序章

奈落の月




 その日、世界は奈落に落ちる────




 高層ビルの階段を駆け上がり、七瀬ななせ水月みずきは屋上を目指していた。


 地上七十階、高さ三〇〇メートルにもなるビルの屋上から望む夜景──それを己の眼で観る為だけに水月は階段を駆け上がる。


 その行為をバカバカしいとわらう者もいるだろう。


 しかし今の水月にとって、それは何よりも大切な事だった。




 想い描くだけで終わるはずだった景色。


 一度は観る事を諦めた景色。


 生きている実感を与えてくれるはずの景色。


 観るだけで幸せになれるような景色。




 そんな素晴らしい景色がこの先で待っているのだ。


 屋上に着いたら思いっきり空気を吸って、首が痛くなるまで夜空を見上げて、仰向けになって朝が来るまで星を眺めよう──


 それが全て叶うのだと、そう思うだけで心が満たされるのを感じた。


 屋上へと続く扉が視界に入った。


 脚が不思議と軽くなり、呼吸を忘れ、喜びで波打つ心臓が水月を急かす。


 ドアノブに手をかけた。


 勢いに任せて扉を開け放つ。


 そこで水月が目にした光景とは──




 地獄。




 それ以外、表しようがなかった。


 業火によって紅く染められた闇。


 そこに浮かぶ景色は熱でゆがみ、呼吸の度に熱気が肺を侵して体を内側から溶かしていく。


 舞い散る火の粉と立ち込める煙、そんな中にいても何故か目をつむることができない。


 そして、アレの正体とはいったい──?


 それを知る術はない。しかし、はっきりしている事が一つだけある。


 世界が地獄と化したのは間違いなくアレが原因だ。




 夜空に代わり天上を支配した、果てのない灼熱の大地。




 もはやそこに〝そら〟はなく、地平線の彼方では地と地が交わっているのが見えた。


 次第に世界を正しく認識できなくなり、浮いているのか足が着いているのかすら曖昧になってくる。


 身体が動かないのは死を直感し受け入れたからか。


 あるいは恐怖を凌駕りょうがして、天上に広がる〝絶景〟に見蕩みとれているのかもしれない。


 やがて、薄れゆく意識と共に視界が白くなっていくのを感じながら、水月はとうとう気を失って倒れこんだ。



     ◇



「……うぅ……どこ? ここ……」


 水月が意識を取り戻すと、そこは見知らぬ住宅地の一角だった。


 時刻ははっきり分からないが辺りは薄暗く人通りがない。


「あれ……わたし確か──」


 身体を起こし、自分が置かれている状況を把握しようと思考を巡らせる。


「────‼」


 すると突然、この世のものとは思えない光景が脳裏に浮かんだ。


「何これ……夢?」


 あまりにも鮮明なその光景に恐怖を感じたが、気を取り直してもう一度周りを見渡してみる。


「やっぱりこんな場所知らない。……ってまさか、いやらしい事されたり──⁉」


 慌てて制服を確認したが着衣の乱れはないようだ。


 ほっと息をついて、スカートをはたきながら立ち上がる。


「そういえばカバンがない。あとスマホは? まさかスマホもないの⁉」


 ブレザーのポケットを全て探したがスマホは見つからない。


 その事実に愕然としていた時、道の向こうから会社帰りと思われるサラリーマンが歩いてきた。


 これはもう勇気を出して声を掛けてみるしかない──と、サラリーマンの元へ駆け寄っていく。


「あ、あの、すみません! ここってどこなのか教えてもらえませんか?」


 精一杯の勇気を出して尋ねてみたが、そのサラリーマンは水月の方を見ようともせず、無言のまま通り過ぎていった。


「え……⁉」


 全く予想していなかった反応にムッとしたが、何とか気を取り直して自分を励まそうとする。


「こーんなにかわいい女の子が声掛けてるんだから、話ぐらい聞いてくれたっていいのに!」


 水月は一七歳の高校二年生だ。


 銀色の長い髪は美しく、自分でかわいいと言うのも納得できる整った容姿をしている。


 そんな事を言っていると、スーパーのレジ袋を持ったOL風の女性が後ろから歩いてきた。


「あの、すみません! ここってどこだかわかり……」


 水月は目を疑った。この女性も水月を見もせずに無言で通り過ぎたのだ。


 その後も通りかかった人に何度も何度も声を掛けたが反応は変わらない。


「何で誰も話を聞いてくれないの……?」


 涙が溢れそうになるのを必死に堪え、途方に暮れた水月はあてもなく歩き始めた。


 そしてとうとう、使われなくなった大きめの段ボールをスーパーから拝借し、更に一時間ほど歩き回って何とか公園を見つけた。公園の端で段ボールを組み立てて、その中に座り込む。


 まるで自分は存在していないかのようだった。


 今自分を囲っている段ボールだけが、己の存在を証明しているように感じた。


「────」 


 何が起きたんだろう。


 何で無視されるんだろう。


 わたしが何をしたんだろう。


 涙が溢れて止まらなかった。


 お前は幸せになってはいけないのだと、世界の全てに言われているようだった。



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