第6話

 わずか数分の攻防で、鏡月の体力が尽きた。

 刀を握りしめたまま膝をついた若者に、ゆっくりと大男が近づく。

「随分と精進したようだが、まだまだだな」

 少しやり過ぎたかと思ったが、予想に反して鏡月は自分を見上げて睨んで来た。

 昔ならば、あまりに踏ん張り過ぎて、気を失うまで暴れ狂っていたものだが、自制は出来るようになったようだ。

 内心、弟子の成長に感動しながら、凌はしみじみと若者の目を見返した。

「……?」

 妙な感覚があり、思わずそのまま目を覗きこむと、鏡月は少しだけ身を引いた。

 先程から、光の加減で気のせいだと思っていたが、何かがおかしい。

 刀の異様さの方に気持ちが向いてしまって、若者本人が昔と違う事に、気づかなかった。

「お前、その目、どうした?」

 視点の合わない目が、凌の前で更に泳ぐ。

「お前、目を攻撃されても、すぐに回復するはずだろう? どうして……」

 顔を伏せてしまった若者を見つめながら、凌は別な若者の言葉を思い出していた。

 三週間ほど前に聞いた、少年を起こす方法の一つだ。

「重度の怪我を肩代わりすると、肩代わりした方の体力次第では、どこかに負荷がかかるんですが、眠りを覚ますだけなら手っ取り早いかもしれません」

 話を聞いて確かに手っ取り早そうだが、子供の精神面の衝撃は、意外に大人でも耐えられないかも知れないと、そう考えて凌はこの方法を使わなかった。

 体力面では兎も角、短気な方の自分では、精神面がどう出るか自信がなかったのだ。

 怪我の肩代わりが出来ないはずなのに、セイはよくそんな事知っていたなと、聞いた時は軽く感心しただけだった。

 こんな身近にその実例がいたから、知っていた事なのだとまでは、思わなかった。

 顔を伏せた若者を見下ろしながら、震える声を絞り出した。

「いつ、誰の肩代わりをしたんだ? まさか……」

 言いかけた大男を不意に見上げた鏡月が、そのまま立ち上がりざまに足を突き出した。

 初めてまともに、攻撃が決まった。

 渾身の一撃は、鳩尾に沈む。

 そんな一撃も耐えられない程に、凌は衝撃を受けていた。

 そのまま後ずさり、地面に座り込んだ。

 呆然と見上げた大男の顔に、仁王立ちした鏡月が刀の刃を突き付け、睨みながら吐き捨てた。

「それも、もうどうでもいい話なんだよっ」

 悲鳴に似た叫びだった。

「……そうか、そう言う事、か」

 ミヅキと仕合ったあの後、本当に死が近づいていたはずだったのに、結局朝には普通に目が覚めた。

 疲れもなく、妙に体が軽かったのは、このせいだったのだ。

 分かって見れば、不思議でも何でもない。

 単に、弟子の一人の視力を犠牲に、助かったにすぎなかったのだ。

 乾いた笑いが漏れた。

「……本当に、お前の言う通りだな。親としても師匠としても、最低な男だ、オレは」

「分かったなら、それでいい。謝る必要はねえぞ。これから、あんたには、オレの役に立ってもらう。……この子の、血肉となって、仇を討つ道具として生を全うしろ」

 静かに言った若者に頷き、凌は刀の刃に手を伸ばした。

 素手で攫み、己の胸にその先を向ける。

「一思いに刺せ。こんな最低野郎でも、苦しみたくはないんだ」

「……ああ。そうさせてもらう」

 微笑んだ大男を見下ろし、一瞬顔を歪ませた鏡月だが、すぐに刀を攫む手に力を入れ、心臓にその刃を体ごと押し込んだ。


 がっつりと、固い何かを打つ音が、しんと静まり返った草原に響いた。

 それだけだった。

「……」

 知らず目を閉じていた鏡月は、眉を寄せてさらに体重をかけて押し込む。

「お、おい、鏡月っ?」

 未だに生きている凌が、その余りに痛い状況に、悲鳴をかみ殺して呼びかけた。

「刃が、皮膚すら破ってないぞっ」

「そんな馬鹿な。さっき、鬼を数名斬ったばかりだぞっ」

