はっきりしないと婚約破棄されたので、はっきりしてみた。(短編)

雨傘ヒョウゴ

はっきりしないと婚約破棄されたので、はっきりしてみた。

 

 これはむかしむかしのお話。


 あるところに、とってもいばりんぼな王様がいた。


「やあ、新しいマントだ。すごいだろ」

「やあ、素敵な洋服だ、すごいだろ」

「やあ、素晴らしい手袋だ。すごいだろ」


 いつも自慢ばかりして、家臣たちは、ほとほと嫌気がさしていた。

 けれども、すごいと言わなければ怒るから、みんなすごい、すごいと言っていた。

 王様はいっつも満足そうだった。


 そんな王様を見て、にやりと笑ったのは悪魔である。悪魔は嘘が大好きなのだ。

 悪魔は商人に姿をかえて、王様に伝えた。


「王様、これは心が誠実なものしか見えない王冠です。ほら、とっても素敵でしょう」


 もちろん王冠なんて何もない。


「これはすごい王冠だ。立派な宝石がついている」


 王様は嘘をついた。そして、王冠をかぶって、みんなに自慢した。家臣たちは口々に褒め称えた。嘘の力が、ぐんぐんと悪魔を強くする。そんなとき、一人だけ素直な言葉を話したのは、平民の少年である。


「変なの。王様は何もかぶっていないのに、みんなすごいと言っているよ」



 こうして王様は事実を知り、正直者はおそろしいと悪魔は逃げ去った。

 少年に礼を告げた王様は、正直は美徳であると国中におふれをだした。嘘をつくと、悪魔がやってくる。

 魔を恐れる貴族達は裏も表もなく胸を張って堂々と生き、それはすばらしい国となった。


 と、いうのが市井の子どもたちでも知っているような、アルピュシオ王国の礎となった物語であるのだが、それがまさか、こんなことになろうとは最初の王様だって想像をしていなかっただろう。



 ***



「オリビア・フィランス! 私はお前との婚約を破棄する!」


 ひえっ、とオリビアは跳ね上がった。大勢の視線に晒され、体が震える。眼前の皇太子を、涙をこらえながら見上げることしかできない。学院でのダンスパーティーで、とうとう耐えかねたといった様子で、自慢の銀の髪をホールの明かりにきらめかせながら皇太子、ナルディオは宣言した。周囲ではクスクスと笑い声が聞こえてくる。


「あらあら、あんなに小さくなってしまって。あれが噂の気弱令嬢様でいらっしゃるの?」

「小刻みに震えて可愛らしいわ。でももう少しはっきりなさったらよろしいのに」


 口元を扇で隠しているにも関わらず、はっきり、くっきり声が聞こえる。陰口なんてものではない。すでに表口である。ちなみにそんな言葉は存在しないが、アルピュシオ国の貴族達は、誰しも正直に、思ったことを口にする。なぜなら、過去に魔に魅入られた国であり、悪魔を退けるために、誰しも堂々と生きているのだ。


 ――と、いうおとぎ話は、いつの間にか変異して、好き勝手なことを言っても許される、というただの免罪符になっているのだが、今のオリビアはそれどころではなく、こぼれそうになる涙をこらえて、羞恥に頬を赤くすることしかできない。


 ナルディオに見合う女性となるべく、オリビアだって努力した。アルピュシオ王国では、言葉と同じく、はっきりとした色合いのドレスが美しいとされている。けれどもオリビアはどうにも顔の主張が弱く、きつい色合いが似合わない。まるで服に着られているようだ。


 不美人というわけではないが、何かの動物によく似ている、と彼女はよく称された。栗色のふわふわの髪の毛。くりくりとした真っ黒な瞳と小さな体。気が抜けると小刻みに震え始め、運ばれたグラスを目の前で落とされてしまった瞬間、響いた音に驚き、くるんと白目を剥いてそのまま気絶してしまったという逸話はすでに社交界の中では伝説となっている。――実際はたまたま体調が悪かっただけなのだが、あのオリビア・フィランス、気弱なハムスター令嬢ならありえる話だと頷かれた。


