第二十二話 謀反と誅伐④

「それでは、私達も始めましょうか」


 ゆるりと抱擁する様に両腕を広げ、フリーデが構える。それに合わせてマージェリーはスキールニルを前に突き出して構えた。


 一挙手一投足が命を左右する、戦場という空間。


 しかしその中でフリーデのとった行動は、静かに瞼を閉じて言葉を紡ぐ事だった。


「私に宿る奇蹟……聖者の左腕が持つ権能は、切断ではありません。世界と世界のさかいを具現化するのです。降霊魔術の境界の様なものと言えば、お分かり頂けるでしょうか」


 境界。先のエヴァ・テッサリーニとの戦いの折、マージェリーが精霊憑きの侵入を防ぐために行使した術。自分こちら相手あちらの境を分け、互いの干渉を阻害する簡易結界。


「……具現化、ね。境界なんかとは似て非なるものじゃない。アタシのは単なるおまじないみたいなものだし」


「ええ。此方こちら彼方あちらの境は本来曖昧なものです。境界では間仕切りの様に、予めそこにあるさかいを可視化・補強する効果を持ちますが、聖者の左腕はその境をあらゆる場所へと強制的に出現させます。強引に世界をのです」


 フリーデが薄く目を開き、鋭く上方を指す。


 次の瞬間、フリーデの遥か頭上、天井にほど近い空間がと切れた。ばちばちと音を立てて空間が歪み、マージェリーが汗をにじませる。


「持続時間は一秒程度。射程は視界に映る限りは無制限。発動条件は左手で対象を示すことです」


 フリーデの左腕がさらに輝きを増し、彼女を中心として辺りには濃密で重厚な魔力の気配が満ち始めた。


「一度に出せる境は最大で十本。その際に境の上にあったものは、硬度や規模に関係なく、境の通った部分が消失します」


 ――奇蹟の開示……? 何故今この場で……?


「……ところでお嬢様。本来秘匿されるべき奇蹟を、今私がつまびらかにしている訳……お分かりになりますか?」


「…………」


「決してここから生かして帰さない、という訳です」


 静かな、それでいて一切の返答を許さない声色。


 フリーデの左腕が一閃し、四方をなぞる様にしてきびきびと動く。一拍置いて魔力が走り、聖堂の床は大きく長方形に


 区切られた境から光の壁が立ち上り、二人はあっという間に中へと閉じ込められた。蟻の這い出る隙さえも、ここにはありはしない。


 ――四方よもを区切った? 一体何の目的で……。


 ゆっくりと、マージェリーが境へと手を伸ばす。


 ばちんと音が鳴り、指先から微かに熱が伝わる。


「……ッ!」


 僅かに触れたマージェリーの指先は境の力で弾かれ、咄嗟に彼女は手を引っ込めた。魔力を通した手袋でなければ、手の皮膚は焼け焦げていただろう。


 ミケルセン家伝来の魔術外装『万華鏡カレイドスコープ』。武器にして大業物相当の名品が、マージェリー・ミケルセン本来の装備である。探査・解析に特化した造りをしてあるが、ある程度の魔術防護も施されている。


 ――境界と同じく不可侵の性質がある? ということは、これは今までの境じゃない……!


 冷たいものが、マージェリーの背中を通る。


 フリーデのことは、今やマージェリーには何も分からない。しかし彼女がは、彼女の魔術師としての知識が危険信号を発しながら教えていた。


「――告げる」


 ――マズい。これは非常にマズい……!


 スキールニルとカレイドスコープへ魔力を流し込み、マージェリーが前方を睨む。その視界の先で、今度は明確に……フリーデは彼女を


 駆け出そうと踏み込んだ足はふくらはぎの辺りが深く切れ、次いで脇腹が切れる。出現した境はばちばちと音を立ててその場に静止し、間もなく消滅した。


ぅ……!」


 苦痛に顔をしかめて、マージェリーの動きが止まる。未だ戦いと痛みに不慣れな身、咄嗟のダメージにまだ思考は対応しきれない。


 静止したマージェリーはそのままに、フリーデは澄んだ声でうたい続ける。


「其は白銀しろがねの剣。其は十字と洗礼の泉。其はこの世全ての悪を裁く断頭台。

 我が目を、我が耳を、我が手を逃れることはあたわじ。我が目は空の彼方、我が耳は汝が傍、我が手は汝が手にあると知れ……」


「フリーデッッ!」


 区切られた聖堂内に魔力が満ち、一定のリズムで波動が走る。


 波動がひとつ巡るごとに、世界は異界へ変わっていくのを、マージェリーの全身が感じる。


 其は、信仰のもたらす奇蹟。降霊魔術ネクロマンスの最高峰。


「救済を。全てを委ね、膝を着き、諸手を組み祈りを捧げよ。全てを告げ、赦しを乞い、救いを求めよ。あらゆる穢れはすすがれ、あらゆる罪はあがなわれ、あらゆる者は赦される。

