蒼き月の祓夢師

月見夜 メル

第0夜 邂逅 ~First Contact~

プロローグ

「はあっ……はあっ……!」


 走る。


 走る。


「はあぁ……っ!……はぁっ!!」


 人気の全くない、入り組んだ路地裏の闇の中を、自分に出せる限界の速度で、裸足のまま走り続ける。


 完全な真夜中。本来女子高生が出歩いていていい時間帯ではないのだけど、それを咎める人はいないだろう。


 と言うのも、私の中に“ここは夢の中だ”という奇妙な確信があったからだ。


「はあっ、はあっ……はあぁぁ………………」


 家と家の間の、狭い道にあったゴミステーションの陰へ、私は糸が切れた人形のように座り込む。早鐘を打つ心臓を押さえつけながら、なんとかして呼吸を整えようとした。


 夢の中にいることが自覚できる“明晰夢”という言葉を聞いたことはある。でもそれは、肺を刺すような空気の冷たさや全身の倦怠感、全く収まらない心臓の苦しさまで、こうもはっきりと再現出来るものなのだろうか。


 そして、何より、


 いつの間にか目の前に立っていた、の存在感を、ここまでリアルに伝えることが出来るだろうか。


 怪物は闇を形にしたような布状の物質で包まれた巨体を持ち、その中心に、としか表現することが出来ない異様に小さな頭部らしきものが埋まっている。漏れ聞こえてくる不気味なシュルルルル……という音は呼吸音か何かだろうか。


「――――――――」


 息が詰まる。


 目が自分の意思とは無関係に見開かれ、全身からドッと冷や汗が吹き出す。予想外の急接近に運動神経がパニックになり、ガクガクと膝が震えるばかりで何もアクションを起こすことが出来ない。


 何故、と、頭の中が疑問符で埋め尽くされた。この夢の中の世界で遭遇し、湧き上がってきた恐怖に従って一目散に逃げ出した。途中何度も振り返って付いて来ていないことも確認していた。それなのに――


 怪物は外套のような闇に覆われた腕を、おもむろに私の方へ伸ばして来る。隙間から見え隠れする枯れ枝のような細長い指は灰色の腐肉のような質感だが、完全なる無臭なのが逆に不気味だった。


 そこで私の脚がようやく1歩下がったが、背後には無情にも建物の外壁。


 逃げ場がない。その事実を認識し、呼吸と鼓動が一気に加速する。悲鳴を上げることさえ許されないまま、私は、なす術なく迫りくる指先を見据えて、




 ――次の瞬間、上空から降って来た蒼い流星が、外套の怪物をアスファルトへ叩き伏せた。




「……ぇ?」


 目の前で起きた光景に脳が付いていかず、私は呆けたような声を出すことしか出来なかった。


 うつ伏せに倒れた怪物の上には、女の子が立っていた。私より少し年下に見える、深い青色の燕尾服を着た女の子。肩に掛かった濡羽色の髪を優雅に払い、怪物の背中を冷めたような目で見下ろしている。


 女の子は、怪物の背中からフェンシングで使うような細い剣を引き抜くと、腰の鞘に納めながら路上へ降りた。次の瞬間、怪物はガラスの砕けるような甲高い音を立てて爆散し、跡形もなく消え去った。


「……大丈、夫?」


「え?……う、うん」


 差し出された手を取ると、知らず知らずの内に座り込んでいた私の身体は驚く程軽々引っ張り起こされた。華奢な見た目からは想像もつかない程、この女の子の筋力は強いらしい。少し動く度に身体から蒼白い光の粒子を振り撒いていることもあって、もしかしたら夢幻ゆめまぼろしの世界の住人で、現実の人間ではないのかもしれないなどという想像さえ浮かんでくる。


 それでも、差しのべてくれた小さな手の温度は、間違いなく本物だった。


「……ここはまだ危ない。わたしから離れないように」


 低く周囲を警戒するような声音での忠告に、私は激しく首を縦に振った。得体の知れない場所でようやく見えた光明だった。絶対に放す訳にはいかない。


「……こっち。付いてきて」


「わ、わかったよ」


 女の子に促され、私は彼女を追って路地の奥へ向かう。


 その矢先、女の子の進む先へ、さっきの怪物に輪を掛けて巨大な影が立ち塞がった。急ブレーキを掛けた私たちを、やはりという矛盾の塊みたいな表現しか出来ない小さな頭が見下ろしている。


「タイミングの悪い……」


 呼吸を詰まらせる私を後ろ手に庇いながら、女の子が剣を抜いて顔の横で構える。切っ先と視線の双方で、怪物を刺し貫くように。体格差は3倍以上ありそうだけど、女の子に臆する様子は欠片もなかった。