 そう、ハムスター。

 気弱令嬢もしくはハムスター令嬢と称されても言い返すこともできなくて、目の前で両手を握りしめているだけの少女、それがオリビアだ。

 今この瞬間も、ナルディオは苛立たし気にオリビアを睨んだ。


「オリビア、君は私の婚約者だというのに、いつだって気弱で、言いたいことの一つも口に出さない! まったくもって、私の趣味ではないのだ!」


 言うにことかいて、である。

 しかし正直を尊ぶこの国では、大しておかしな主張というわけでもない。


 叫ぶ皇太子の隣では、見事なナイスバティの女性が、うふんと体をひねっている。オリビアがハムスターなら、彼女は女豹である。はわ……とオリビアは巷で噂の男爵令嬢を見上げた。彼がナルディオの心を射止めたことは、噂に疎いオリビアでも知っていることだ。


 小柄なオリビアと比べると、令嬢は豹のようにしなやかであり、目力がすごい。いつの間にか涙も引っ込み、自身との差を考えたところ、カッ! と威嚇された。多分このままでは食われて死ぬ。


「あらあら、あんなに小刻みに震えて……」

「公爵家のご令嬢でいらっしゃるのならば、もっとしっかり、はっきりとなさいませんと」


 表口が今も元気にビンビンしている。

 けらけらと笑い声が聞こえている。こうして、オリビアは逃げた。言い返すことなんてもちろんできずに、似合わないドレスの裾をひっぱって、小柄な体をもつれさせるように逃亡した。



 ***




「うえっ、うえっ、うえっ、う、う、うえええ……」

「いやいつまでぐすぐすしてるんですか、オリビアお嬢様」

「だって、だってだって、カイル……」

「だってじゃないです」

「ひぎゃあ!」


 部屋の中でオリビアからぐるぐる巻きになっていた毛布を引っ剥がしたのは、仏頂面の少年で、オリビアの幼い頃からの世話役である。十六のオリビアよりも、年は二つほど上だ。やめてえ、やめてえ、とベッドの上から伸ばすオリビアの手から毛布を遠く持ち上げ、高い背を使いこなし、見事にオリビアを翻弄している。


「お願い返して……私はずっと毛布にうずくまって、このまま消えてしまいたいの……」

「ベッドの上にずっといても誰も消えはしませんし、お嬢様の過去が巻き戻るわけではありません」


 カイルはずんずんと痛いところをついてくる。こうしてベッドの上で泣いている間に、ナルディオとオリビアの婚約は見事に破棄されてしまったと聞いたのは、すでに昨日のことである。


 フィランス家は公爵家の中でも皇族に血が近く、皇太子であるナルディオとの婚約は、立場的にも年齢が近いオリビアであることは順当だった。けれども、オリビアのあまりの気の弱さに、皇太子ははっきりと、「好みでない」と主張してしまった――と、いう一連を耳にした正直者の両親達は、オリビアを呆れたように見下ろしていた。


『あなたは本当に小さくってぶるぶるしていて、こんなことじゃこの国ではやっていけないと谷に突き落とすつもりで皇太子との婚約を結びつけたというのに、なんということ?』と、母。

『オリビア、お前はそんなことで、この先生きていくことができるのか? ちょっとした衝撃で死んでしまうのではないか?』と父。


 別に本当のハムスターではないのだから、死にはしないのだが、彼らの言葉を前にして、オリビアはただ眉を八の字にして、ぷるぷるした。ちなみにハムスターは大きな音を聞くと、驚きのあまり気絶してしまうことがあるらしい。


「……そんなに泣くほど、ナルディオ様のことがお好きでいらっしゃったんですか?」


 巻きすぎた毛布を片付けつつ、カイルは静かに問いかけた。

 オリビアは泣きすぎてぐちゃぐちゃの顔である。子供の頃から一緒にいる相手とはいえ、恥ずかしさもある。オリビアはぐしぐしと小さな手で顔をぬぐった。


「……違うわ。ただ、本当に、自分が情けなくて」


 オリビアは、公爵家の長女として生まれた。アルピュシオ王国の貴族の中の貴族といえる。なのに、どうしても、どうしても――貴族らしくなれないのだ。


 貴族らしい、とは、自分の気持ちをはっきりと伝え、正直に生きること。そうなるようにと育てられた。なのにどうしてもできない。目の前に立てば、相手がどう思っているのかが気になるし、こんなことを言って、この人はどう思うのだろう、怒るかもしれないし、泣いてしまうかもしれないと自分よりも相手ばかりを気にしてしまう。正直者になることができない。