 我がつるぎで汝の罪を雪ぎ、汝の祈りを聞き届け、汝の骸に寿ことほぎの口づけを与えよう。永遠の赦しは、永遠の安らぎは、我が手のもたらすものと知れ――!」


 刹那、世界は緑に包まれる。


 二人の身体は光に呑まれ、世界をそれまで満たしていた気配は急速に塗り替えられていく。


「く――」


 眩しさに耐えかねてマージェリーが目を閉じ、彼女の意識は一瞬途切れた。


 間もなく意識を取り戻した彼女が、ゆっくりと瞼を開く。


 そこは聖堂ではなかった。昼であった筈の時刻は、いつの間にか夜となっている。


 初めに映ったのは、血錆びの浮いた断頭台。次いで見えるは無数の


 三日月の浮かぶ夜空と白砂の砂漠の中に、寸分の狂いもなく整然と並べられた断頭台の群れ。月光の中に見えるのは。それがこの世界の全てである。


「こ、ここは……!」


「ようこそ、お嬢様。私の心の中へ」


 清澄な殺気に満ちた、夜と断頭台の世界の中を、フリーデが悠然と歩く。


 マージェリーの額に脂汗が幾つも浮き、手元はかたかたと震えた。


「これが私の心象領域。ここが私のたなごころ。さあもう助かりませんよお嬢様」


「心象結界術式……! そんな高度な魔術が使えるなんて、アタシ知らなかったけど?」


 マージェリーの言葉に、フリーデが僅かに目を細める。


 心象結界術式。己の心を世界に投影し、魔力で肉付けし、結界として展開する……降霊魔術の最高峰と呼ばれる術式である。


 無定形な心象を一つの風景として描き、それを揺らぐことなく魔力で投影し続けるのは至難の業。名のある魔術師であっても、心象結界術式を使える人間はごく稀である。


「『殲滅の魔女』レヴ、『偽典の魔女』ビリティス、『天上の魔女』カンパネラ。魔王ノエルの蒔いた種を……この世に蔓延はびこる魔女の呪いを断ち、より広く、より清らかに、遍く光の満ちた世界を作る……。その為の剣が魔女狩り部隊イノケンティウス。ですからこれは――」


 胸の前で両腕を拘束させ、フリーデがマージェリーを見据える。


「【捕縛】」


 短く唱えられる、詠唱とすら呼べない一語。


 その一言が発せられると同時に、マージェリーの両手には木と鉄で出来た大きく重厚な枷がはめられた。その枷は上空から振ってくるでもなく、また地下から出て来る訳でもなく、初めから当然の如く……マージェリーの手首を拘束した状態で出現した。


 ――いつの間に……!?


 ここは、フリーデ・カレンベルクの心の中。


 あらゆる法則は無視され、あらゆる道理は通らない。最優先事項プライオリティはフリーデの空想イメージする像であり、言ってしまえば彼女が強くイメージできるものは何であれこの世界に実現できることになる。


 枷のひとつやふたつを出現させて拘束することなど、実に容易い。


「……ですからこれは、呪いに苦しむ者達を、優しくゆるす術なのです。魔女狩り部隊イノケンティウスの全隊長、一番隊から五番隊までの隊長全員が、心象結界魔術を習得しております」


 ぴたりと、フリーデがマージェリーを指さす。


 しっかりと目が合ったことを悟り、ぞわりとマージェリーの全身が寒気に震えた。


 死は、もはや眼前まで迫っている。


「――【執行】」


 放たれたのは、鋼の様に冷たい一言。


 フリーデの左腕が光を放ち、次の瞬間にマージェリーの喉は二つに大きく裂けた。


 ぱっと大輪の花が咲き、赤い花弁は濡れた音を立てて白砂を染める。


「ーーーーー~~~~~ッッッッ!」


 叫ぶことすら許されない、断罪の一撃。


 遅れてやってくるのは……焼け付く様な、想像を絶する激甚たる痛み。


 ぶくぶくと血の泡を垂らし、喉から血を噴き出しながら、マージェリーが悶絶する。彼女を捕えていた枷は、執行が完了すると同時にその場から消失していた。


「……! あ、ぐ、ぶふ……ッ」


 涙をぼろぼろと零し、膝をがくがくと揺らしながらも、血走った目でマージェリーがフリーデを睨む。


 一方でフリーデは厳しい表情を崩さずに、早足に彼女の方へと歩みを進めていた。


 ――やられる……今から確実に殺される……!