「血で、滑ってるんじゃないのかっ?」

「そんなはずないっ。血肉全てを自分の体に吸収する、いい子なんだぞっ」

 それは、いい子だなと思わず頷いてしまってから、凌は更なる激痛に呻いた。

 そんな様子に、鏡月が目を剝き、刀に叫ぶ。

「こら、なんで食わないんだっ? ミズ兄が食えて、この人が食えないなんて、おかしいだろうがっ」

「な、何だとおっっ?」

 とんでもない事を告白され、目を剝く大男に構わず、若者は更に言う。

「ミズ兄を旨いと感じたんだったら、この人はもっと旨いぞっ。オレが味見したんだ、間違いねえっっ」

「おいっっ? いつだっ? いつ味見したっ?」

「だから、遠慮なく食えっっ」

 血生臭くない、絵的には優しい状況だった。

 綺麗な色合いの刀を、大男の胸にぐりぐりと押し付けながら言う言葉は、まるで子供に好き嫌いを咎めているように聞こえる。

「……子供のように、接していたのか。まあ、仕方ないな」

 水月は納得しながらも、頭を掻いた。

「そうか、オレは旨かったのか。なら、食われた甲斐もあったか」

 あの時は、そんな荼毘の付され方をするとは思わなかったが、役に立ったのならばいいかと思う。

 しみじみと缶飲料を飲み干し、風呂敷包に手を伸ばした時、焦った凌の声がようやく自分に呼び掛けた。

「こら、水月っ、それ、何本目だっ?」

「三本目だ」

「お前、成人したのか?」

「いや。だがこれは、ソフトドリンクだ。しかも、体に優しいが飲み過ぎると害になる、百パーセント果汁のジュースだ」

 砂糖は入っていないが、果物自体に糖分があるから、飲み過ぎは肥満の元だ。

 他には茶も珈琲もあるが、飲み始める前にこの見ものは終わったようだ。

 ようやく刀の刃を押し付ける鏡月を胸から引きはがし、凌が立ち上がった。

「ったく、あまりに強く押し付けられて、痣が出来そうな勢いだったぞ」

「……相変わらず、頑丈だな。胸板に罅すら入らなかったか」

 少なくとも初めの勢いは、その位の損傷がありそうな音だった。

 無理やり引きはがされた鏡月は、刀の刃を見下ろして呆然と呟く。

「……ミズ兄のことは、旨いと興奮してたのに、何で旦那は食わないんだ……?」

「こら、旨い旨い食った食ったと、連呼するな。照れるだろうが」

 真顔で窘める従兄に顔を顰め、若者は反論した。

「変な意味に取るなよっ。そんな意味合いの言葉じゃねえの、知ってるだろ?」

「そう言う意味に取らせたのも、お前だろう」

 何を言っているときょとんとした従弟に、水月は意地悪く続けた。

「旦那を味見と言うのは、そう言う意味だろうが」

「……」

 固まった若者の顔が、見る見る赤くなっていく。

 こういう素直な反応を、未だにしてくれるとは、嬉しい限りだ。

 緩む顔を隠さずに見守る水月の前で、鏡月は恐る恐る大男を振り返る。

 顔を顰めて胸をさすっていた凌が、固まっていた。

 いつもより全体的に白く感じるのは、周囲が暗いせいなのか、心境がそのまま表に出ているせいなのか。

 紫の瞳で若者の薄い瞳を見返した大男は、動かない口を無理やり動かすように、ぎしぎしと呼びかけた。

「オレは、旨くはない筈だぞ。人間は、色が濃い方が美味らしいし、大男は好まれない。女子供が主な的になると、聞いたことがある」

「そ、そんな事はねえってっ。あんたは、旨い男だっ。味見したオレが言うんだから、確かだっ」

 そっちかと心の中で突っ込む水月の前で、鏡月は激しく首を振りながら言い返す。

 それを聞いた凌は、ようやく先程の疑問を口にした。

「なあ、オレは記憶がないんだが……いつ、お前に食われかけた?」

 冬の最中に食糧が尽きかけても、何とか備蓄をやりくりしていたから、そこまで飢えさせた記憶がない。

 真顔でそんな事を言う凌に、水月はまた心の中で突っ込む。

 そっちに取るか。

