第19話 整髪料ってなに使ったらいいか迷うよね

「夕愛の家に……?」

「大丈夫ですよ。お兄ちゃん、仕事でいないし」

「それ大丈夫じゃないだろ! いや大丈夫なのか? 分からん!」


 いなかったら倫理的にやばいし、いたらいたで気まずい。


「というかなんで夕愛の家に」

「お兄ちゃん美容師だから道具とかけっこうあるし」

「な、なるほど」


 非常に理にかなった提案だった。色事に直結した俺の脳がどうかしていたらしい。


 夕愛は怪訝な顔をした。


「なにきょどきょどしてるんですか? ――あ、もしかして……」


 どきっ!


 またからかわれるかと身構えたが、予想に反し夕愛は気まずそうな顔で言った。


「怖がらなくて大丈夫ですよ。もう襲いませんから」

「あ、うん……」


 夕愛は恥ずかしそうに手をもじもじさせた。


「まあ誠汰くんが襲いたいなら話はべつですけど」

「いやそんな気ないから!」

「……ないんですか」


 と、悲しげに眉を歪める。


「い、いや、ない……わけじゃないけど、倫理観とか理性で抑えこめるから」

「ならいいです」


 ほっとしたように微笑む。


「念のためにドラッグストアで買い物していきますか?」

「いやしない!」


 準備万端だと決意が揺らぐ。


 俺たちはドラッグストアには寄らず、まっすぐ夕愛のマンションへ向かった。





 夕愛の住むマンションのリビング、その真ん中で俺はイスに座っていた。身体にはケープをまとい、床にはレジャーシートが敷いてある。


「ちょっと毛先を整えるだけですから」


 と、夕愛はバリカンのスイッチを入れた。


 ――思ったより大事おおごとになった……。


 似合う髪型とその整髪方法を教えてもらえるだけでよかったんだが。


 夕愛は俺の髪をき、櫛に添わせてバリカンの滑らせる。縁が返しになっているケープの溝に切れた髪が落ちていく。彼女の動作はよどみなく、手慣れた様子だ。


「うまいな」

「たまにお兄ちゃんの髪を切らせてもらってるから」

「美容師になるの?」

「まだ分かんない」


 なんて話しながらも手は止まらない。鼻歌でも歌いだしそうな機嫌のよさそうな顔だ。


「はい、できた」


 十五分くらいで散髪が終了する。鏡を見せてもらうと幾分すっきりとした印象になっていた。


 夕愛はブラシで俺の頭やうなじを払い、ケープに溜まった毛を集める。後処理も手早い。


 感心しながら見ていると、彼女は集めた毛の一部をつまみあげ、ジッパーのついたパウチに落とし、密封してポケットに入れた。


「いやいやいや! 今のなに!? 流れるような動作でなにやってんの!?」

「なにが?」

「俺の髪を回収しただろ」

「違う違う。誠汰くんの思ってるような変な理由じゃないから」

「じゃあなんなんだよ」

「ちょっとまじないに使おうと思っただけ」

「思ったとおりだったよ!!! あと『まじない』って言うな。『お』をつけないだけで呪術感がすごいから」

「誠汰くんはナイーブだなあ」


 なぜか俺が呆れられた。理不尽すぎる。


 掃除が終わり、整髪に入る。


「どんなふうにする?」

「今の若いひとっぽく」

「若いひとのセリフじゃないね」


 夕愛はくすっと笑う。


「じゃあちょっと前髪上げてみる?」

「それで」


 霧吹きで髪を濡らし、ドライヤーを当てながら髪に癖をつけていく。七三で髪を分け、前髪を上げ、横に流す。


 前髪が額にかからなくなっただけで、顔の印象が明るくなったような感じがする。


 夕愛はドライヤーを置き、整髪料を手にとった。


「誠汰くんは毛の量が多めだからグリース系のほうがいいね」

「そういうもんか?」

「ツヤが出たほうが髪のボリューム感が軽くなるんだよ。逆にボリュームのないひとはマット系でツヤを消したほうがいいの」

「へえ」


 さすが兄が美容師なだけあって詳しい。そういえば前にお兄さんに会ったとき、俺はマット系のワックスを使っていた。だから余計にぼさぼさ感が出てしまっていたのかもしれない。


 手に伸ばした整髪料で毛を立たせるようにしてスタイリングしていく。


「……」


 夕愛は無言だ。さっきまで上機嫌だったのに、今はなぜか表情が冴えない。


「どうした? まさか、失敗……?」

「え? 失敗はしてないよ」

「じゃあ体調が悪くなったとか」

「それは大丈夫。ただ……」

「『ただ』?」

「……ううん。なんでもない」


 夕愛はくちびるを結び、黙って作業をつづけた。


 ――……?


 急にどうしたのだろう。プロの美容師である兄との実力の差を痛感した、とか? 身体の不調でないならひとまず安心ではあるが、ちょっと気になった。


 毛束を作り、最後にスプレーで固定。


「はい、できた」

「おお……」


 髪のもっさりとした印象が軽くなっている。


「すごいな!」

「ありがとう」


 と、視線をそらす。照れくさそうであり、でもやはり表情は曇っているように見えた。


「ほんとに大丈夫か?」

「う、うん。大丈夫」


 そう言って微笑む。


「それより、セットの仕方は覚えた? 今度は自分でやるんだよ」

「大丈夫、だと思う。あ、帰りに整髪料を買っていかないとな」


 新しい自分に生まれ変わったような感じがして気分が高揚している。


「よかったら今度ZUに付きあってくれないか? 服の見立ても頼むよ」


 テンションの上がった勢いでデートの誘いまですんなりと口から飛びだした。夕愛はちょっとびっくりしたような顔をしたあと、微笑んで「いいよ、行こ」と言ってくれた。


 ジュースを出してもらい少し会話を楽しんでいると、窓の外が暗くなりはじめた。秋ともなると日が落ちるのも早くなる。


「そろそろ帰るよ。今日はありがとうな」

「……うん」


 玄関に向かい、上がり框に座って靴紐を結んでいると、いきなり俺の背中に夕愛がのしかかってきた。


「な、なん……!」


 彼女の腕が俺の胴に回される。肩甲骨のあたりに弾力豊かなふくらみが押し当てられる。


「ど、どうした、いきなり」


 夕愛は俺の肩に顎を乗せ、耳元で言う。


「久しぶりのチャージです」

「そういやそうだな。復活したのか?」


 俺の問いには答えず、彼女はぽつりとつぶやくように言った。


「わたし、誠汰くんのカノジョですからね」

「……うん? うん……」


 夕愛は抱きついたままだ。背中に感じる魔性の感触を味わいつづけたいという欲望と、今この場にお兄さんが帰ってきたらぶち殺されるかもしれないという恐怖がせめぎ合う。


「あの……、夕愛?」


 夕愛はとうとつに身体を離した。振りかえると、いつもどおりの明るい笑顔がそこにあった。


「じゃあ、今度の休みにデート、ですね」

「うん、頼むよ」

「頼まれた」


 と、歯を見せて笑った。


 マンションを出てからも夕愛のおかしな言動が少し気になっていたが、ヘアスタイルを変えたことによる高揚感とデートの約束をとりつけた自信がそれをかき消した。


 高校に入学して以来、もっとも軽い足どりで俺は帰途を歩いた。

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