武蔵野の風
永嶋良一
武蔵野の風
私は古い商店街をとぼとぼと歩いた。疲れていた。今日も就職探しがうまくいかなかった。今日の会社は書類審査を通って、久しぶりに面接まで進んだのだが、人事課長が面接の最中に「書類審査をもっと厳しくしないといけないな」とつぶやいたのだ。打ちのめされるとはこのことだった。
もう、何十連敗だろう。私はため息をついた。私は来年卒業する女子大生だ。クラスの友人たちはみんなもう就職が決まって、卒業旅行にどこにいこうかと騒いでいた。私一人だけが就職未定者だった。一人世界から取り残された気分だ。
もう、どこも私を雇ってくれないのだろうか? 私は世の中に必要とされていないのだろうか? そんな思いが切々とこみあげてきた。惨めだった。
ふと、眼を上げると、喫茶店が見えた。真新しい外装が眼を引いた。モダンな白壁に『喫茶
小さな喫茶店だ。左に4人掛けのテーブルが二つあって、右に5人掛けのカウンターがあるだけだった。カウンターの中には、ちょび髭を生やしてチョッキを着た中年のマスターがいた。客はいなかった。
「いらっしゃいませ」
私は黙ってカウンターに座った。メニューを見ようとして、私はメニューがないことに気づいた。
「マスター。メニューはありませんか?」
マスターが笑った。
「うちはメニューがないんですよ」
「えっ」
「うちはお任せの店なんです。お客さんが一番癒されるものを提供するんですよ。お任せでよろしいですか?」
喫茶店でお任せとは珍しい。私は気のない声で答えた。
「ええ。お任せでお願いします」
マスターはカウンターの中で何かごそごそやっていたが、やがて、黄緑色のグラスを私の前に差し出した。私の見たことがない飲み物だった。
「これは何ですか?」
「武蔵野の風という飲み物です」
「武蔵野の風?」
変わった名前だ。ご当地の武蔵野にちなんだ新しいカクテルだろうか? 私はグラスを見つめた。
グラスの中に畑が見えた。畑のまわりに木々があった。木々の葉が色づいて、風に散っていた。
気がつくと、私は林の中にいた。雑木林がどこまでも続いていた。風が吹いて、まわりの木々から枯れ葉が落ちてきた。足元は枯れ葉で埋まっていた。木漏れ日が何筋かの光になって木々の間から差し込んでいた。静かだった。誰もいなかった。
私は雑木林の中を歩いた。道はなかったので、枯れ葉の上を歩いた。就職面接用にヒールの高い靴をはいていたが、歩くとヒールが枯れ葉の中に沈んだ。枯れ葉が音を立てた。
ここはどこだろう? 私は周りを見まわした。さっきから、歩いても歩いても雑木林ばかりだった。
しばらく歩くと、木の切り株があった。私は切り株に腰かけて休んだ。私自身の足音が途絶えると、雑木林の中に静寂がやってきた。さら、さら、さら、さらという風の音が聞こえた。私は頭上を見上げた。枯れ葉が数枚落ちてきた。それきり、何の音もしなくなった。
遠くの空を鳥が群れをなして飛んでいくのが見えた。突然、私の後ろでドサッと音がした。見ると、栗のイガが三つほど転がっていた。破れたイガの隙間から、もう十分に熟した、というより熟しすぎた栗の実が見えていた。
また、音のない世界になった。いや、私には音は聞こえていた。木々の間を風が通るときに、木々が風にこすれる音が聞こえた。遠くで、枯れ葉が風に鳴る音がしている。どこかに池でもあるのだろうか? 何かが水に落ちるかすかな水音がした。空を見上げると、大きな鳥が飛んできた。鳥が羽ばたく音が聞こえたような気がした。
それらの音がハーモニーとなって、林の中の静けさを増長していた。ここには自然の息吹があった。私は悠久の自然を感じた。この林は何十年も、いや何千年も、このままだったのだろう。変化は止まっているのか? いや、変化はゆっくりと続いているのだ。私の身体が林と一緒になった。私は林の一部となって息をしていた。自然に包まれた。任せておけばよい。そんな声が聞こえた。あくせくすることはないのだ。自然が私をあるように導いてくれる。
・・・・・
私は気がついた。『喫茶 癒』の中だった。眼の前に、あの黄緑色の飲み物があった。武蔵野の風だ。私はまだ口をつけていなかった。
「いかがですか? 武蔵野の風は?」
マスターの声がした。私は答えた。
「ええ。すっきりしました」
「そう。それはよかった。いつでも、来てください」
「ええ。疲れたら、またお邪魔します」
私はそう言って、カウンターから立ち上がった。
了
武蔵野の風 永嶋良一 @azuki-takuan
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