第66話 家光との距離

 ある晴れた日。

 大奥、七つ口にて一人の女の声が怒涛に響き渡っていた。


「えっ⁉︎ちょ、まって。煙草ないの!?なんで!?」


 むりむりむり、と気が狂ったかのように声を荒げているのは無論、桃子である。その傍では紫乃が宥める様に桃子の裾を引っ張るが、桃子は動じない。

 詰め寄られる商人も、とほほ、と額から汗が滴る。


「桃、三日我慢した。今日、やっと吸えると思ったの!なのに、ない!?え、なんで」


 商人は、そちらの方が内部の人間なのだから知っているだろうに、と言いたげな表情である。


「将軍様が耕作の禁令を出したんだ。どこの農家もたばこの栽培を辞めちまったんだよ」


 ついに水面下で密かに売買されていた煙草が摘発されたのだ。庶民の嗜好品として親しまれていた煙草は今ではすっかり町で見かけることないものになってしまっていた。

 桃子はフツフツと苛立ちが湧き上がる。三日吸えていないせいでもあるのか。


「まだ値上げの方がマシなんだが!」


 自室に戻った桃子は口の中で転がすカラフルな塊をぼりぼりと噛み砕きつつ怒りを露わにした。ちなみにこれ、仕方なしに購入した金平糖である。


「そうですね…以前から煙草の栽培は問題視されてましたから…」


 紫乃も手のひらに乗せた金平糖を口に頬張りながら言う。

 煙草栽培によって懐の潤った農家が年貢米を納めることを拒むのでないかと危惧した幕府。これは今に始まった事ではないのだ。どちらかといえば、ようやく規制をかけたか、と幕府の対応の遅さに呆れる声の方が大きい。

 桃子は金平糖をぼりぼりと砕いては、口に放り込む。意外にもこの硬い食感と小気味よい音が癖になっている様である。


「ちよたんに直訴案件だわ」


 こうして桃子は家光との早急な対面を申し出てた。もちろん、桃子が急ぎで直接話したい、と言えば家光が他の執務を投げやりにし、桃子の要望を優先するのは目に見えてる。

 家光は何やら政に関する新たな閃きがあったのではないか、と期待を胸に桃子を迎えた。しかし、開口一番に

「煙草の規制、緩和してくれたりしない…?」

 と恐る恐ると言った様子で伺う桃子に家光ははっきりと

「それは、出来ぬ」

 と両断した。


 桃子は家光のあまりにも無慈悲な、はっきりとした物言いに唖然とした。桃子は、まるで反抗期を迎えた息子から棘のある一言を突きつけられた様な思いで、何を言い返すわけでもなく、放心状態で自室へと戻った。


 縁側に腰掛けた丸まった背中に紫乃は、はぁ、とため息を吐いた。一体、上様に何を言われたのか。紫乃はゆっくりと桃子の傍に腰をおろした。

 桃子は遠くを見据えながら言う。


「桃、初めてちよたんに反抗された気がする」


 これまで桃子の助言全てに素晴らしい、と称賛の声をあげていた家光。存在だけが取り柄のお飾り将軍ではなかったのだ。


「上様ももう立派な将軍様でございます。お国のことを考えて邁進してるのでございますよ」

「そうだね…」


 桃子は嬉しい様な悲しい様な複雑な心境であった。頭の中に記憶している竹千代の姿ももう薄らいでおり鮮明にはよぎらない。

 人は環境で変わっていくものだ。桃子はしみじみと実感した。

 そして桃子は気持ちを入れ替えたかの様に、

「そうだよね…!推しの成長は喜ばしい事!うん!」

 と半ば強引に納得せざる終えなかった。


「桃、金平糖で頑張ってみるわ」

「わたくしも、お供します」


 二人は顔を合わせて笑った。

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