 父と母の言葉は、まるでオリビアを呆れたようにも聞こえるが、彼らはアルピュシオ王国の貴族らしく、正直に思ったままのことを伝えているだけで、彼女を心配してくれてのことであることは知っている。

 だから、悔しくて。それから悲しくてたまらない。


 ――正直者な、堂々とした人間が好かれる、という言葉は長い時間をかけて変異した。女性は中身だけではなく外見も強く背丈があり、凹凸がある体つきを好まれるようになり、オリビアのような見ているだけでも小さく、不安になるような小柄な体つきは、貴族の中では好まれない。


 つまり貴族の女性たちはボンキュッボンが多く、オリビアのようにぺたぺたぺたは肩身が狭い。

 もちろん男性も立派な体躯が好まれる傾向にあり、王族であるナルディオは筋肉をよく自慢していた。


 オリビアは流行りのドレスも似合わず、ふわふわの髪だってよろしくない。できることなら、ストレートの髪が社交界では好まれるのだ。オリビアの姿は一般的な好みからは逆転した存在だった。外見と内面、全ての要素がオリビアを“気弱令嬢”に変えていた。


 だからこそ、ナルディオの『趣味じゃない』という言葉はより重たく沈んでいく。いや、見かけはいっそ仕方のないことだ。けれども内面は、いくら取り繕っても変わらない。


 私なんて出来損ないなんだ、という暗く重たい単語ばかりが、頭の中でぐるぐるする。

 とにかく、父と母に申し訳なかった。


 オリビアは気づけば、またぼろぼろと涙をこぼしていた。人前ではせめてもと堪えてはいたが、今はカイルと二人きりである。今更取り繕ったところで、何の意味もないことをオリビアは知っている。


「私、本当に、自分が、情けなくって。こんな、小さくて、はっきりしなくて、震えているばかりの自分が、本当に、嫌で、嫌で」


 カイルはただ、静かにオリビアを見つめた。部屋の中でぐすぐすとオリビアの声だけが響いている。……ゆっくりと、カイルは口を開いた。


「オリビアお嬢様、そんなの俺にとってみたら今更です。あなたが気弱なのもハムスターであることも事実ですし、今更嘆くことですか……?」

「ふ、ふんぐ……ッ!! 平民であるはずのカイルの方が私よりもずっと正直……!!」


 正直者は美徳であるというのは貴族に値する価値観であるが、もちろん平民の中でもそれに準ずるものも多い。まあカイルの言動はオリビアと幼い頃からともにいる気安さからきているので、事情は違うかもしれないが。

 なんにせよ、カイルの言葉はオリビアを突き刺した。昔から一緒にいる相手からの発言である。説得力が強すぎる言葉の槍はオリビアを貫き床まで到達しているかもしれない。オリビアはすでに意識を失う一歩手前である。


「このまま消えて、しまいたい。もし泡になったら海に流してくれるかしら……」

「できないことを言わないでください」

「だって」

「だってじゃないです」

「……だって、本当に、消えて、新しく生まれ変わりたいんだもの……!」


 小柄な見かけで生まれたことは、仕方のないことだ。幼い頃は姿が変われば、と期待していた。けれどもオリビアはもう十六だ。――いつまでも待っているだけでは、何も変わらない。


「こんな私は、もう、嫌……!!」


 明日になれば、明後日になれば。もっと背が伸びて、堂々と前を向いて、素敵な自分になれるかもしれない。ずっとそう思っていた。でも本当は、期待する心の裏側では仕方がない、と諦めていたのだ。


 やっと気がついた自身に驚き、また情けなく、辛く、ふるふる震えた。けれども、彼女の瞳はきらりとわずかばかりに輝いた。そう、ハムスターのようなつぶらな瞳が輝いたのだ。変わりたい、と言った言葉は、心からのものだった。求めるものがあれば、前を向くことができる。


 さすがのオリビアも、衆人環視の中で罵りは、堪えた。けれどもそれは、『フィランス家の長女は、一方的な皇太子からの言葉に、言い返すこともできなかった。やはり噂通りの気弱なのだ』という醜聞が、父母に申し訳なくて、今度こそ家名に泥を塗ったと思ってしまったからだ。