 鏡月の方も、狼狽えて目を泳がせている。

 何とか取り繕って、話を逸らそうと考えを巡らせているのが、手に取るように分かるが、それをさせるほど水月の性格は優しくない。

 この際長年のしこりを払い、昔の様な仲に戻って欲しいと思うのだ。

 だから、遠慮なく凌に言ってやった。

「何を寝ぼけた事を言ってるんだ、この旦那は」

 切り出した従兄に、鏡月が慌てているが、構わず続ける。

「あんたも、この子を食った事があるだろう?」

「何を言って……」

 戸惑った大男は、途中で言葉を切った。

 含みのある言葉で、その別な意味に気付いたのだ。

 そんな大男を見ながら、男は意地悪く続けた。

「なら、この子も一度は、あんたを食う機会くらい、あったはずだ」

 頭を抱え込む鏡月を、凌は青褪めた顔で見た。

 珍しい光景だ。

 どんなに暴れても疲れる兆しを見せない大男が、倒れそうな形相で若者を見ている。

「い、いつだ? どんな女の時にも、記憶があったのに、何で、お前の夜這いには気づかなかった?」

「よ、夜這いじゃねえよっっ。夜這いは、ミズ兄と押し入った時が、最初で最後だっ」

 勢いよく顔を上げた若者から、凌は大きく後ずさった。

「じ、じゃあ、何で、そ、そう言う意味合いで、食うことができたんだっ? あの時はお前、味見するような余裕、なかっただろうっ?」

 何世紀も超えた過去の出来事をネタにした、痴話喧嘩だ。

 映像に残しておきたいくらい、面白い見ものだったが、そこまで楽しむ時間は無い。

残念に思いながらも、水月は別な事を始めていた。

 口ごもる鏡月に近づいてその手から刀を取り上げ、近くの樹木に斬り付けてみた。

 思ったよりもすっぱりと、樹木の胴が切れて思わず声を上げる。

「良い切れ味だ」

 感心した声は、ゆっくりと倒れる樹木の音に紛れた。

 刀を手にしたまま振り返った水月は、男の動きに気付き樹木の最期を見守ってしまった二人を見て、笑って見せた。

「何も斬れない、なまくらになったわけじゃあ、ないようだぞ」

「じ、じゃあ、何で……」

 返された刀に目を落とし、鏡月が呟く。

「水月より、味が劣ると思われたのか。それも何だか、悔しいな」

 真顔で呟く凌を、どんな得のある優劣だと睨んでから、水月は予想を告げた。

「ただの血縁と、直系の血縁では、違うんだろう。もしかしたら、刀自体が拒絶したのかもな。自分を作った片割れを、己の血肉にすることを」

 顔を伏せた若者が、刀の柄を握りしめるさまを見ながら、その従兄は優しく言った。

「その辺りの話は、これからゆっくりと、時間をかけて話して見るといい」

 そして、ベンチの方に近づいて風呂敷包みを持ち上げる。

「枯れた草の中でのピクニックも、偶にはいいだろう。味は折り紙付きの折り詰めだ。夜明けまでまだまだだ。これを食いながら、水入らずで思う存分話すんだな」

 言いながら風呂敷包みを凌に押し付け、水月は踵を返す。

 そのままその場を去ろうと思っていたのだが、受け取った包みを片手に抱え直した凌が、その腕を攫んだ。

「……爆弾発言を、するだけして放置して逃げる気か、お前は」

「悪いか? 後は、あんたとこの子の問題だ」

 やんわりと答える男に、大男は目を細める。

「経緯は分からないが、お前があんな訳の分からない呪いを受けた原因も、この話と係っているんだろう?」

「それについては、後でもいいだろう。この子の機嫌を直す方が、先だ。その為には、あんたの甘い言葉が、一番だ」

「……別に、今の状態で聞いても、鳥肌が立つだけなんだけどな」

 したり顔で言う従兄に鏡月は返すが、その声には力がない。

 色々な事情の整理を余儀なくされ、怒っている場合ではなくなり、事情説明と言う重要な事を担う責任で、戸惑いと不安が混じり合っているようだが、こればかりは自分が説明する訳には行かない。

