第16話 大奥反乱⑥

 すっかり日は暮れに差し掛かっていた。二人は桃子の部屋へ戻った。


「紫乃、早く火、火つけて」

「お待ちください」


 途端に襖が勢いよく閉められた。一瞬にして部屋が真っ暗闇に包まれる。


「えっちょ、なになに」

 

 暗がりに人が素早く動く影と畳を擦る音が響く。


「イタッ」

 

 桃子は両腕を強く握られた。蜘蛛の巣にかかった様に身動きがとれない状態となった。


「紫乃!大丈夫!?紫乃ー!まじなんなん!」

「そなたは煩わしい。少し黙れ」


 女の冷たい声が桃子の耳を突く。桃子は聞き覚えのある声にハッとした。


「その声、玉緒?」


 暗がりに火が灯る。次第に目が慣れはじめ、桃子は暗がりに揺れていた者達——玉緒とその他の女中達を捉えた。

 桃子の目の前では冷水に浸かった様に真っ青な顔色を浮かべた紫乃が立ち尽くしていた。

 玉緒は紫乃の背後から肩に手をかけ、まるで悪魔が取り憑いている様であった。


「紫乃、妾はそなたに申したはずじゃ。この女をやらねば、そなたの命は保証出来ぬと」


 玉緒は紫乃の手に何かを握らせた。それは襖から差し込む月の光で鋭利な物だと認識できる。玉緒は紫乃に剃刀を握らせたのだ。そして耳元で囁く。


「さぁ、お紫乃。大人の女の儀式じゃ。これで桃子を傷つけるのじゃ」


 紫乃は震えた。体が動かない。

 グズグズとする紫乃に玉緒が怒りの声を上げる。


「やれ!」


 紫乃は、びくりと肩を跳ね上げた。ゆっくりと桃子に近づく。

 桃子の目に写る紫乃は酷く怯えており、桃子の胸をキツく締め付けた。

桃子はギリギリと歯を噛み締めた。


「紫乃!あんたそれでいいの!?武家の娘として恥じない生き方すんじゃねえのかよ!」


 紫乃は両手で剃刀を握る。その手はひどく震えながらも真っ直ぐと桃子に向いていた。

桃子の瞳がじっと紫乃の震える瞳を捉えている。紫乃は震える口で言った。


「桃子様…お家のためには仕方がないのじゃ…」


 桃子は愕然とする。玉緒はニヤリと笑んだ。これで桃子は終いじゃ、と心に思った時だった———


「しかし!」と紫乃が絞る様に声を上げた。


 玉緒の顔が険しくなる。


「わたくしは…!紫乃は…!こんな事しとうない!!!」


 紫乃は泣き叫ぶ様に声を上げた。途端に桃子も雄叫びの様に声を上げる。


「くそがぁぁぁぁ!!」


 その場にいた者全てが桃子の声に肩を震わせた。桃子は傍で腕を掴む女の足をここぞとばかりの力で踏んだ。女が痛みで腕を離した隙に紫乃の手から剃刀を取り上げる。桃子は狂犬の如く、玉緒の腹を蹴った。玉緒はよろけ、打掛の重みもあってか、仰向けに畳に倒れる。桃子は玉緒に馬乗りになり、腕を引っ張り上げた。


「痛い!何をする!」


 玉緒は抵抗するが敵わなかった。桃子は玉緒よりも遥かに華奢である。それでもこの時の桃子は怒りに身を任せ、普段出ないような力で満ちていた。

 玉緒は桃子の鋭く冷たい瞳に背筋が凍りついた。


「あんた、クズすぎん?自分の手汚さないで、こんなに真っ直ぐな子に何やらせてんの?」


 もう誰も桃子を止めることができなかった。桃子は玉緒の白い手首に剃刀の刃を立てる。


「知ってる?手首切ると痛いんだよ。生きた心地するけどね」


 玉緒の腕が小刻みに震える。


「深く切るとね、跡も残るし」


 桃子は玉緒の喉元に刃を寄せた。玉緒は呼吸を鎮めた。


「あたしはあんたの命が惜しくない。大事な子が嫌な思いしてんの。あんたのこと簡単に殺せるよ」


 玉緒の喉元に微かに血が滲んだ。


「止めろ…すまなかった…許しておくれ…」


 玉緒は小さな声で命乞いをした。


「なんの騒ぎじゃ!」


 声と共に多くの足音が近づいてくる。


「桃子!止せ。そなたが手を汚す必要のないことじゃ」


 福の声であった。福の声が珍しく微かに冷静さを失っていた。

 

 福は所用を終え、戻ってすぐに女中から騒ぎを聞きつけ、足早に駆けつけたのだった。

 福は玉緒に馬乗りになり、怒りに身を任せる桃子の姿に自身が想像していたよりも遥かに怪物めく存在を認めた。


「福!あたしはこの女が許せない!」


 桃子は玉緒の顔に吐き捨てた。玉緒は恐怖のあまり涙を流していた。それが返って桃子の怒りを激らせた。

 部屋に紫乃の乱れた呼吸と泣き叫ぶ声が響く。


「桃子、紫乃を別室に連れて行くのじゃ。後のことは福に任せよ」


 桃子が握る刃が玉緒の喉元に触れるか触れまいかの距離で揺れている。張り詰めた空気は皆が息をするのも躊躇う程であった。


 桃子は玉緒の首元から刃を離した。そして剃刀を握った手を振り上げる。玉緒は、ぎゅっと目を瞑る。畳に鈍い音が鳴った。桃子は畳に向かって剃刀を投げ捨てたのだ。


 玉緒を侮蔑する様に睨みつけ、紫乃のもとへ寄る。だらりと力の抜けた紫乃を抱きかかえ、部屋を出た。


 桃子が去ったのち、玉緒は糸が切れた様に泣き叫んだ。福はそれを憐れむ様に眺めた。瞳を閉じ、一つ息をつく。そして何か決した様に、情を捨てた瞳が玉緒を捉えた。

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