第十九話 謀反と誅伐①
「……ミケルセン家次代当主、マージェリー・ミケルセン。それが私のお仕えする主の名です」
仄暗い中に太陽の光が差し込む、古風な聖堂の中。
祭壇の前に立ち、灰色の陶器を大切そうに抱えて、フリーデ・カレンベルクはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
白陽金十字の紋を入れた濃紺の修道服を着込み、陶器を持った左腕には包帯を巻いている。
「かつて私は、
フリーデが陶器の中へと右腕を差し入れ、静かにかき混ぜる。
一度、二度とかき混ぜる度に、フリーデの手には白い粉が付着する。時折かつかつと硬い音が鳴り、中には粉の他にも何かが入っていることを物語っていた。
「あの日まで……私は私の仕事に、ただの一度も愉しみを抱いたことはありませんでした。善も悪も、老いも若きもなく、一切合切を切り伏せる。人斬り包丁に感情は必要ありませんから」
かり、と音が鳴った。
陶器の中から何か白いものを取り出して、フリーデが口に含む。白くて硬質なそれは、月の光の様に青白い輝きを放っている。
人骨。三日前に彼女が回収した、エヴァ・テッサリーニの遺骨。陶器の中身は焼却されたエヴァの亡骸だった。
エヴァの遺骨を軽く口に含みながら、フリーデが顔を歪ませわなわなと震える。
「しかし、そんな私はお嬢様に出会ったことで変わりました。かつて殺すことと奪うことしか知らなかった私に、お嬢様は守ることを教えてくれたのです。血濡れた私の手であっても、誰かを守り、救うことができるのだと……!」
ぎゅっと彼女の拳が握られ、遺骨を容れた陶器が軋む。
孤児院にいる子どもの中から、取り分け信仰が
異端は
「ですが、それは最早叶わなくなってしまいました。ユークリッドの手によって、『緑の歌うたい』達の手によって、私とお嬢様の安らぎは摘み取られてしまった……!」
呪う様な悲痛な告白が、フリーデの腹の底から吐き出される。
冷酷に徹する神罰の代行者とは思えない言葉が、ぽつりぽつりと紡がれていく。
やがて言葉を紡ぎ終わり、振り返ったフリーデは……寂しげな、限りなく透明な笑みを浮かべていた。それは何か大きな覚悟を決めた者が、自分の行くであろう路の終着点を見つけた者ができる、この世で最も寂しい笑みだった。
「……貴方なら、私の気持ちが分かるでしょう。私と同じ匂いがしますので」
「…………」
聖堂の入り口には、一人の男が立っていた。
烏の様に黒い髪。血の様に紅い甲冑。背には長剣を担ぎ、腰には短剣を差している。
クリフは無言のままで、フリーデの独白をずっと聞いていた。その顔は張り詰めていて、じっと彼女の方を見ている。彼女が何を考えているのか、彼女が何を伝えたいのか、今のクリフには全て分かっている様に見えた。
「お嬢様は私が必ず守ります。お嬢様がもはや助からないのでしたら、せめて綺麗なままで殺して差し上げることが、私の定めた忠孝です」
「……本当に、それで良いんだな」
「これは私とお嬢様の問題です。どうか、どうか……手出し無用に願います」
フリーデとクリフの視線がぶつかり、二人が暫し見つめ合う。
そこに言葉は無かった。否、必要なかった。
ただ見つめ合うだけで、その時二人は全ての思いを伝えることができた。
戦士としての観察力と共感力があったというのも、無論大いに関係ある。しかしそれ以上に二人の距離を縮めたのは境遇だった。二人のこれまで過ごしてきた境遇が似通っていたことが、他ならぬ大きな要因となった。
「委細承知した。お前とマージェリーの戦い、手は出さないし出させない」
「……ありがとうございます。貴方とは本当に……他人同士という気がしませんね」
かつかつと音を立てて、フリーデがゆっくりと歩いていく。その足はクリフへと確実に近づき、互いの間合いにまで迫り……そしてクリフを一歩追い越す。
互いに背中合わせの形になったところで、フリーデはぴたりと足を止めた。
「貴方に、少しだけ話しておくことがあります。暫し傾聴願います」
そしてフリーデの唇が、再び言葉を紡ぎ始める。
クリフが聖堂の扉を開けて出てきたのは、それから少し経ってのことであった。
「クリフ……」
マージェリーの呼びかけに、クリフは答えない。
ただ歯を食いしばって、わなわなと身体を震わせながら……一心に何かを耐えている様に見えた。それは先程フリーデが見せたものとよく似通っていたが、マージェリーがそれを知る筈はない。
クリフが聞かされたのは、フリーデの忠孝の果て。
その果てを知らされたクリフには、もはや歯噛みしながら見送ることしか許されなかった。
「……大丈夫、戦えるわ。行ってくるわね」
「…………ああ。行ってこい」
真っすぐに前を見つめながら、マージェリーが早足で聖堂の扉へと向かう。
クリフと擦れ違い、その背中を一瞥し、マージェリーが大きな木製の扉へと手をかけた。
古い木と錆びた鉄の鳴らす重々しい音が響き、徐々に聖堂の内部が露わになる。
内部は静謐と緊張に満ちていた。一度足を踏み入れれば決して逃れることのできない、隔絶された異界であることをフリーデの殺気が物語っている。