「お前と旦那が話している間は、あの少年の方を見ていてやるから。回復の兆しがあったら、呼びに来る」

 言い訳として出した話に、鏡月が目を見開いた。

「少年? ああ、旦那が可愛がっていた子の事か」

「大沢忍という。いろいろ事情がある子で、少し気にかかっていただけで、別に子供代わりじゃあ、ないんだぞ」

 棘を付けたつもりはない筈だが、若者の言い方に何かを感じたのか、凌が慌てて説明する。

 本当に後ろめたく感じていたんだなと、苦笑する水月の前で、従弟が首を傾げた。

「セイが、三日ほど夜に見てたんだろ? その間、起きてないのか?」

「? 起きてないからこそ、これまで昼間は、オレが代わりに動いてたんだが」

「……」

 怪訝な顔をする大男を、鏡月はまじまじと見つめた。

 いや、そう見えるだけのはずだが、その瞳の奥に呆れに似た色を見つけた。

「な、何だ?」

「……」

 そのまま空を仰いで無言で考え込み、何故かにんまりと笑った

その笑顔が意味することに気付いた水月は、若者が何かを口にする前に、鋭く釘を刺した。

「鏡月、まずは、旦那ときちんと話せ」

「そんな事より、大事な話があるだろう?」

 思惑を読まれて慌てた鏡月は、従兄に反論する。

「旦那だって、あの子供が起きるか心配だろうし」

「そんな事はないぞ。セイ坊が、しっかりと起こしてくれると、信じている」

 取り繕った言い分が、逆に凌にそう言わせてしまい、焦った若者は思わず口走った。

「起こせないはずがないだろう。セイは、この手の事が得意なんだ。寧ろ、三日もかけている方が、意外だ」

「……ん?」

「もしかして、あんたの事に含みがあるんじゃないのか? だから、まだ起きてない風を装っているんじゃないのか?」

 ああ、言ってしまったか。

 いつもの凌ならば、そうでも仕方がないと少し沈む位で済んだだろうが、これまでの衝撃が怒涛過ぎて、立ち直れないのではなかろうか。

 水月が心配する中、大男はぽかんと口を開け放った。

 呆然と呟く。

「あの子がそんな心境を、オレに持ってくれてるのか? 本当に?」

「……どんだけ、規格外な親子関係だ」

 呆れた水月の呟きに構わず、鏡月も思い当たって考える。

「……意外に、その手の心境に疎いからな。もしかしたら、含み云々の問題ではなく、仕事を邪魔された鬱憤かもしれない。いつもの年末は、挨拶回りを考慮して少ない筈なのに、今年末は急遽色々と入ったらしいからな。寝不足もひとしおだっただろう」

 それを察している兄弟分たちは、どうやらロンと病院を後にしたらしい。

 この場に、あの男女が来なかったのが不思議だった水月は、従弟の説明で納得した。

「成程、その少年が起きて、リハビリでもしている間、ひと眠りさせてやるのが目的だったのか」

 実は先程行った病室の中には、誰の気配もなかった。

 恐らくは患者も若者も、別な場所に移動していたのだろう。

 付き添いがいつも一人はついていたのは、万が一早く戻って来た凌が、セイの不在に気づいた時に誤魔化すためだ。

 今夜は、蓮がその付き添いをしてくれ、細かい作業を任せられる者が浮いたから、安心して仮眠できているという事だろう。

「その少年、昼間はあんたがいるから眠っているが、夜中ならいくらでも動けるからな。担当医や信用できる医者を抱き込んで、リハビリ室を使っているんだろう」

「……」

「セイの方は、仮眠室だな。蓮の匂いがそこにあるから、今は爆睡中かもな」

 従兄弟同士の二人が予想を並べる間、凌は唸ったまま黙り込んでいたが、そこでようやく声を絞り出した。

「そうか、そこまで忙しい事になっていたか」

 松本家の勝や元祖も加勢しているのだが、大幅に増えた事案は一向に減っていないらしく、夜中に駆り出される時に暗記する依頼も、全く減らない。

「大掃除は、色んな所の家が手伝いに行くらしいが、本当にぎりぎりになりそうだと、社長も心配していた」

 男にしては小柄な若者が、自分達ですら多いと感じる量の仕事を、たった一人で年内に終わらせるつもりだったのを知り、凌は今回の事情を抜きにしても、手伝いたいと思っていた。

