ビッグブラザーはあなたを見ていた

 羊の森??


 何なんだ羊の森とは?聞いたことがない

 

 「その様子だと、なんのことやらさっぱりという感じですかな」一つ足お爺さんは皺を寄せてそう言った。

 「その羊の森ってのは何なんですか?僕は聞いたことがない」

 「そりゃあそうじゃて、なんせ…なんですかな、あの世とこの世、彼岸ひがん此岸しがんの境の…」黄泉平坂よもつひらさかのことか?

 「そうじゃ、黄泉平坂、まぁそのような場所と似通った場所ですからな。この世の人間には分かりませぬて」

 「なるほど、じゃあ貴方も僕もすでにこの世の者じゃあないってことですか?」僕は若干震えながらも声高にそう言った。

 「正しくその通り、と言いたいところではありますがな、まぁ悶々とせねばならぬことがありまして、先程は黄泉平坂みたいな場所だとは申しましたが、あくまで例えであってそうではありませぬ。でしてそう簡単にここはどこであるとは言えませんて、やっぱりここは羊の森であるとしか儂には言えませぬ」一つ足お爺さんがそう言うと木々は揺れ、木洩れ陽もまた揺れた。


 それにしても冗談じゃない。なんで僕はそんな不思議な場所へと導かれたのだろう。目の前では一つ足で立っているお爺さんが居る。彼にしたって不思議だ。何処からともなく現れ、それでいてもうまともに立ってもいられなさそうな容貌ようぼうをしながらも、背筋が伸びていて一つ足で身体を支えているのだ。見た目では分からないが老年とは言えぬほどのよほど良い体幹を持っているのだろう。その立ち姿はどことなく中国の妖怪、キョンシーを彷彿とさせるような立ち振舞いで、それでいて僕に向かって禿頭が反射させた木漏れ日を振りかけるようにその首だけが曲がっていた。

 ふと僕は彼がどうやって音もなく僕の背後に現れたのか疑問に思った。思えばそうなのだ。僕が辺りを歩き回っているときには彼はいなかった。それどころかなんの気配もなかったはずの森に急に現れ、僕に声をかけたのだ。。僕がそんな謎に直面したと同時に一つ足お爺さんはただでさえ恐ろしげな顔をさらにしかめて僕の方を真っ直ぐ見た。それから「貴方様が気になっておられるのは儂が何者か?ですかな」と僕に向かってそう言った。


 「ならば、儂の話をせねばなりませぬ。少し長いですが聞いてもらえますかな?否、勿論貴方様は聞くでしょう」そう言って一つ足お爺さんは一つ咳払いをした。それから眼光を一瞬だけ光らせて、まるで修行僧のように瞑想し始めてしまった。これはルーチンワークなのだろう。


 ものの30秒ほどだろうか彼は目を瞑っていた。僕にとってその時間は101号室に閉じ込められたときのように悠久に感じたし、実際に時間は物理的に引き延ばされていた。スパゲッティ化現象のように。 


 そして引き伸ばされた時間の中、僕はお爺さんのことを努めて見ないようにしていた。それは一つ足お爺さんが見るに堪えないというわけでもなく、目を合わせられない(一つ足お爺さんは目を閉じていたが)というわけでもない。それは時計を見ると時間の進みが遅くなるのと同じように、一つ足お爺さんを見ると時間は悠大になると直感的に危惧したからである。そして僕もまた思索の森へと足を踏み入れることになる。しかし、ここで僕が向かった森で起こったこと(こればっかりは一から十まで僕の脳内で起こったことであるし、超自然的でもある)は今ここでまとめるにはあまりに長すぎるし、うまくまとまってもいないので、後に機会があれば語られることになるだろう。

 それよりもここで話題にしたいのが一つ足お爺さんが瞑想から覚める、少し前、僕が茫漠ぼうばくたる非現実的な思索の森から形而上けいじじょう足り得る暗喩的な羊の森に帰ってきた時に見たそれである。


 それはポスターだった。大きな顔写真がプリントされておりその顔写真の下に""と書いてあった。これはまさしくオーウェルの小説の"あれ"だ。僕は今監視されている。樹木から、自然から、超自然的な何者から。

 しかし、僕はそれを意に介さず極めて自然に振る舞っていた。気丈に振る舞うわけでもなく、何事もなかったかのように。調律のあっていないピアノを前にしても何も気づけない愚鈍者ぐどんしゃのように。実際、本当の意味で何もわかっていなかったのだろう。ホロコーストも皇民化もムッソリーニのことも


 そして、一つ足お爺さんが目を覚ます。実際的に言えば目を開く。大きく見開いたその目は青々とし、その冷冷たる覚醒を臆面もなく、ありありと僕に見せつけた。そしてそれと同時に僕の眼前に現れたはずのポスターはまるでハイエナに襲われた死屍ししのようにビリビリに引き裂かれた。そして人の目には捉えられぬほどまで分解され、まるで灰燼かいじんに帰した死体のようにそこに空白だけを残した。

 それを見届けた一つ足の老獪ろうかいおもむろに、そこにぽかりと空いた空白を埋めるかの如く口を開いた

 

 


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