第9話
日が落ちて、1階の食堂でバートが夕食を終えた頃、2階の部屋からザックが出てきた。
「うう、お腹が重たい」
ブランケットを肩に掛け、眉間にこれでもかというほど深いシワを刻み、よろよろと階段を降りてきたザックはバートを見るや否や、情けない声を出した。
「夜まで寝たのにお腹が治らないんだ」
「日頃そんなに食べないくせに、あんなに食い散らかすからだ」
バートは紅茶にレモンを浮かべながら、冷ややかな目でザックを一瞥した。
ザックはよろよろとバートのいるテーブルまでやってくると、倒れ込むようにして向かいの椅子に滑り込んだ。
「うう。せめて吐くか出すかできたらいいのに」
テーブルに突っ伏したまま、ザックが絞り出すようにうめき声を上げた。
「自業自得だ。明日には落ち着くだろう」
バートはため息混じりに答えた。
バートの言葉が聞こえているのかいないのか、ザックは突っ伏したまま「うう」と「むう」しか言わなかった。
食堂には二人以外に数名の宿泊客が食事をとっていた。
賑やかだがうるさくはない。バートは黙って紅茶を啜っていた。
しばらくするとカウンターの先の厨房からひとりの少女が出てきた。
小さなポットとマグカップが乗った木製トレイを持っている。
少女は軽やかな足取りでテーブルに近づいてきた。
「お客様、お腹がまだ落ち着きませんか?」
柔らかな笑みを浮かべて、少女はザックに話しかけた。
歳の頃は20代前半といったところか。
淡い黄色のワンピースに白いエプロンが色白の肌を際立たせていた。
肌色が明るいせいでそばかすが目立つが、黒目がちな瞳を惜しげもなく細めて笑うその愛らしい表情には、却ってよく映えた。
少女は肩にかかるほどの栗色の髪を一つに束ね、白い花のモチーフがついた髪飾りをつけていた。
「もしよろしければ、当店の特製薬草茶を試してみませんか?」
「薬草茶?苦くない?」
顔を上げることもせず、ザックが少女に尋ねた。
少女はくすりといたずらっぽい笑みをこぼした。
「シナモンを少し入れているので、ほんのり甘いです」
そう言うと少女はテーブルにトレイを置くと、慣れた手つきでカップに薬草茶を注いだ。
清涼感のある香りとともに、ほのかにシナモンの香りが漂う。
「少しぬるめに淹れています。温かいうちにどうぞ」
甘い香りに誘われたのか、ザックがゆっくりと顔を上げた。
バートの用意した胃薬と薬草茶はかなり苦かったらしく、ザックは初めの服用以降、痛みでどれだけのたうちまわろうと絶対に口をつけることはなかった。
「いい香りがする」
「安心してください。苦くありませんよ」
少女の柔らかな笑顔と優しげな声に促されるかのように、ザックはおずおずとカップを手に取った。
ゆっくりとカップに鼻を近づけ、少しの間を置いて口をつけた。
「甘い」
ぼそっとザックが呟いた。
「これなら飲めそうですか?」
「飲めそう」
歳の差など殆どなさそうなのに、ザックはまるで子供のように答えた。
少女はにっこりと微笑んだ。
「よかった。はやく良くなるといいですね」
「自己紹介が遅くなり、申し訳ありません。わたしがこの宿の店主をしております、ヒロと申します。昼間は所用で店を開けておりましたので、ご挨拶が遅れてしまいました」
ザックが黙々と薬草茶を飲んでいる間、ヒロと名乗った少女は慣れた様子でバートに挨拶をした。柔らかな雰囲気とは打って変わり、ヒロのあまりに堂々とした振る舞いにバートは少し驚いた。
「バートだ。こっちはザック。これからしばらく世話になると思う。迷惑をかけるつもりはないのだが、その、もしかしたら色々と無茶を言うかもしれないが、よろしく頼む」
無茶を言うのは自分ではないが、という言葉をバートは飲み込んだ。
ヒロは口元に手を当ててふふっと笑った。
「遠慮なくなんでも申しつけてください。厨房を担当しているのは、弟のリュカです。使用人はわたしと弟のふたりだけですが、お二人が快適に過ごせるよう、心を込めておもてなしいたします」
「とりあえずは、温かいお風呂をご用意しますね。お連れの方の様子からして、天体観測は明日の夜の方が良さそうです」
そう言うとヒロは軽く会釈して軽やかな足取りで2階へ駆け上がっていった。
素朴ながらも温かさを感じられる料理に、温かい風呂。
穏やかな店主。
落ち着いた雰囲気の食堂。
悪くない休暇だな、とバートは思った。
ザックは薬草茶を飲み終えて、いつの間にかうつ伏せたままうつらうつらし始めていた。
ついさっきまで「うう」やら「ぶう」やら呻いていたとは思えないほど穏やかな表情をしていた。
バートは小さくため息をついた。
しばらくこのまま寝かせてやろう。
どうせ今夜はもう風呂に入って寝るだけだ。恐らく明日も予定などないだろう。
バートは紅茶を一口啜って窓の外を見た。
店内から漏れる明かりのせいで星は見えなかったが、道ゆく人々は皆、望遠鏡を手に歩いていた。
明日は星の川を見ることができるだろうか。
いつの間にか、星をみることを心待ちにしている自分がいることに、バートは少し驚いていた。
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