「今夜は無理だが、明日の朝、その辺りの話を付けてみよう」

 本当は、今からでも真相を確かめて、セイに交渉を持ち掛けたかったが、仮眠中ならば邪魔したくない。

 凌は苦渋の表情で言い切り、自分の手からすり抜けそうになっている腕を、再び強く攫んだ。

「……男に手を握られて、顔を赤らめる趣味は、ないんだが」

「オレも、そんな趣味はない。逃げるな」

 真顔の水月の言葉に、鋭く睨んだ凌が釘を刺す。

「年内に済ませる仕事は、もう終わったからここにいるんだろう、お前も? なら、協力してくれ」

 真顔で頼む大男に、男は小さく笑いながら答える。

「そのつもりでいるが、別にこの寒空であんた達と同じ場所にいる理由には、ならんだろう」

「理由なら、あるだろうっ」

 いつになく真剣な顔を見上げ、水月は笑顔で首を振った。

「ないな。水入らずを邪魔するのは、遠慮したい」

「ふざけるな。大体、このまま二人にされても、心の準備という奴がだな……」

「そんなもの、その時にならんと切り替わるはずがないだろう。ぶっつけ本番が、一番だぞ」

「何の話のつもりだ、お前」

 親指を突き立てて言い切る男に、話がかみ合っていないと気づいた凌が、顔を引き攣らせる。

「話の流れ次第では、そうなるんじゃないのか?」

「ならねえってっ」

 話の雲行きが、妙な方向に行くのに気づき、黙って成り行きを見守ってしまっていた鏡月が我に返った。

 意地の悪い従兄の言葉を鋭く切り捨て、凌の思惑に加勢する。

「ミズ兄……」

 そっと凌が攫んだままの腕に手を添え、小首を傾げてみた。

 目を丸くする水月に、微笑んで言う。

「久しぶりに、旦那とミズ兄と、三人一緒にいたいんだ。駄目か?」

「……どこで、そんなあざとい仕草を覚えた?」

「囮になる時に、寿ことほぎが猛特訓してくれた」

「あの女狐。様になり過ぎて、旦那から横取りしたくなる出来じゃないか」

 思わず、元女房に毒づいてしまってから、水月は溜息を吐いた。

 そう言えば、教えるように指示したのも、自分だった。

 程々でも大丈夫と言っておいたはずだが、カスミの性格も知るあの狐は、如何なくその能力を引き出してしまったようだ。

 その成果を、何世紀も跨いだ今になって、見せられるとは思わなかった。

 女体での仕草でないのが幸いして、元女房に毒づきながらも揶揄いじみた事を言うだけに留められたが、本当に危ない。

 どの位危ないかというと、その仕草を見てしまった凌が、捕まえていた腕を離して、後ろに飛びのいた位だ。

「そんな逃げ方をするもんじゃない。この子が傷ついたらオレが許さんぞ」

「す、すまない。つい……」

 引き攣った笑顔で答える大男と、心なししょんぼりとしている従弟を見比べ、水月は溜息を吐いた。

 ここに二人を残し、自分は仮眠室の若者の所に突撃し、腰を据えて色々と話したいことがあったのだが、このままではぎくしゃくと、何の解決もないまま朝を迎えそうだ。

 確認したいことも一つ二つあるからついでに訊く事にして、今日の所はこちらを優先することとしよう。

 後ろに引いた後は逃げなかった大男から、手渡した風呂敷包みを取り返して、再びベンチに置く。

 包みを解いて中を確認しながら、訊きたいことを頭に並べる。

 ほとんどの質問が、動揺につながるものだ。

 だから、暫くは世間話で間を持たせながら、二人を落ち着かせることに意識を集中しよう。

 準備を手伝う二人を見ながら、水月は次々と計画を立てていた。


