16:身代わり人形


 村に立ち入った時から異様な肌寒さを感じてはいたのだが、今はその比ではない。


 吐く息の白さに気を取られ、それが掻き消えた先に、黒いモヤが立ち込めているのが見える。


「っ、アイツだ……!」


 漂うモヤはみるみるうちに集まって人の形になっていき、どこからともなくあの呻き声が聞こえてくる。


 それだけではない。


 いくつかの呻き声が重なって聞こえると思った直後、黒い人型に続くようにして、大小様々な黒いモヤの塊が次々と現れ始めたのだ。


 各々に意思を持っているかのように動くそれらは、まるで獲物を探している風にも見える。


 俺たちは柚梨を守るようにして背後へとやり、黒いモヤの集団と対峙する。


 武器のひとつも欲しいと思ったが、生憎あいにくと使えそうなものは見当たらない。そもそも、物理的な攻撃が効く相手なのかどうかも怪しいところではあるのだが。


 葵衣が、コートのポケットから何かを取り出す。


 その手に握られていたのは、手作りと思われる女の子の姿をした掌サイズの人形だった。


「もしかしたらと思って、準備しといて正解だったかも。丈介、アレ出して!」


「おう」


「それって……まさか、身代わり人形か!?」


 出発前に準備が必要だと言っていたが、こんな可能性までも見越していたのかと俺は目を丸くする。


 丈介は、背負っていたリュックの中から、瓶に入った日本酒と朱色のさかずきを取り出した。


「付け焼刃の真似事だけど、やってみる価値はあるでしょ」


 身代わり人形を使って、葵衣たちは簡易的な祝言しゅうげんを挙げようとしていた。


 それを察したように、怪異がひと際大きな呻き声を上げたかと思うと、強烈な突風が吹きつける。


 それは踏ん張ってどうにか立っているのがやっとなほどで、よろめいた葵衣を丈介が咄嗟に支える。


 飛び交う木の破片や枝が、頬や手に当たり傷をつけていくのを防ごうと両腕を顔の前にかざすが、風の勢いは増していく。


 飾られた絵馬たちが派手な音を立てて、繰り返し壁にぶつかっていた。


 まるで絵馬に奉納された村人たちの魂が、怪異に呼応しているかのようだ。


「い、つき……っ」


 背後から聞こえる柚梨の声に、俺は風圧を受けながら肩越しにそちらを振り返る。


 苦しげに胸元を押さえる柚梨が、膝をついてその場に崩れ落ちた。


「ぅ、え……ッ……ゲホッ」


「柚梨……!?」


 何度か咳込んだ柚梨が、突然何かを吐き出す。床一面に広がったのは、どす黒い液体だった。


 明らかに普通ではない、これも怪異の仕業なのだろうか?


 ただならぬ様子に気がついた葵衣も、次第に風圧に立っていられなくなる。


 それでも諦めない彼女は、這いずるような格好で、どうにか柚梨の傍まで近づくことができた。


「ッ……柚梨ちゃん、この人形に髪の毛を巻いて」


 呼吸が整わない様子の柚梨だが、小さく頷いて人形を受け取る。


 言われるまま自身の髪を数本引き抜くと、それを人形の胸元に巻いて結び付ける。


 そうしている間にも、人の形をした黒い影は俺たちの傍まで距離を縮めてきていた。


 落ち窪んでいたはずの目の部分には、ギョロリとした黒い大きな眼球が不自然な動きをしているのが見える。


 その影の歩んだ後方には、柚梨が吐き出したものと同じと思われる液体が引きずられて、地面を黒く汚していた。


「よし、あとは人形に酒を飲ませりゃいい」


 風圧を背に盃に酒を注いだ丈介は、柚梨の持つ人形に近づけようとする。


 けれど、それを阻もうとするかのように、無数の黒いモヤたちが一斉に丈介に襲い掛かる。


 背後から突然の襲撃を受けた丈介には、それを防ぐ手立てもなく、部屋の奥へと吹き飛ばされてしまう。


 それと同時に、人形と盃も別々の方向に転がってしまった。


「ぐあッ……!」


「丈介! うあっ……!」


 葵衣が動揺したのを見逃さない怪異は、彼女の細い首を掴み上げて易々と放り投げる。


 間近に迫ったそれは、ゆうに2メートルを超えているように見えた。俺の存在など見えていないと言いたげに、まっすぐに柚梨のところへと歩み寄ってくる。


 すぐに間に割って入ろうとするが、怪異が振り上げた腕によって、俺の身体は羽虫のように叩き払われてしまう。


 床に打ち付けた背中が痺れるような痛みを訴える。こんなデタラメな力に、真っ向から立ち向かって勝てるはずがない。


「や、やだ……っ、来ないで……!」


 背を丸めるように顔を近づけた影は、垂れ下がった長い舌で柚梨の頬を舐め上げる。


 そうして、引きつった悲鳴を上げる彼女の頭を、大きな口を開けて飲み込んでいこうとしていた。電車で見た、幸司の時と同じように。


 引かない痛みに悶え背を丸めて床に伏していたかったが、歯を食いしばりどうにか上体を起こす。幸いにも、柚梨の髪が結ばれた人形はすぐ傍に転がり落ちていた。


「クッ……!」


 腕を伸ばしてそれを拾うと、同じく床に転がる酒瓶の所まで這いずっていく。


 中身の大半はこぼれてしまっていたが、瓶が割れていなかったのは幸いだったのだろう。


 震える手で残る中身を盃に注ぎ、人形の口元に沁み込ませていく。


 正しいやり方などわからなかったが、それ以外の方法が俺の頭には思い浮かばなかった。


 すると、怒り狂ったような呻き声が室内に大きくこだました。


 強烈なそれに、俺は思わず人形を取り落として両耳を掌で塞ぐ。そうしていても、鼓膜が破られてしまいそうだと思った。


 じっと耐え続けていると、やがて嵐のように吹き続けていた風は穏やかになっていく。


 そっと手を外してみると、軽い耳鳴りはしているが呻き声も聞こえてこない。


 神社の中は木片や黒い液体で荒れてはいるものの、怪異の影はいつの間にか消え去っていた。


「ゆ、柚梨……っ!?」


 ハッとして、俺は柚梨の姿を探す。


 幸司のように消えてしまっているのではないかと恐怖したが、部屋の中央には呆然と座り込む彼女の姿があった。


「…………樹……」


 怪異がいた方角を見つめていた柚梨だったが、俺が歩み寄っていくとようやくこちらの存在に気がついたようだ。


 途端にボロボロと大粒の涙をこぼしながら、縋りついてくる彼女を強く抱き締めた。


 壁際に視線を向けると、葵衣と丈介も身体を起こして周囲を見回している。


 二人も無事であったことに安堵して、一気に全身の力が抜けていくような感覚がした。


「成功……したんだ……」


 立ち上がって外を見る葵衣は、神社を取り囲んでいた無数の影も消えているのを確認する。


 人形を身代わりにするという方法は、有効だったのだと証明された。柚梨のもとから、怪異は去ったのだ。


「ありがとう、葵衣。丈介さんも。……二人のお陰だよ」


「最後に成功させたのはアンタでしょ。アタシらは準備してきただけだし」


 素直に礼を受け取ろうとはしない葵衣だが、その横顔はどこか晴れやかに見えた。


 不気味さを感じさせていた村の中も、差し込む日の光を受けて、穏やかな雰囲気に変化しているように感じられる。


 俺たちはボロボロの互いを支え合いながら、神社の外に足を向けていく。


 床に落ちた身代わり人形は、頭を捻られ、全身を真っ黒に染め上げられていた。

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