第76話 桃の花が咲いた頃

 甘い花の香りが立ち込める庭園にて、福と紫乃は二人密かな花見を催していた。


「桃の花が満開でございます」


 紫乃は着物の裾を押さえ、桃色の花に手を添えた。

 花見と言えば桜が定番であろうが、此度の主役は桃であった。


「ほう。麗しいのう」


 傍で感嘆の声を上げる福。何か思い出す様に目を細め、微笑した。


「もう一年か」

「あっという間ですね」


 二人は桃の木をそっと見据える。

 桜よりも色濃い花を咲かせ、一足先に春の陽光を浴びるその花を目にし、自然と思い出すのは一年前この大奥を去った桃子であった。


「紫乃、桃子と文のやりとりは続いておるのか」


 福は傍の紫乃に目配せる。滅多に外出が許されない大奥にて外の者との通信手段は唯一、手紙のやりとりであった。桃子の近況を知りたくば文を交わす紫乃を頼りにするしかない。

 しかし、紫乃は眉を下げ困った様に微笑する。


「実のところ、近頃、返事がなくて…」


 どうやら、ここ最近やりとりが途絶えているらしい。

 福は初めこそ目を丸めて驚きを見せたが、次第に綻びに変わる。


「桃子の事じゃ。相変わらずであろう」


 城下で何か目新しいものに飛びついているに違いない、と思ったのである。するとそんな福の考えに紫乃は笑う。桃子に何か不吉な事が起きたのではないかと不安を感じていた心がスーッと晴れた。


「左様でございますね」


 紫乃は今一度、桃の木を見上げる。芽吹いた花々は笑いかける様に揺れていた。



 ***



 一方その頃、城下のとある場所でも、うららかな春らしい黄色い声が飛び交っていた。町人達が何や何やと目配せる先には頬を赤らめた娘達が何かを囲うように集っている。


「きゃー!桜十郎おうじゅろうさまー!」

「こちらにも微笑んでー!」

 と娘達は声高に、その桜十郎という人物に言葉を投げかけていた。


 そんな娘達の声援に応えるように彼は控えめな薄い唇に三日月を描いた。途端に娘達は琴線が弾け切れた様な歓声を上げる。

 この桜十郎という、百合の花も似合う青年は、つい最近、上方きょうとから江戸にやってきた歌舞伎役者であった。


 身体の線が細く、女物の着物が良く似合い、顔立ちも紅をさせば一瞬にして華やぐ、まさしく美男子である。

 陽に焼けた肌に汗を流し、忙しない江戸の男と打って変わって、雅な文化が栄えた京の香り漂う桜十郎に江戸の娘達は夢中なのだ。


 そんな瞳にハートを浮かべる娘達の群がりを少し離れたところで見据える一人の女がいた。

 桜十郎はその女を目にすると、とびきりの笑顔を彼女だけに向ける。まるで二人だけの秘話ごとがある様にみえる。


「桃子!」

「桜十郎〜!」


 桜十郎は桃子の方へ駆け寄る。目の前にやってきた美男子を桃子はうっとりと見つめる。

 そう、見て分かる通り、桃子は歌舞伎役者、桜十郎にお熱なのだ。


「桜十郎、お腹空いたでしょ?何食べたい?」

「団子でも食べたい。茶屋に行こう」


 そうして二人は最近出来たという茶屋へ向かった。


 近頃、江戸では歌舞伎や浮世絵など芸術文化が栄え始めていた。しかし、まだ芽吹いたばかりである為、芸事を極める者達の懐事情は芳しくない。

 それは娘達を虜にする歌舞伎役者も変わらず。


「桃子、いつもすまないな」

「ぜーんぜん気にしないで!桃、桜十郎が江戸でもやっていける様にサポートするからね!」


 申し訳なさそうに眉を下げる桜十郎に桃子はどうてことない様に笑いかける。桃子にとって彼に貢ぐ事は痛くも痒くもない話なのだ。

 新たな着物が欲しいと言えば共に呉服屋に赴き新調する。女形おやまである桜十郎は化粧道具も必須だ。無論、桃子が買い与えるのだ。それが桃子にとって至福なのである。

 つまり現在、桃子は絶賛、推し活中なのである。


 ここで改めてタイトルコールを記そう。

「ホス狂は江戸時代に転生しても推し活を辞められない」



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