 大病院の裏手の方にその仮眠室はあり、その一部始終は丸見えだった。

 蓮は、三人が風呂敷包みの中から取り出した敷布を地面に敷き、本当にピクニック気分になっていく様を見守ってから、ようやく息を吐いて視線を外した。

 鏡月と凌の乱闘に加え、あの水月までそれに加わってしまったら、今ようやく眠り始めたセイが、起きてしまうかもしれない。

 仕事と挨拶回りの合間に、セイが病院に通っていると聞いた時、蓮は不思議に思った。

 大沢忍の症状は、弟子である健一から聞いた話が本当ならば、そう重篤でもない。

 その代わりを務めて凌が目覚めないからと、その子供である若者が通い詰めるというのは、不自然だった。

 何も、心配しないだろうと考えての事ではない。

 少し手を貸せば、父親を起こせるくらいの力量がセイにはあり、何日も通い詰めて起こせないなどという事は、あり得ないと思ったのだ。

 これは、何か裏があると考え、病院で別行動をした結果、患者の忍とセイが話しているのを耳にした。

 何を言っているのかは分からなかったが、若者の言葉が敬語なのははっきりと分かった。

 真相の半分が見えて呆れ返った蓮は、一旦会話が途切れた病室の扉を、静かにノックした。

 固く答えたのは、患者の担当医だ。

 扉を開けて中を覗くと、予想通りの光景があった。

 目を細めて首だけ振り返るセイと、頭を掻きながら天井を仰ぐオキ、顔を引き攣らせる金田医師がいて、傍のベットの上で目を丸くした少年が、身を起こしていた。

「……こんな事だろうと、思ったぜ」

 静かに言った蓮は、固まった室内に身を滑り入れ、扉を閉める。

「あの旦那は、このことを知らねえんだな?」

「ああ」

 確信した問いに短く答えたのは、オキだ。

「この際だから、逆に騙してやろうと思ってな」

 初日の夜、凌とロンを送り出した後、セイは大沢忍の病室を訪れ作業に取り掛かったのだが、拍子抜けするほどにすぐに、その成果が現れた。

 驚く医師たちの前で、セイも狼狽えた。

「え? 早すぎないかっ?」

「これは、まあ、得手不得手の問題だ」

 冷静なオキの言葉で、ゼツが我に返った。

「つまりあの人、出来もしない事をしようとしていたんですか? 大見栄を張るために?」

「それも仕方ないだろう。親の威厳と言うものだ」

「こんな時に?」

 呆れる大男に頷く男も、その親の威厳云々には詳しくない。

 だが、一応父親となっている金田医師は、悩まし気に頷いた。

「子供側からすると、幼稚な感情なのですが、ついつい、何かと上に見られたい気持ちは、時々あります」

 まだその心境に至った事のない面々は、曖昧に納得して見せてから、顔を突き合わせて話し合った。

「そんなに難しい症状ならと思って、一晩じゃあ難しい量の仕事を押し付けたんだけど、やりすぎたかな」

「ロンと二人なら、楽勝だろう。お前じゃなきゃ、難しいってだけの量なんだろう?」

「細かい仕事は割り振ってないから、体力勝負で納めてくれるかな」

 真顔で話し合う若者と男に、大男は考え込みながら切り出す。

「やり過ぎでもないでしょう」

 父親の事で、凌には後ろめたい気分はあるが、それより何よりも、今の状況を作ったことが、許せないとゼツがきっぱりと言った。

「松本さんの気持ちを考慮して、真相を話さないのは良しとしますが、その原因を作ったあの人には、こちらの苦労を分かって欲しいものです。あの二人の機嫌を直すのは、時間がかかりますから」