 進退ここに窮まれり。既に朦朧としかかった意識の中で、マージェリーは僅かに己の死を覚悟した。


 ……一秒、二秒、三秒。


 やってくる筈の死は、しかし幾秒経ってもやってこない。


「薄皮一枚、命を断ち損ねましたか。護衛などという任務のやり過ぎで、腕がなまりましたかね」


 その言葉が嘘か真実まことか、マージェリーには分からない。


 けれどフリーデの心が僅かに揺らぎ、憤りの色が混じったのを、彼女の感応能力だけは半ば自動的に感じ取っていた。


「…………」


 口惜しそうに、フリーデが唇を噛む。強く嚙み過ぎたせいか、唇は切れて赤い線がつうと口元を這った。


 あっという間にフリーデがマージェリーの下へとたどり着き、既に殆ど膝をつきかけたかつての主人を見下ろす。


 もはや虫の息となったマージェリーは、それでも膝を着かぬよう、喘ぎ喘ぎフリーデの方を睨み上げていた。


「う……ぶっ、フリ…………デ」


「痛いですかお嬢様。喉が切れると、この上なく痛いでしょう。苦しいですかお嬢様。死がそこまで迫っていることを感じますか、お嬢様」


 ずい、と右手を伸ばし、フリーデがマージェリーの首を掴む。


 ぞぶりと五指が傷口へと入り込み、彼女の身体を内から侵す。


「――――――――ッッッッッ!!!!」


 マージェリーの全身ががくがくと痙攣し、喉から血が噴き出る。


 こり、と音を立てて、フリーデの指先が何かを摘まんだ。


「嗚呼、可哀想なお嬢様。本当に本当に、申し訳ないことを致しました。ですが私、


 フリーデの右腕に魔力が集まると、マージェリーの身体から青い魔力が噴き出し始める。放出される彼女の魔力はフリーデのものと溶け合い、共振し、い交ぜとなって大きく膨れ上がっていく。


 フリーデが摘まんだのは、血管を伝うマージェリーの魔術回路。魔力を直に感じ、引き出すことにより、二人は最も深く繋がることができる。


「――――――――」


 澄んだ歌声が、夜の砂漠へ響き渡る。


 断頭台の刃はりぃんと音を立てて震え、音色は軽やかに涼やかに、どこまでも渡っていく。


 彼女の歌に合わせて、膨れ上がった二人の魔力は爆ぜ、幾つもの煌めきを踏み出した。


 つぷ、と音を上げて、フリーデの指先がマージェリーの喉から抜き取られる。同時にマージェリーが激しく咳き込み、フリーデは一歩後ろへと退いた。


「がはっ……! あ、あ、何を……!?」


 喉を撫でるマージェリーの指先は、そこにあるものが無い事を探り当てる。


 ――傷が……無い。


 先程まで赤い花を咲かせていた喉の傷は、まるで最初から無かったように消え失せていた。痛みの消えた思考は急速に回転を始め、今起きた状況を整理し始める。


 ――治癒術式……でも刻印や自然の類じゃなかった。こちらの魔力を汲み取って術式に使った? 共感の法則……?


「祝福儀礼の一つです。お嬢様の魔力と私の魔力を共鳴させて、傷を治しました。声も万全に出るでしょう」


「祝福儀礼って……要は降霊ネクロベースの治癒術式でしょうが。教会は欺瞞が大好きね」


 降霊魔術の法則は大きく分けて、共感シンパシー感染コンティジャンスの二つ。


 共感は周りや他者を自己と重ね合わせ、共鳴することによって恩恵を受ける力。


 感染は特定の媒体へ触れたり見たりすることで、決まった効果を受ける力。心象結界は共感、精霊憑きは感染の法則に従って術式が編まれている。この術式は共感の法則で編まれたものだとマージェリーは推測していた。


 フリーデは先刻、マージェリーの魔術回路を直接刺激することで強制的に魔力を放出させた。


 後は彼女の魔力を読み取り、波長を合わせ、自分の魔力と混ぜ合わせる。


 フリーデの魔力とマージェリーの魔力という彼我の境を曖昧にして、ように術式を組み、歌で二人分の魔力を操作して術式を発動させる。


 一つ間違えればフリーデ自身がマージェリーと同じ致命傷を負う、危ない綱渡り。それがマージェリーの傷を癒した、治癒術式の仔細である。


「解せないわね、どうして傷を治したのよ」


「…………」


「アタシをいたぶるつもりで生かしたのかも知れないけれど、とんだヘマを踏んだわね。アンタ、アタシを殺す勝機チャンスを失ったわよ」


 マージェリーの目が、さっと周囲を見渡す。


 取り込まれた結界、フリーデの術式、自分の置かれた状況と手駒。


 その全てを勝つために全て使い切ることを、たった今彼女は決意した。


「……さあ、もう一度試しましょうか。次はきちんとちますゆえ、ご安心を」


「全く笑えない冗談を……!」


「……冗談?」


 フリーデの指先で、僅かに光が明滅する。


「私が最も苦手なものが冗談と知って仰るのですから、全く人が悪いですね」


「いいえ、冗談にしてみせるわ。!」


 マージェリーがフリーデを切っ先で指し、きっと睨み上げる。


 スキールニルとカレイドスコープに魔力が走り、溢れる悋気に刀身が震えた。


 大きく息を吸い、高らかにマージェリー・ミケルセンは宣言する。


「――フリーデ・カレンベルク。アタシはこれから、アンタをわ」

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