 実のところ、父母はそろって正直に、『オリビアはオリビアだから、もう仕方ないんじゃない?』とカラッと笑っていたのだが。


「……それなら、特訓しますか?」


 何を言われているのか、一瞬訳がわからなかったのだが、カイルは想像よりも真面目な顔で、じっとオリビアを見つめていた。「……とっくん?」「はい、特訓です」 こくりと頷く。


「お嬢様が気弱でよわよわで小動物であることは紛れもない事実です」

「とてもひどいわ……」

「けれど、それほどまでに悩んでいらっしゃるのでしたら。俺は、あなたの力になりたい。……というか、そもそも! 性格を理由にして婚約破棄とは、いかがなものでしょうか! 同じ男として、俺は皇太子をぎゃふんと言わせてもやりたい!」

「ぎゃふん」

「お嬢様が言ってどうするんですか。そう、特訓しましょう! 立派なレディーになって、皇太子を見返してやるのです!」

「ぎゃふん……」

「だからなんですでにお嬢様がびびってるんですか。小刻みに震え過ぎです」


 聞いてすぐには、そんなことはできるはずがない、と生来の気弱が顔を出したが、けれども変わりたい、と言った言葉に嘘はない。オリビアはぐっと唇を噛み締めて、こくんとカイルに向かって頷いていた。


 こうして、オリビア・フィランス、気弱令嬢の特訓が始まった。

 ――全ては、皇太子、ナルディオを見返すために。



 ***



「なあに、あなた。もしかして……泥棒猫さん、だったかしら?」


 くすり、とオリビアは笑いながら紅茶のカップを傾けた。ふわふわな髪の毛が、静かに風に揺れている。優雅なティータイムの机には、お菓子が山積みとなっていた。色とりどりのマカロンに、クッキーに、ケーキである。全てオリビアが用意させた。フィランス家の庭は広大である。どこまでも続く花畑は爽快だ。


「よく私の前に顔を見せることができたわね? にゃあにゃあと鳴くだけでしたら、いっそ可愛らしいものを。ナルディオ様を盗み、おめおめとやってきて。まるで、あなたはこのケーキみたいね。見かけだけはとっても美味しそう。けれども味の方はあまったるくて、耐えられたものじゃない」


 オリビアは鮮やかに、ゆっくりと足を組みながら、そっとケーキにフォークを突き刺し、口をつける。小さな口ぱくりと開いて、そして、「ほら、とっても。……とても。………………おいしぃですう……」 泣いていた。




「はいカットーーー!!!!」


 カイルが両手をバチバチと叩いている。オリビアはぼろぼろと涙をこぼしつつ、「カイル、このケーキとってもおいしいわ。私、せっかく料理長が心を込めて作ってくれた素敵なケーキをまずいだなんて嘘でも言えない……正直者だから……」 遠くでそっとオリビアを見つめていた料理長が少しばかり感涙していたがそれはさておき。


「オリビア様、都合のいいときだけ正直者にならないでください! いいですか? 貴族の方々の正直とは、そういった正直とは異なります。欲望です! 彼らは欲望に素直になっているのです!」

「よくぼう……」

「はい、そのとおり! というわけで設定を復習しますよ。今の状況とは、あの皇太子を盗んだ憎き男爵家の女豹令嬢と相対した」

「カイル、女豹令嬢という呼び方はどうかと思うわ。女性に失礼だと思うの」

「わかりましたよ、フィリピーヌ男爵家ご令嬢でしたか? じゃあ次は彼女に紅茶をぶっかけると想像しましょう」

「え、ええ、えええ」

「はい、シーンスタート!」


 ええい、と勢いよく、存在しない女性を目の前に想像して、オリビアは紅茶のカップを持ち上げた。そして、気合を入れて、眉をつりあげ、「……おいしいわ」「飲んでどうする!!」 しっかりと味わってしまった。


「だって、これはメイドがこだわりの葉っぱを厳選して淹れてくれた紅茶なんだもの……飲むのではなく、投げつけるなんてこと、私にはできないわ……」


 こっそりとオリビアを見守っていたメイドは、料理長と一緒に泣いていたがそれはさておき。


「……なんなんですか、お嬢様。あなた、やる気があるんですか?」

「だ、だって、こんなの」

「こんなことじゃ、皇太子を見返すことはできませんよ」


 カイルからの言葉に、ぴしゃんと雷にうたれたようにオリビアは屹立した。そう、オリビアが婚約の破棄を言い渡され、毛布の中でくるまって、ナルディオを見返してやると決めたその日。変わろうと決めた日のことだ。


