第4話 リョウ
「だから、死ね。」
女がそう言って地を蹴った瞬間、女の獰猛な顔が目の前にあった。
速い。
咄嗟に障壁を張った男が左腕を上げて頭を庇う。
障壁が砕かれ、男の左腕に女の右足が叩きつけられた。
軋む骨の音を聞きながら、男が右腕に握った短剣を女に振るったが、女はそれをしゃがんで避けると再び男に飛びかかってきた。
女の攻撃を避けるうちに、己の心がどんどん高揚するのが分かった。
この女は、娼婦でもなければ誰かに囲われている愛人でもない。
女の攻撃の隙を縫って男が短剣を振るうと、女はそれを後ろに飛んで避けた。
男は足元に落ちていた石を拾うと、それを女に投げた。
それに構うことなく、再び女が男に向かってくる。
そして。
男の投げた石が、女の顔で爆ぜた。
しかし、それは女の障壁に阻まれた。
女が少し目を丸くして足を止めると、少し後ろに飛んで男から距離を取った。
男が口の端を釣り上げる。
「お前、魔力持ちか。」
「いつ私が魔力無しだと言った?」
色無しだから魔力がないと思っていた。
だから、中途半端でちぐはぐな印象を受けた。
娼婦にしては鍛えられている体。
戦うにしては足りない体。
だが、魔力があるならば。
男が口を歪めて笑みを作る。
「いいな、お前。面白い。」
男がそう言うと、女も不敵に笑いながら言った。
「お前も面白いな。さっきのは正直ちょっと驚いた。」
女の言葉に男は一瞬黙ったが、すぐに口を開いた。
「俺はちょっとばかり付与魔法が得意なんだ。その辺の石ころでも付与できる。もちろんこの短剣にも。気を付けろよ?俺が短剣に付与したら、お前の障壁なんかあっさり抜いて首が飛ぶぞ。」
「それは怖いな。」
手の内を明かしたのが意外だったのか、女は少し驚いた顔をしたが、すぐに全く怖いと思っていない、愉快そうな口調で言った。
そんな女を見ながら、男は思った。
楽しいと思ったのはいつぶりだろう。
こんなに心が躍ったのは初めてかもしれない。
この女は同類だ。
自分と同類の女。
内心の悦びを押し隠し、男が聞いた。
「手の内を明かしてやったんだ。お前も教えろよ。」
女が虚を突かれた顔をした後、にやりと笑った。
「身体強化。」
「は?」
「それしかできない。」
今度は男が虚を突かれた。
無茶苦茶な女だ。
色無しなのに、アメジストのような綺麗な紫の瞳の女。
何の感情も浮かばない、静かな湖畔のような紫の瞳。
その瞳の奥にある、諦めと拒絶。
その瞳で躊躇いなく自分を殺しにくる女。
見つけたと思った。
この女だと思った。
この女の全てをこじ開けたいと思った。
たまらなく楽しくなって男が思わず笑い声を上げると、女が不服そうな顔になった。
少し唇を尖らせて、「魔力は多い方なんだ。身体強化だけでも強いぞ。」と言った女の顔を見て、なんだそんな可愛い顔もできるんじゃないかと、男は思った。
「悪い。そうじゃない。」
まだ少し笑いの残る声で男が言ったが、女は不服そうな顔をしたままだった。
「やっぱお前、俺とヤろうぜ。」
「私より弱い男にはヤらせないって言っただろう?」
「そうだったな。分かった。」
男が酷薄な笑みを浮かべた。
「お前が死ね。」
男が女に向かって飛び出し、女も再び獰猛な笑みを浮かべて駆け出した。
その後、2人は殺し合いを続けた。
5分か、10分か、それとも1時間か。
どれくらい時間が経ったのか男には分からなかったが、分かることはただ1つ、女が強いということだった。
既に左腕は折られた。
鼻も折られて、酷い顔になっているだろう。
あばらも折れているかもしれない。とにかく、あちこち体が痛かった。
だが、女の左腕も使い物にならないはずだ。
ついさっき切り裂いた。
男の短剣を避け損ね、切り裂かれた頬から流れる血で顔を汚した女が、壮絶な笑みを浮かべながら男の折れた左腕を蹴った。
激痛にバランスを崩し、後ろに倒れそうになった男に、すかさず女が飛びかかって圧し掛かる。
このクソアマ…!
