。


 それはまるで、あの怪異のように。


「ッ……!?」


 咄嗟に手を放して後ずさるが、次に見た柚梨はいつも通りの顔をしていた。

 手も、どこも黒ずんでなどいない。


「樹? どうかしたの?」


「いや、何でもない……ごめん。多分疲れてるんだ」


 あの怪異を何度も見すぎたせいだろう、恐らく幻覚が見えたのだ。


 車で眠ってきたとはいえ、疲労は身体に残っている。昨日だって、まともに眠ることができなかったのだから。


 家に帰って、ゆっくりと身体を休めることが必要だ。


 そうしてふと、俺はやり残していることがあったと思い出す。


「……そうだ、あのアプリ。まだ入ったままだろ?」


「え? うん」


「アンインストールしとかないか? というか、最初からそうしとけば良かったんだよな」


 根本的な原因であるアプリを、俺たちはスマホにインストールしたままにしてあった。


 それを削除したところで逃れられたとは思えなかったが、できればもうあのアイコンは二度と目にしたくない。


 柚梨も同じ意見のようで、コクコクと頷いてスマホを取り出す。

 早く消してしまおうと、ホーム画面の真ん中に表示されていたアイコンに触れた。


「…………?」


 通常のアプリなら、長押しをすればアンインストールという選択肢が表示される。それを押せば操作は完了するのだが、なぜかスマホは反応を示さない。


 寒さで指先がかじかんでいるし、乾燥していて反応しなかったのかと、俺はもう一度試してみる。


 しかし、やはりアプリには何の表示もされない。おかしいと思って柚梨を見ると、彼女もまた同じように困惑した表情を浮かべていた。


「消せない……何で? 他のアプリはちゃんと反応するのに……」


 試しに無関係のゲームアプリを長押ししてみると、そちらはちゃんと反応を見せる。


 どういうわけか、May恋アプリだけがアンインストールできなくなっているのだ。


「ウイルスじゃないけど、悪質なアプリだったのかもな。一回インストールしたら簡単には削除させないみたいな……運営に問い合わせて……」


「樹……!」


 アプリ自体に原因があるのだろうと決めつけ、俺は乾いた笑いを浮かべる。


 アプリの運営に苦情を入れれば済むだろうと思ったのだが、焦った声を上げたのは柚梨だった。


 その視線はスマホの画面に落とされている。隣からそれを覗き込んでみると、アプリが起動し、マップが表示されているのが見えた。


 そのマップには、よく見覚えがある。


「これって……この町の地図、だよな……?」


「うん……」


 これは、May恋アプリで使うことのできる機能のひとつだ。


 マッチングした相手と待ち合わせの際に、確実に会えるように、互いの場所をGPSで示してくれる機能が搭載されている。


 もちろん双方の承諾を得て、初めて利用できる機能ではあるのだが。それがなぜ今起動しているのか。


 表示されているアイコンのうち、赤い色をしているハートが、柚梨が今いる場所を示している。


 そして、青い色をしたハートが、少しずつ移動してきているのがわかる。


 柚梨は占い以外の機能を使っていないと言っていたので、マッチングした誰かが近づいてきているという可能性は無い。


 だというのに、このハートは誰かがこの場所に向かってきているということを示している。


 その『誰か』が一体『何』なのか、俺は考えるのが恐ろしかった。


「っ、お前、GPS……!」


「つけてない! 勝手に起動して止められないの……!」


 アプリの画面を消そうとしても、マップは起動したまま、距離だけがどんどん縮まっていく。


 このまま何かが来るのを待つというのは、どう考えても得策ではない。状況はわからないが、俺にもそれだけは理解できる。


 俺は柚梨の手を取ると、迫りくるそれとは反対の方角へと走り出した。


「樹、どこ行くの……!?」


 条件反射のように走り出したのだ、目的地など決まっているはずがなかった。


 とにかく、直感的に『それ』から離れなければならないと思ったのだ。


(全部終わったと思ったのに……!)


 無事に帰ってこられたと思っていた。

 けれど、こうして異変が続いている以上、そうではなかったのだと思い知る。


 恐らくあの身代わり人形は一時的な役割を果たしたのみで、根本的な解決にはならなかったのだ。


「クソッ……!」


 俺は自身のスマホを取り出すと、アドレス帳の中にある名前をタップした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る