 公爵家長女、オリビア・フィランス。

 通称ハムスター令嬢。はっきりしない、好みではないと彼女をふった皇太子を見返してやるべく考えたこととは、強くなること。はっきりと、毅然とした意見を言える女となって、皇太子をあっと言わせてやる。そもそもオリビアは、人よりも小柄で可愛らしい外見だ。それを社交界に渦巻く女豹の如く強い女たちを相手にして、普通にしているだけならただ埋もれてしまうだけ。豹の中のハムスターである。


 だからやるからには、徹底的に変わらなければいけない、とオリビアも気づいていた。だから、カイルにお願いをした。強い女に変えてくれ、と。そして始まった特訓である。


 イメージはナルディオの心を射抜いたフィリピーヌ男爵令嬢だ。訓練は辛い日々だった。オリビアという人格そのものを塗り替えるべく、雨の日も、風の日も、訓練に時間を費やした。


「オリビア様、そこです! 右、左、右、左、右! はい、はい、はい、はい!」


 カイルの手に合わせるように、オリビアは平手打ちの訓練を行う。しゅんしゅん風をきっている。すばらしいスナップだった。


「そこで、高笑いです、オリビア様! 貴族の皆様方は陰口をおっしゃっていらっしゃっても、はっきりと聞こえる素晴らしい声量と腹式呼吸です。腹から息を吐き出すのです!」

「おほっ、おほっ、お、おほっ、ぐえっふ、……死……」

「自分で大声を言って死なないでくださいオリビア様……ッ!!」


 そうして訓練を繰り返し、オリビアは気がついた。



 彼女の性根が、いくら見かけばかり変えようと頑張ったところで――結局、何の意味もないことに。



 ***



 言動を攻撃的に変えた。

 背を高く見せようと、無理に高いヒールを履いてみた。

 笑い方や、仕草を変えて、新しく生まれ変わろうとした。


 けれどもオリビア・フィランスは、どうあがいてもオリビア・フィランスのままで、結局何も変わらない。鏡の前に映るのは、ただの小さな、自信が情けない小娘が一人いるだけだった。


「……オリビア様。あなたは自分が思うほど、情けなくはないですよ」


 オリビアは貴族学院に通っている。はっきりとものを言う訓練をカイルとともに繰り返し、自信がついたと思っていた。けれどもオリビアの姿をあざ笑う少女達を相手にしても、オリビアは何も言えなかった。ただ、曖昧に笑って、その場をやり過ごそうとした。


 屋敷に戻って、鏡を見て、どうあがいたところでオリビアはただの小娘であり、変わることがないのだと気づいたとき、口から嗚咽がこぼれでた。ぼろぼろと泣いて、泣いて、瞳が溶けてしまうかと思った。


「ケーキや紅茶を料理人やメイド達の気持ちを考えると、粗末にできない。たとえ、他人に笑われようとも、言い返さないことは弱いわけではなく、周囲の空気を読んでいるからです」


 カイルはぐすぐすと枕に顔をうずめて泣くオリビアの枕を、今度はとることはしなかった。ただ、静かにそばにいてくれた。少しずつ言葉をくれた。


「あなたが変わりたいのならとお手伝いをしましたが、本当は変わる必要なんてどこにもない。あなたは、誰よりも自分に正直なだけだ。欲望を求めるより、人を傷つけたくないと思っているだけなんだ」


 それは、本当にそのとおり飲み込んでいい言葉かどうかなんて、わかりはしないけれど。


「俺は、幼い頃からあんたと一緒にいるんだもの。あんたは気弱なんじゃなくって、人よりもとても優しいだけということを知っているよ」



 ***



 流行なんてくそくらえだ、とカイルは言う。

 はっきりとした色のドレスなんてあんたには似合わないし、体を見せつける必要もない。


「ふわふわの髪だって、ほら、見てみろ。逆にもっと、ふわふわにしてやればいい」


 カイルに言われるがまま鏡の前に座って、出来上がった姿は自分でも不思議だった。決して、オリビアは美人ではない。けれども、やわらかくふんわりと広がった髪はどこか愛らしい。