 言い切った大男と、目を見張る二人を見比べ、金田医師は微笑んだ。

 事情が分からず、呆然と身を起こした少年の頭を撫で、静かに事情を説明する。

 少年は、自分を見返した若者を見上げた。

「すみません、僕……」

「まず、挨拶させてくれ。この間は、そんな場合じゃなかったから、名乗れなかっただろう?」

 無感情に遮られ、忍は慌てて掠れた声で初対面の挨拶をする。

 セイもそれに返してから、すぐに言った。

「君が謝ることはない。今夜、目を覚ましてくれて良かった。あの人も心配が減るだろう」

「……そのことですが、セイ」

 金田医師が、笑顔で切り出した。

「何だ?」

「いっそのこと、暫く黙っていては?」

 耳を疑ったオキの前で、ゼツが手を打つ。

「ああ、それは名案です。暫く、ただ働きさせましょう」

「その間、忍君は夜のリハビリ室で、心身共に鍛え直してみたらどうだ?」

「心身ともにって……まさか」

 引き攣った少年にも、金田医師は笑顔で頷いた。

「実は、あの辺りが例の精神科があった場所なんだ。浄化は済んでいるから、出る事はないと思うが、人の心情次第では、空気が淀むのも病院と言う所でね」

 身を竦める忍に、ゼツは無表情に言った。

「少し攻撃されたくらいで衝撃を受けるのは、付き合いをする上で面倒臭いんです。少しの事で意識が戻らないなんて面倒ごとを、二度と起こさないように、鍛え直して下さい」

「ええっ。少しの攻撃って、変な人たちがぶっ放った銃の事ですかっ?」

 全然少しじゃないと言いつのる忍を、担当医とゼツは引きづるようにリハビリ室へと連れて行ってしまった。

「……虐待で、訴えられない程度のリハビリに、してやってくれよ」

 流石に気の毒になったオキが、二人に投げかけたものの、全面的に同意見だった為止めなかった。

 若者が判断する前に決まったそれは、ずるずると今まで続いている。

「……この三日、精神面をすり減らす間もない位、ハードなリハビリでした」

 忍が嘆きながらも、きちんと時間に起きて来るのは、その翌日から差し入れられている折詰の効果もあるらしい。

 毎年年末の時期になると、挨拶回りをする若者のために、訪問される家々ではご馳走を用意しているのだが、時間が限られているセイは全てを口に入れられない。

 そこで、毎年一人つき人がタッパ持参で同行し、余った料理を持って帰るのが年内行事となっていた。

 その行事が安定すると、家々の方針も変わって来る。

 今では、予約された訪問日によってグループ分けされ、ご馳走の内容が被らないように、話し合いの場が持たれるようになった。

 忙しいから年末年始に来れないんじゃなかったのかと、側近たちには不審に思われているのだが、そうすることで毎年のこの時期、三食用意する心配がないほどに、若者の食生活は潤っている。

 そのご馳走を、セイは忍の差し入れに持って来るようになった。

 それでも余る物は、自分の夜食と明日の朝食になる。

「昨夜の差し入れも、美味しかったです」

「年々、腕を上げて来てるんだ」

「こいつ、質より量のくせに、味が分かる奴だからな。作る側の自尊心もくすぐっているらしい」

 今夜は、挨拶回りの途中で購入した、折り詰め用の弁当箱に三人分の御馳走をそれぞれ詰め、一緒に貰った飲み物を数本と共に風呂敷包に入れておき、挨拶回りの時に不審に思ったであろう森口家の二人が来た時に、渡すつもりでいたようだ。

 先程病室で会った面々は、それぞれの作業に移っている。

 いつもならば、セイも病院を後にして細かい仕事の片づけに向かっているのだが、今夜は蓮が来たことでオキの体が空き、その仕事をかっさらって行った。

 やる事がなくなった若者は、差し入れ通り詰めの残りを食べた後、眠りについている。

 窓から外の様子を伺っていた蓮も、先程まで残りの握り飯を頬張っていた。

 成長が早くなっているのか、最近空腹も早くなった。

 この調子ならば、もうすぐセイや鏡月の身長を、軽く追い越せるのではと、期待しているのだが、嬉しい予想だけではない。

 声だけに滲んだ不機嫌より、実際に見たセイは疲れて見えた。

 だから、色々な詰問は全て押し込んで、今は眠らせてやろうと判断したのだ。

 毎年この時期、挨拶回りをするようになってからは、ほぼゼロに近い仕事量に絞っていたのに、今年は突発にしては多い量の仕事を、治めにかかっているようだった。

 まるで、完全な仕事納めをする為の、前準備のように。

「……」

 どういう心境の上でそうしているのか予想がつくだけに、逆に問い詰めにくい。

 だから、今回の話を先に問い詰めた上で、話の流れで聞き出せればと思ったのだが、こちらが若者の窶れ具合に臆してしまった。

 ここぞという時に、強く出れない。

 情けないなと溜息を吐き、蓮は再び窓の外を見た。

 いい年の男が三人、色気もくそもない状況で和気藹々としている様は、全く画にならない筈だが、全員が全員見目がいい為、綺麗な光景に見えてしまう。

 三人中二人は中性的な美形の為、更にその錯覚に拍車がかかっていたが、騙されてはいけない。

「……」

 ふと思いついて、眠るセイを一瞥し、思いついた事を深く考える。

 何とか、あの二人の内の一人でも、仲間に引き入れられないものか。

 蓮にも慕ってくれる者がいるが、相談事をした上で協力してもらえるほど、心強い者はいない。

 鏡月は仕事仲間だが力量は同じくらいで、心強いという類ではない。

 だが、あの二人は間違いなく、化け物だ。

 しかも年季の入った筋金入りの、経験も豊富な化け物だ。

 蓮が体験していないような経験を生かして、何かアドバイスして貰えるかも知れない。

 問題は、二人とは殆ど面識がなく、知り合いを通じずに接触するのは難しいという事だった。

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私情まみれのお仕事 思慕編 赤川ココ @akagawakoko

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