通り魔

鈴木秋辰

通り魔

 こんなに誇らしい気分で道を歩くのは随分と久しぶりだった。ところが、そんな気持ちも最初だけ、俺以外の連中にとってはこれが当たり前の世界だってことに気が付いてしまった。そうなるとまた腹が立ってくる。俺ばかりが損をする。なのに俺ばかり避けられる。お前らの幸福のためになぜ俺がこんな目に合わなければならないのだ。

 突然、世界が暗くなったように思え、肩を竦めて外套の懐に手を突っ込んだ。不安になると縮こまり、自分の体を衣類の中に納めようとするのはいじめられていた子供時代からの癖だった。しかし、指先に走る刃物特有の冷たい感触が俺を現実に引き戻した。

 そうだ、昨日までの俺を轢殺するトラックはどれだと怯え、震えながら歩道の端をオロオロ歩いていた俺とは違う。目玉をギョロギョロさせているのは同じだが、今日は俺がトラックなのだ。息を荒げて外套の内、己の手と得物の境界を確かめるように台所から持ち出した包丁の柄をググッと握る。そして、刀身を包んでいた雑巾を剥ぎ取るとだらんと垂らした手の先に包丁を構える。こいつと俺の境界はたった今失われた。

 よし。今だ。それっと飛び回るネオンの流星を追って歓楽街のアーケードをくぐる。しかし、何やら通りの先が騒がしい。

 するとちょうどの反対のアーケードにただならぬ様子の男が一人。竿にかかった青魚が如く目玉をグルグルと回転させてゼエゼエと肩で息をしている。そしてその肩の先にはよく研がれたワザモノの出刃包丁がこれまた青魚の鱗みたいにギラギラとネオンの光を跳ね返している。

 俺は思わず立ち止まった。あの男が俺に気付いていないはずがないのだが、男はこちらを見ようともしない。俺もまた、恐ろしさのあまり声が出なかった。

な、なんなんだあいつは。

いったいどうしちまったんだ?

 俺はそっと後ずさりをした。その時だった。回転の弱まったベーゴマがゴロンと一点にとどまるように、グルグル回っていた男の目玉が俺の方を向いて止まった。

そして、男も俺と同じように一歩。後ずさりをした。

「…………」

「…………」

互いに無言のまま見つめ合うこと数秒、俺はハッとして包丁を振り上げた。

同時だった。

男も包丁を振り上げた。

 その瞬間、俺は昨日までの臆病な俺に戻った。脱力した腕から滑り落ちた包丁がアスファルトに触れ、耳障りな音をたてる。その音が号砲となり俺は回れ右して一目散に駆け出した。途中、何度か振り返ってみたが男が追ってきている様子はなかった。

 ボロアパートの階段を二段飛ばしで駆け上がり、震える手で鍵を開け玄関チェーンを乱暴にかけた。

「ふぅ」

 三秒のため息で落ち着きを取り戻す。もうすでに、俺にとって先ほどまでの体験は夢の出来事のような現実感のないものへと変わっていた。なるべくのゴミの少ない場所を選んで外套を床に脱ぎ捨てると何ヶ月もそこ敷いたままの薄汚れた布団に体をねじ込んだ。明日も仕事がある。早く休まなければ。


社会のストレスは増えるばかりだ。

しかし、その裏腹に街の治安は良くなっているという。

そういえば確かに、通り魔に人が刺されたなんて話はもうずっと聞いていない。

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通り魔 鈴木秋辰 @chrono8extreme

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