 胸元を開いて、姿を主張する服よりも、きっちりと首までつめた淡い色合いのドレスは、オリビアに似合っていた。控えめな化粧は、ドレスに埋もれて印象を薄くしていた彼女を逆にハッと明るくさせた。


「オリビアお嬢様。あんたは決して恥ずかしくなんてないよ。綺麗で、可愛い俺のお嬢様だ」



 ***



 馬車を下りて、貴族学院に向かう。ゆっくりと、ゆっくりと歩を進ませる。とても不思議な光景だった。


 我慢なんてしなくてもいい、とカイルはオリビアの髪をくるくると巻きながら呟いた。自分がしたい格好をして、したいことをしたらいい。まっすぐに、オリビア自身がこうすべきだと思ったことを、貫いて構わない。


 そうだろうか、と思うのに静かにカイルの言葉は、オリビアに染み込んだ。そうすると、いつも情けなく下を向いていたはずの視線だって、ぐんと高くなっていく。


「そんな感じだ」


 カイルが、オリビアにしか聞こえない程度の小さな声で囁いた。やっぱり、少しばかりの赤面は許してほしい。そのまま、背後に隠れるように、そっとカイルの姿は消えてしまう。


 学院までの道を歩くだけで、誰しも彼女に道を譲る。ほうっとした顔をして、いつもは声を大きな声で話す女性達も、何も言えずに口をつぐむだけだった。

 こつ、こつ、と進んでいく。ナルディオがいた。隣には、フィリピーヌ嬢が。


 通り過ぎようとした。けれども、引き止めたのはナルディオだった。あまりにも可愛らしく変わっている彼女を見て、ナルディオはたまらず声をかけた。


「……お前、オリビアか?」


 返事は、しばらくの間を置いてからだ。こくりと頷くオリビアをナルディオは口元を押さえながら見下ろした。「……これは、中々」 フィリピーヌ女豹嬢が、ぐいとナルディオの服の裾を掴んでいることも気に留めない。


 静かに一礼して、去っていこうとした。けれども、待て、とナルディオはさらにオリビアに近づいた。


「今のお前ならば、もう一度婚約を考えてやってもいい。何も、婚約者は一人である必要はないのだからな」


 とっても正直な言葉であるが、隣の恋人の悲鳴はすっかり無視だ。オリビアは、淡々としてナルディオを見上げた。小柄な彼女は、とにかくがんばらないと視線だって合わさらない。


「……あの」


 ささやくような声である。ナルディオは、うんと頷く。「そうか、嬉しいか」 腕組みをしつつ、すっかり納得した様子である。


「あの、失礼ながら、ナルディオ様、少し、屈んでいただく、ことは……」

「なんだ、嬉しさのあまりにキスでもしてくれるのか。確かにお前の背は低いからな」


 お前のような小柄な女でも、もらってやるのだから、感謝しろ――と、告げつつ、ゆっくりとナルディオは腰を屈めて、「ナルディオ、様……」 オリビアは、そっと彼の頬に手を寄せた。息を飲み込むように食い入るようにオリビア達に目を向けていた観衆が、きゃあと黄色い声を上げる。そして。



「あなたの婚約者など!!!! 断じて!!!! お断りで!!!! ございます!!!!!」


 激しい音とともに、オリビアはナルディオの頬を力強く打った。周囲からはどよめきの声が聞こえる。「おっぶ!?」とのけぞるナルディオの首元を、オリビアは力の限り捕まえた。火事場の馬鹿力であった。左手でナルディオを固定する。そして右手は華麗なスナップを繰り返す。


「いやです! 結構です! 激しく無理です!」


 ばちん、ばちん、ばちん!


 まさに特訓の成果であった。背後でカイルが興奮のあまり、コーチさながらに叫んでいる。「右! 左! 右! 左! 右ィ!!!! そこです、お嬢様ァ!!」 まさに場は熱狂のあまりに沸きに湧いた。さながら闘技場に熱烈な応援を行う観客のようである。


「お帰り、くださぁああああいい!!!」

「おっぶうう!!」


 スマッシュが決まってしまった。気弱令嬢の逆襲である。はあはあと荒い息で、両の拳を握りしめ、仁王立ちするオリビアを、ナルディオは頬をハムスターのように真っ赤に腫らして、地面に尻をついたまま呆然と見上げた。


