2020.10
≪GT-04 -夜の街クライシス- 1/5≫
無人のオフィスに明かりが灯る。
やってきたのはラフな私服姿の護摩堂リョーコ。
支給されているノートパソコンの電源を入れ、マスクを外して机の上に置いた。
リョーコはパソコンが起動している間に化粧室へと足を運ぶ。
化粧室の鏡で身だしなみを整え、スマホを取りだし、動画ファイルを開いた。
「まま、おしごと、がんばってね」
画面に映っているのは、息子である。
よし、元気出た。とつぶやき、リョーコは微笑む。
「ママ、今日も一日、がんばるからね!」
リョーコは鏡の前で両手を胸の前で構えて、気合を入れた。
リョーコがオフィスへ戻ると同時に、マスクのショウが両手にいっぱいのレジ袋を持ってやってきた。
「どうしたの、それ」
「どうしたもこうしたも無いですよ、やっと買えるようになったんだから。消毒液とかうがい薬」
ショウはマスクをアゴに下ろして、使っていない机の上にドサリとレジ袋を置き、椅子にすわってパタパタとワイシャツを開いて扇いだ。
「あーもう、あづい。エアコン下げてもらっていいですか」
「そんなに一度に買わないで、必要な分だけ買ってくればいいのに」
リョーコは壁に設置してあるパネルでエアコンの設定温度を下げる。
「またいつ無くなるかわからないじゃないですか。それにこまめに買うとレジ袋がもったいない。もう無料じゃないんだし」
「まあ、このご時世に有料ってのはやることじゃないわよね」
「地球は今、泣いているんですよ。そして俺の全身も今、泣いています」
上着のジャケットを脱いだショウの背中のシャツは汗でずぶ濡れだった。
「環境の話を出すならエアコン使っちゃダメなんじゃない」
リョーコはパソコンのキーボードを操作して、朝の出勤打刻を行った。
「環境よりも俺の命、そして仕事の効率性ですよ。……汗で濡れて気持ち悪いんで、脱いでいいですか」
ショウが椅子から立ち上がると椅子の背もたれも汗で濡れて、色が変わっていた。
「お好きにどうぞ。私達二人しかいないんだし」
「ありがとうございます。じゃお言葉に甘えて」
ショウはシャツを脱いで、上半身、裸になった。
脱いだシャツで汗を拭い取っていく。
「ちょっと。タオルとかハンカチとかないわけ?」
ショウは脱いだシャツを指で指し示す。
「着ればシャツ、脱げばタオル。人間、固定観念に縛られちゃあいけませんよ」
「固定観念……ね」
リョーコはあきれて笑う。
「ところでどうですか、この筋肉。最近、外にも出歩けないから筋トレがはかどってはかどって。見てください、この腹筋シックスパック!」
ショウはムンッと上半身に力を加えて、筋肉をアピールした。
「そのご自慢の筋肉。カメラか動画で撮って、SNSに公開してあげようか?」
「やめてくださいよ。そんな恥ずかしいこと」
ショウはバッとシャツで自分の裸体を覆い隠す。
「なんで?」
「そんな趣味ないですよ! 身内ならともかく全世界に自分の裸体を晒すとか。ボディビルダーじゃないんだから」
「そこまでバカじゃないか。お姉ちゃん、常識的な弟を持ててうれしいわ」
ニッカリと歯を見せてリョーコは笑った。
「バカにしないでくださいよ!」
「上半身裸だけどアゴにはマスクってのも、常識にとらわれない新しい価値観の創出よね」
ショウは言われて改めて、自分の恰好を見渡す。
「いやん」
ショウは改めて恥ずかしがった。そして、ブエックションとくしゃみをした。
「センパイ。エアコン温度、やっぱ戻していいですか」
「風邪ひかないでよ」
リョーコはあきれつつ、エアコンのパネルを操作するため、再度席を立つのだった。
机のノートパソコンに向かう、リョーコとショウはマスクをしていない。
ただ誰かがオフィスにやってきたり、お手洗いで席を立つときなどはマスクをするようにしていた。
ショウはリョーコから借りた上着、パーカーを羽織っていた。
出勤時に着用していたシャツとジャケット、それと汗でずぶ濡れだったマスクも扇風機の前で乾かされていた。
感染対策ということでオフィスの至るところに扇風機とサーキュレーターが設置されている。
扇風機は一般的に涼をとるために風を送るもの。
サーキュレーターは空気自体を循環させることを目的しており、エアコンなどの冷暖房装置を効率よく利用するためのものであり、扇風機とは厳密には用途が異なるものである。
「私の上着を貸してあげるから羽織ってなさい」
リョーコはそう言って、椅子の背もたれに掛けていた自分の上着のパーカーをショウに渡した。
ショウは暑がりだと人から言われる。ショウ本人にはその自覚は無い。
だが自分基準の室温だとリョーコには寒いらしく、昼頃辺りからリョーコがパーカーを羽織ってパソコンに向かうのが日常の光景だった。
過去に仕事をしていた時は、問答無用で室温はリョーコ基準だったのだが。
「今の私は契約社員。正社員のあなたに合わせるのが当然でしょ」
カラーリングもピンクピンクではないもののやはり女性向けのソレであり、サイズは大き目サイズのため着用自体はできるのだが、やはり袖を通すと女装感が感じられてしまう。
いつかの繰り返しになってしまうが、ショウには決して女装をしてみたいというような願望は無い。決して、無い。
なのでショウは袖を通さずあくまでパーカーを背中から羽織るだけである。
そもそも上半身は今も裸であり、なんでこうなったと思わざるをえない。出勤時にたまたま消毒薬とうがい薬が店頭に並んでいたのを見て、衝動買いをしてしまったのが原因ではあるのだが。
「なんでうがい薬がコロナに効果あるとか言っちゃったんですかね」
「府の知事の話?」
頬杖つきながらのショウのつぶやきにリョーコが反応する。
「そうですよ、結局科学的根拠に乏しいらしいじゃないですか。それどころか一時的にウイルス除去ができることで、本来陽性判定が出るべき人が陰性で潜り抜けられるんじゃないか。って疑念まで出てる」
「まあこの混乱時なんだから色々な事を言う人が出るのは仕方ないんじゃない」
「でも知事ですよ?」
「だからでしょ? 自分の発言に多くの人達が右往左往するのが面白くてたまらない」
「……所詮、政治家なんてそんなもんですかね」
「府ではタワーの色を変えて府民に向けて告知とかやってるみたいだけど、どうなのかしらね」
「もっと実態を反映して効果のある政策を打ってもらいたいもんですね」
「無理でしょ。それがわかってたら、わざわざ口にしないわよ、うがい薬がーって。程度が知れるわね」
「厳しいですね」
ショウは手元のペットボトルのお茶を口にした。
「現実は直視しなきゃ。政治家は―――少なくともうがい薬知事は頼りにならない。みんな、このコロナ禍をどうにか必死に生き抜いているのに、ね」
ショウは口の中に含んだお茶を飲み干す。
リョーコもショウと同じようにペットボトルのお茶を口にした。
「……
ぼそりとショウはつぶやく。
リョーコは答えず、ただ頬杖をつくしかできなかった。
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