例えるならば、それはきりきりと張り詰めるピアノ線。軽い気持ちで触れれば、たちまち皮は裂け肉は断たれる。一瞬たりとも油断はできない。
聖堂の最奥、祭壇の部分に、フリーデ・カレンベルクは静かに佇んでいた。
大股に五十歩。彼我の距離は、マージェリーが歩みを進める度に縮まっていく。
「来ましたか、お嬢様。
フリーデが左腕の包帯を取り、マージェリーが両手に素早く手袋をはめる。
マージェリーが腰から銀色の短剣を取り出したのを認めた時……フリーデの目はわずかに細められた。
「それは……神聖剣スキールニルですか。なるほどなるほど、これで場数の差を埋めようとは考えましたね、大きく出たものです」
つうと、フリーデの左腕に緑色の魔力が走る。
準備万端。もはやいつ斬撃が飛んできてもおかしくない状況に、マージェリーが生唾を呑む。
「這う赤子が立った程度には、進歩を感じます」
「――『宵の明星、明けの流星、瞬き流れて陽を招け』」
マージェリーの口上に合わせて、スキールニルは短剣から細身の双剣へと姿を変えた。
ゆっくりと吸い込み、思考を明瞭にする。今やマージェリーは、スキールニルにある使徒の情報に振り回されることはなくなっていた。
「貴女を殺すわ、フリーデ・カレンベルク。アタシの為に、アタシが前に進むために」
「……へぇ」
一瞬、フリーデが驚いた顔をして……ふっと微笑んだ。
それはマージェリーが今まで見た事の無いような、透明で寂しい笑みだった。
「ええ、構いません。
きらりとフリーデの左腕が閃き、マージェリーの髪がひと房切断された。
「――お出来になるなら、ですが」
左腕は何度も瞬き、聖堂の中にある椅子や床は次々に両断され始めた。
魔力が閃いてから対象が切断されるまでの
――何、これは……!
冷汗を流すマージェリーを指さして、フリーデが大きく息を吸う。
「我が声をお聞きなさい。私は元
一身上の都合により、これより主に刃を向け、
「我が声を聞け。アタシはミケルセン家次代当主、魔術師協会第七位、『緑の歌うたい』元第三席、マージェリー・ミケルセン。
己の野望を果たす為、
名乗りを上げ終わると同時に、フリーデの魔力が弾ける。それと同時にマージェリーの足は、半ば反射的に地面を蹴って後退していた。
先程までマージェリーのいた空間が切断され、ばちばちと音を立てて魔力が稲妻を放った。空気が乱れてごうと風が吹き巡り、マージェリーが僅かに目を細める。
「――――。――――。――――――」
高い、金属質な音が三つ鳴る。
マージェリーの高速詠唱と共に、足元から土柱が出現する。次々に出現する土柱を蹴って、一瞬でマージェリーはフリーデの頭上を取った。
フリーデが視界で捉えて斬ろうにも、この狭い空間で動き回るマージェリーを捉えることは難しい。対してマージェリーがフリーデを捉えることはごく容易い。
戦いに於いては絶えず有利な場所を取るべし。クリフがマージェリーに教えた基本の一つである。
「――スキールニル!」
マージェリーがスキールニルに、大量の魔力を流し込む。
しかしその時、フリーデの目はマージェリーを見透かして、天井へと視線を注いでいた。
「はああっ!」
「お嬢様ッ!」
スキールニルを大上段から振り下ろそうとするマージェリーの身体を、フリーデが強く蹴り飛ばす。魔力で強化された執行者の
変化は、その直後に起こった。
轟音を立てて天井に穴が開き、何者かが降って来る。床に大きなヒビを入れて着地したそれは、二人の目には獣にも化け物にも見えた。
振ってきたのは、褐色の女。両腕は鉄塊の様な義手となっており、他の全身は鋼の様な筋肉で覆われている。その顔には大きな傷跡があった。
「よぉおーーし! 全員いるなぁ!?」
満面の笑みを浮かべて女が立ち上がり、がんがんと拳を鳴らす。
受け身を取り損なおうとしていたマージェリーを受け止め着地したフリーデが、苦々しい顔を浮かべて舌打ちした。
「ハイネ……!」
背中にうすら寒いものを感じて、フリーデとマージェリーが脂汗を垂らす。
ハイネの名を知らないものなど、教会の中には一人もいない。
異端であろうと同胞であろうと、戦士であれば誰でも喰らう。数多の戦場を彷徨い、ただ強者だけを求めて辺り一面を食い散らかす。
「んん……感じる感じるっ、ビンビン感じるぜ!」
ぎょろぎょろとハイネの目玉があちこちに動き回り、辺りを眺めまわす。同時にせわしなく鼻が動いて、辺りの匂いを嗅ぎ取っていた。
「中に二人! 外に二人! 全員極上!」
周囲の状況を把握したハイネが、涎を垂らしながら舌なめずりをした。彼女の目が扉へと向けられたその時――扉を蹴破るようにしてクリフが聖堂内へと飛び込んできた。
真っすぐハイネを見据えながら、クリフが長剣を抜く。それを見たハイネは愉しそうに笑い、両の拳をぐっと握り込んだ。
影を絶つ様にクリフが飛び、地震と共にハイネが踏み込む。
「さぁ! 始めようかッッッ!」
歌う様に、ハイネが歓喜の叫びをあげる。
戦いの幕は、今ここに切って落とされた。
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