「わ、わたしは!」


 オリビアは叫んだ。


「フィランスの名に誓って、これ以上、あなた一人のわがままに振り回されは致しません!」


 だめもとの主張である。おお、と貴族たちは感嘆の声を出した。なんという正直なのだ、と囁いているのか、普通に喋っているのかわからない声が聞こえる。彼らは一様に腹式呼吸が素晴らしい。


「そして!」


 へたり込む皇太子を放って、オリビアはくるりと反転し、従者のもとに向かった。カイルはコーチ然として拳を握りしめていたものの、いつの間にかそっと気配を消している。そこを引っ張るようにして、無理やり表に出させた。


「カイル、私、好きに生きていいのよね?」


 カイルは困惑しつつ視線を回したが、オリビアの言葉に、もちろんと頷いた。全ては彼が伝えたことだ。


「私は、いつも周囲の視線が気になるの。自分のことより、みんながどう思っているかが気になる。あなたは私を優しいと言ったけれど、それは綺麗な言葉で包んでいるだけで、きっとそれだけではないし、気弱な、噂通りの女だわ」


 どう返事をしたらいいのかと、両の腕を掴まれて逃げることもできないまま、カイルはまた頷いた。オリビアは続けた。


「でも! 今、すごく正直になってみたの! 我慢なんてしなくていいって、言ってくれたから! 多分こんなの今日だけよ。これ以上は頑張れない。だから、今! 人生で一番、一番……正直になるわ!」


 出したこともない大声を叫びながら、オリビアはときおり口元を震わせた。涙だって零れそうだった。


「カイル、私、あなたが好き。小さな頃から、ずっとずっと好きだった!」


 こんなに正直になんて、多分今後なれそうにない。カイルは、ただ呆然としてオリビアを見下ろしていた。小さなオリビアと比べると、高い背の青年は幾度もキャメル色の瞳を瞬いた。髪の色は、オリビアよりも明るい金の色で、清潔に、短く切りそろえられている。オリビアの従者として、節度のある服装はフィランス家から与えられたものだが、燕尾服がよく似合う。そんな、青年は。


 ぐっと唇を噛み締めた。ただ、じわじわと顔を赤くして、こっちこそ、まるで泣き出しそうな顔だった。従者でもなんでもない、幼馴染の、ただの青年がそこにいた。


 その全ての様を、学院の貴族たちは目撃した。オリビア達を取り囲むように固唾を飲んで見守っていたはずがついに耐えきれなくなり、とうとう大喝采に変わっていた。彼らはとにかく正直であるから、陰口はこちらに聞かせるかの如く堂々としているし、興奮だって素直に叫ぶ。場を理解していないのは、地面にへたり込んだままである、皇太子のナルディオ一人だ。


 わあわあ、ぴゅうぴゅうと吹き荒れる嵐の中で、オリビアは、ただきりりと眉毛を吊り上げ、必死で二本の足で立っていた。けれどあまりの大きな音の中だったから、だんだん意識が遠のいた。「お、お嬢様!?」 そして死んだ。


 嘘である。今でもぴんぴん元気である。





「……それで、頑張りすぎて気絶をしちゃったの?」


 持っていた本のページをめくることも忘れてしまって、少女は呆れたようにため息をついた。金髪のふわふわ髪で、キャメル色の瞳をしていて、年は十に満たないくらいだ。けれども歳の割にはずいぶんしっかりとした顔つきと口調である。彼女の母は、「そうよオリビア」と娘の名前を優しく呼んだ。


 オリビアの隣には、まだ小さな弟が、ぱちぱちと瞬いて、ちょこんと可愛らしく椅子に座っている。オリビアを見ると、照れたようにはにかんだ。彼は同じ名をしているオリビアよりも、ずっと祖母に似ているようだ。


「お祖母様って、やっぱり昔からそうなのね。……ねえお母様、早く続きが知りたいわ」

「そうね。それからはお前が知っている通りですよ。お祖母様のお父様とお母様、つまりはあなた達にとってはひいお祖父様とひいお祖母様ですけれど、彼らは貴族として、正直に否定したわ。だって、お祖父様のことはよく知っているとはいえ、ただの平民だったんですもの。公爵家の一人娘との結婚は、難しいに決まっていた」