激痛を押し殺し、内心で女を盛大に罵倒しながら、男も酷薄な笑みを張りつけて後ろに倒れ込みながら、女の太ももに短剣を突き刺した。
地面に仰向けに倒れ込んだ男の上に跨った女が、壮絶な笑みを浮かべたまま男を見下ろす。
女の足に突き刺さした短剣を握ったままの男も、酷薄な笑みを浮かべたまま女を見上げた。
短剣をつたって、女の血が男の腕を汚した。
幾ばくかの時間、2人はそうして見つめっていたが、唐突に女が口を開いた。
「お前、治癒魔法使えるか?」
「いいや。」
小さく頷いた女が立ち上がって男の体から退いた。
「私の家に行こう。一緒に住んでる奴がヒーラーなんだ。」
女の言葉の意味が分からず、体を起こしながら男が怪訝な顔をする。
「私とヤりたいんだろう?」
「…はあ?」
「なんだ、もう気が変わったのか?だったらこのまま続けるか?殺してやるぞ。」
「いや、ヤりたい。」
「だったら家に行くぞ。このままじゃヤれない。」
なんなんだこの女は。
理解が追いつかず、座り込んだまま男が女の顔を見上げていると、女はさっさと歩き出してしまった。
男も慌てて立ち上がると、少し足を引きずるようにして歩く女を追いかけた。
来たときとは違い、男と女は2人並んで言葉を交わしながら歩いた。
血まみれで、傷む全身を庇いながら。
「体中がいてえ。」
「私も痛い。」
「あちこち折りやがって。なあ、俺の顔どうなってる?」
女が男の顔を見上げて小さく声を上げて笑った。
「酷い顔してる。」
笑いながら見上げてくる、血で汚れた女の顔。
初めて聞く女の笑い声。
愛おしく感じた。
「お前強いな。こんなに痛いのは久しぶりだ。」
女の言葉に男は少し嫉妬を覚えた。
この女を痛めつけた奴が自分以外にいることに。
それを押し殺し、「お前もな。こんなにやられたのは初めてだ。」と男が言うと、女は嬉しそうにまた笑った。
血まみれの2人を、道行く人々がぎょっとしたような顔をして避けていく中、男は女に連れられて女の家に向かった。
30分程歩いて着いた女の家は、こじんまりとした古ぼけた2階建てのアパートだった。
そのうちの1部屋のドアを女が開ける。
小さなリビング兼ダイニングの向こうにある小さなキッチン。
部屋の左右にある扉は寝室へと続くのだろうか。
家の中を見渡しながらそう男が思った時、女が声を上げた。
「マリー?いるか?」
男が寝室だろうかと思ったうちの1つ、左の扉が開いて人が出てきた。
その人物を見て男がぎょっと目を瞠る。
出てきたのは、数日前に女と一緒に歩いた大男だった。
「トウコ、帰ったの?」
そう言った大男は、女の姿を見るなり野太い悲鳴を上げた。
「あんた!なんで血まみれなの!?…はあ!?その男!それあいつでしょ!?何やってんの!?」
喚く大男には構わず、女は家の中に入ると疲れたように床に座り込んだ。
「マリー、説明は後でするからとりえず治癒してくれ。この通り、切り刻まれて体中痛いんだ。」
「そんなの見りゃ分かるわよ!」
叫びながら大男が女の治癒を始め、目を細めて男を見た。
「…お前だな?トウコを痛めつけたのは。」
明らかに殺気を含んだ目で男を睨み付け、女に話しかける声とは違う低い声で大男が言うと、女が苦笑を浮かべながら口を挟んだ。
「私が先に手を出したんだ。殺すつもりだったけど、この通りだ。でもあいつも、ほら、ボコボコにしたから許してやってくれ。」
「あんたねえ!いい加減にしなさいよ!ホント何やってんのよ!っていうか!それならなんでそいつを連れ帰って来てんのよ!ちゃんと殺してきなさいよ!意味が分からないわ!」
「マリーにこいつのことも治癒してもらおうと思って。」
あっけらかんと言った女に大男が頭を抱える。
「な・ん・で、私がトウコを痛めつけた男を治癒してあげなきゃいけないのよ!ふざけんじゃないわよ!怒るわよ!」
「もう怒ってるじゃないか。頼むよマリー。」
大男が女を睨み付ける。
女は平然とその視線を受け流し、妖艶とも思える微笑みを浮かべた。
「マリー?頼む。」
微笑みと同じ妖艶な声。
男の背中がぞくりと粟立った。
ため息を吐いた大男が、男に近付くと睨み付けながら治癒を始めた。
男は酷薄な笑みを張りつけた顔で、大男の殺気の籠った目を受け止めた。
そんな2人を愉快そう見ながら女が言った。
「マリー、そいつを殺したいのは分かるけど、今日は勘弁してくれ。私はまだそいつに用があるんだ。だから、喧嘩するなら明日以降だ。」
大男は盛大にため息を吐いた。
男の治癒が終わると、女は立ち上がり「こっちだ。」と言いながら、大男が出て来た部屋の向かいにある扉に向かった。
男が女に付いて行くと、大男がまた悲鳴を上げた。
「トウコ!?どういうこと!?」
その声を無視した女が扉を開け、男を促すように体をずらした。
躊躇うことなく男は部屋に入った。
「まさかあんた!その男に用って…!」
「邪魔するなよ、マリー。」
大男の慌てたような声は、女が閉めた扉の向こうに消えた。
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