 全力で、私を守ろうとしてくれているのが、その華奢な背中から伝わって来た。


 残念ながら、私には怪物をどうにか出来る力はない。歯痒さを感じながら、私はせめて邪魔にならないようにと、近くの建物の陰に身を隠した。


 怪物の纏う闇が膨れ上がり、そこから枯れた大木のような4本の腕が姿を現す。次いで放たれた、住宅街を震わすようなおぞましい咆哮に、私は耳を押さえてアスファルトに膝を突いた。


「安心して」


 でも、その優しげな声は、塞いでいたはずの耳にもはっきり届いて来た。


 恐る恐る顔を上げると、女の子が構えている剣の、手を守るプレート部分に嵌め込まれた3つの宝石の1つが、星のような蒼光を放っている。


「すぐに……終わるから」


 その言葉の、直後。


 私は一瞬、月が降りて来たのかと思った。


「え……?」


 いつの間に現れたのか、怪物の眼前に銀光の粒子を纏う少年がいた。年は私と同じくらい。やややせ形で、銀の格子模様が入った黒いコートを緩やかにはためかせながら空中に浮かんでいる。


 突然のことに虚を突かれたような反応をする怪物へ、少年は手にした剣で瞬く間に数度の突きを放ち、その巨体を仰け反らせる。女の子のものとほとんど同じデザインのそれは、やはり蒼い煌めきを発していた。


「すまない、待たせた」


「ううん、そんなに待ってない」


 少年は重力を感じさせないフワリとした動きで路地に降り立つと、隣に並ぶ女の子と対になるように、剣の切っ先を怪物に向けて構える。


 直後に、2人の纏う空気が変わった。舞い散る粒子が激しさを増し、周囲へバチバチとスパークするような破裂音が響き渡る。


「――【蒼輝の一アイオライト・ワン】」


「――【完全同調フルシンクロ】」


 女の子の力ある言葉に少年が呼応すると、2人の持つ剣の光が弾けてその刀身を包み込み、


 次の瞬間、アスファルトを砕く凄まじい轟音を残して、蒼い煌めきが一瞬の内に怪物の胴体を突き抜ける。激しく撹拌された空気と衝撃波が路地を席巻し、後には抉られた道路と、身体の中心に巨大な風穴を開けた怪物が残された。


 それは正に、地上を征く彗星の顕現。


「――【流禍徹星ストリーム・ピアス】」


 完全にシンクロした動きで2人が剣を納めると、身体を貫かれた怪物はグラリと前方へ揺らぎ、アスファルトへ崩れ落ちると共に弾けて消えた。


 そこにはもう、何も残っていない。


「……ほら。すぐに、終わったでしょ?」


 呆けたように一部始終を見ていた私に微笑みかけながら、女の子は私を建物の陰から引っ張り出した。


 そこでふと、私は気付いた。


(……あれ?)


 女の子の服装が、変わっている。高貴そうな燕尾服ではなく、私も見慣れたセーラー服に。腰に佩いていた剣も見当たらない。離れた場所で遠くの空を眺めている少年も同様で、纏っていた銀と黒のコートがやはり見覚えのある学校の制服に変わっていた。


「さあ。夜が、明けるよ」


 女の子に促されて顔を上げると、夜空の一角が、俄に白み始めていた。それを見て、心の底から安堵感が湧き上がって来る。恐ろしい夜は本当に終わったのだと、ようやく実感出来た。


 同時に、自分の身体が端から透き通って行くという、奇妙な感覚も。


「え……え!?どうなってるの?」


「心配ない」


 動揺する私に、少年が顔だけを向けて声を掛けてくる。


「正常に、目覚めようとしている証拠だよ。……あんたは無事に夜を越えた。もう、こんな所に来なくて済むことを祈るよ」


 その言葉を最後に、少年は射し込んで来た日の光に融けて消えてしまった。


「元気で、ね」


「あ、ま、待って!!」


 少年の後に続こうとする女の子へ、私は必死に消えゆく手を伸ばす。


 まだちゃんとお礼を言えていない。


 名前だって聞けていないのに。


 けれど焦る唇はなかなか言葉を紡いでくれなくて、それが堪らなくもどかしい。


 そんな私の口元へと、女の子はおもむろに立てた人差し指を当てる。


「大丈夫。きっと、すぐにまた会える」


 女の子はそれだけ残して、陽の光に溶けていく。


 そして、私も、言い知れぬ暖かさを胸の奥に感じながら、夢の世界を満たす白の一部になっていった……

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