「うん、まあそうよね」

「でもそこはお祖父様だって諦めなかったわ。商売やらなんやらに手を回して、フィランス家にお祖父様がいなければ回らないように、ズブズブにしてしまったのよ」

「なかなかに恐ろしい話ね」


 話が気になってしまって、結局、本のページは一ページだって進みはしない。諦めて閉じてしまった。それよりも、とオリビアは眉をひそめた。


「皇太子は? 衆人の前で平手打ちでしょ?」

「そこは痛み分けだったらしいわよ。正直になって否定した結果だから、不平を言われることはなかったし、そもそも、最初は皇太子から言い出したことですもの」


 一方的な婚約破棄は、ナルディオから行われたものだ。しかも趣味ではない、というとても個人的な理由で。


「それに、平手打ちに関してはなかったことにされてしまったらしいわ。ハムスターみたいな少女に返り討ちにあっただなんて、恥ずかしくて言い出せなかったのね。その場にいた貴族達にも、口を閉ざすように命じたそうよ。まあ、正直な人達だったから、守られることがあったのかは知らないけど」

「筋肉自慢が、ただのハリボテだってバレちゃうものね」


 にべもない言葉である。母は困ったように苦笑していた。


 ふうん、とオリビアは鼻白んだ。正直に生きる、だなんて今の時代はありえないことだ。

 魔を恐れる時代は終わり、次に恐怖するのは他国の侵略、そして自国の内乱である。少しずつ、人々は変化した。奸計をめぐらし、腹の探り合い、言葉の盾を飾る。そんなの、当たり前のことである。


「お祖母様達の時代って、なんだか不思議ね」

「そうね。今でも、その頃の世代の方々は面白い方が多いけれど」

「みんな妙にはきはきと話して、お腹からの発声が素晴らしすぎるのよね……」


 なにしろみんな腹式呼吸である。貴族の嗜みというやつだ。

 ふう、とオリビアは嘆息した。けれども、まあまあ面白かった。少なくとも、膝の上に置いている本なんかよりは、よっぽど。


 ふと、窓の外を見つめた。広々とした庭が、どこまでも広がっている。フィランス家には代々伝わる庭であった。ときおり母と弟を伴い、オリビアは祖父母のもとを訪れるのだ。


 庭には、綺麗な花畑があった。二人の男女が、手のひらを繋ぎながら、互い何かを囁き合って朗らかに笑い、ゆっくりと歩を進めている。椅子に座りながら、オリビアはその様子をじっと見つめた。


 娘の視線に気づいたらしく、母はするりと窓の外に目を向ける。


「あら、お父様とお母様。お二人は、いつも仲睦まじいわね」


 そして、なんてことのないように話した。おそらく、いつものことなのだろう。座ったばかりではつまらなくなった弟が立ち上がり、母の元へと突進した。慌てて抱きとめた彼女は、すぐに窓から視線を離してしまった。けれどもオリビアは、老いた二人の様子をじっと見ていた。別に、なんとなくだけれど。


 歳をとって、それでも愛し合う人がいるということは、一体どんな気持ちなのだろう。互いに強く手を握り、ぽくぽくと、ゆっくりと庭を散歩して。小さな背と、大きな背の二つある。


 オリビアは、あまり感情を表に出すことが得意ではない。けれども、それが今の貴族にとって当たり前で、そうすべきことだから、不満なんてもちろんない。もし彼女が祖母と同じ時代に生きていたのならきっと大変なことだった。けれども、なんだろう。年老いても手をつないで、仲睦まじく過ごす彼らを見て、わずかに、すこしだけだけれども、羨ましい、と思う感情があるような――。


「うわ、あ、わあ!」


 そのとき窓の外で見た光景に声を上げて、思わず椅子から滑り落ちてしまった。

 彼らは、今でも仲が睦まじいのだ。


(や、やっぱり全然羨ましくない!)


 彼女だって、まだまだ幼い少女だった。まだ、そういったものには早すぎる。ぶるぶると首を振って、瞳を瞑った。娘の珍しい様子に気づき、母は弟を抱きしめながらも、首を傾げた。


「どうしたのオリビア。とっても真っ赤な顔をしているわ?」


 母の言葉に言い返すこともできず、ただ彼女はうずくまったのだった。

 でもきっと、彼女にだって。



 いつの日か、はっきりしたくなる相手がやってくる。




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はっきりしないと婚約破棄されたので、はっきりしてみた。(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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