羊の森にて

犬歯

一つ足お爺さんの言うこと

出会いとはベルヌイ分布に従う事象である

ここはどこだろうか。


 数刻前まで僕はある森を歩いていた。正確に言えば森というよりかは林道だ。決して道なき道を進んでいたわけでもなければ、獣道を進んでいたわけでもない。

 その林道は家から少し離れた場所にあり、よく見知った場所ではなかったが、概ね一本道であり、まさか迷うなんてことにはなるはずがなかった。


 しかし、現に今僕は道なき道を進む羽目になっている。林道がまるで蜥蜴の尾が無理やり引きちぎられたように途切れていたわけでもない。それから何かに引き寄せられたわけでもない。ただ僕がまるで幻覚でも見てしまったように、僕の知らぬ間に道から逸れてしまったのだ。あたりを見渡すと木漏れ日は淡く、大樹の群れが空を覆い隠そうとしている。眼前の光景から分かることは、ここは方向感覚を狂わせる場所なのだということだ。


 これ以上闇雲に進んでも仕方がないので、僕は一度立ち止まり大樹に背を預け、一休みすることにした。大樹は僕を支え、僕は大樹を支えた。大樹の生命力は僕を勇気づけてくれたが、僕はそのことに気付けないくらい焦燥に駆られていた。


どうしてこんなことになったのだろう


 僕は改めて自分に問いかける。しかし木霊するのは散歩していただけだという事実だけ、その他にはなにもない。強いて言うならこれが森の引力だということ。つまり僕は樹海に彷徨う亡霊のような、羊の森に彷徨う生霊いきりょうらしい。


 それからこれからのことについて考えた。なんとかこの森は出なくてはならない。しかしそう簡単な事でもない。そもそも僕の所在すら分からないのだ。闇雲に進めば絡まった糸のように複雑さは単調さからどんどん離れていってしまう。


では誰かに助けを求めなくては


 しかし、そう安安といくような話でもない。木々は空をほとんど覆い隠しているのだ。辛うじて届いた陽の光も風前の灯火のようにか弱い。それにもう夜になるくらいの時間のはずだ。狼煙なんてものは意味がない。。僕は本当に困ってしまった。絶望したと言ってもいい。


 さて、すっかり落魄らくはくの身と化した僕は、大樹にもたれ、顔をもたげる事も叶わないまま眠りこけてしまった。 

 今考えれば不思議なことだが、その眠りはとても深かったし、あたりは大樹があっただけで彼ら以外の生き物はいなかった。人も動物も虫でさえ。しかし彼はそういうことにすら気づかないほどやつれた様子で眠った。


 しばらく眠り、それから目を覚ました。その目覚めは嘗てないほどの目覚めで、ツァラトゥストラのそれと似たようなものだった。とは言っても僕もまた人間である。あの衆愚しゅうぐと違わないあの村人達と変わらない人間だ。神は不死身である。

 それから僕の心は綱から落ちた曲芸師のそれと変わらないようだ。張り詰めた糸がパチンと切れ、不安やら後悔などは消え去った。しかしそこに訪れたのは奇妙な心地よさだった。これはあまり良い傾向であるとは全く言えないと後に分かるが、快樂に溺れるがの如く、その心地よさは僕を満たした。要するに僕は考えることをやめた。そうして軽くなった腰を擡げ、辺りの散策を始めた。


 辺りを歩いていると、まるで自分が迷路の中を歩いている、そんな心持にさせられた。しかし安堵の快樂というのは、そんなことも奇妙さや不安さから僕を逃し、あろうことかゲームの様なものであると錯覚させた。メタファーとしての迷路はいつも苦難である必要があるにも関わらずだ。


 「おやおや、これは珍しい」大樹の生命力が溢れているとはいえ、他の生物の気配も、吐息すらも聞こえないこの場所で安心しきっていた僕は不意に聞こえた声にふと背を震わせた。そしてその声のした方(つまり自身の背後)をゆっくりと見た。そこには一本足で立っているお爺さんがいた。


 「驚かしてしまいましたかな。こりゃあ申し訳がないことをしたわい」その一つ足お爺さんは優しく微笑んではいたが、その顔は峭刻しょうこくとか化しており、優しく微笑むことでなんとか整合性を保とうとはしているものの笑みは皺を深くし、まるで海溝のような隔たりをそこに作った。


 「ところで貴方様はどこからやってこられたのですか?」


 「それが、僕にもわからないのです」僕はまるで昼鳶ひるとんびのようにそういった。一つ足お爺さんはそれを聞いて少し怪訝けげんな顔を見せたが、すぐにそれを引っ込めて「それは大変なことじゃ」といった。それからお爺さんの禿頭とくとうは木漏れ日を反射させ、辺りを照らした。僕はそれをみて少しにやけて、少し影を落とした。


 「これですかな?」そう言って一つ足お爺さんは自分の脳天を指して「いやはやもう年でしてな、立派なかつらでもこしらえてもらおうと思いましたがな、もう年ですからな、すっぱり諦めましたわい」と僕に向かって言った。しかしその顔はまるで諦めたような顔ではなく、まるで自殺した妻の事を語るような顔だった。僕はそれを適当な相槌を打ちながら聞いた。


 「それにしても」と僕は言った

 「はぁ、それにしてもですな」と一つ足お爺さんが言った


 「」と僕はいい

 「」と一つ足お爺さんが言った。


 それから一呼吸置いてお爺さんは「貴方様は自分の所在がわからないのですか?」と僕に向かって聞いてきたので、僕は「はいそうなんです」と言った


すると一つ足お爺さんは皺くちゃな顔をさらに皺くちゃにしてまるで肺が潰れた人のように笑い出した。


そして1分くらい笑い転げた後にふと黙ると辺りはまた沈黙の幕が下り、一つ足お爺さんの顔の皺も元通りになった。そして一つ足お爺さんはこう言ったのだ


 「ここはですな、という場所なのです」

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