第一話 魔王と狼
「
男の目の前で、童女が微笑む。
そこは死体の山だった。血と鋼と火薬の匂いに満ちた死の世界の中心で、童女はそこを庭であるかのようにそこにいた。
ノエル、と童女は名乗った。
三百年もの永きに渡り、世界を恐怖の底に陥れた魔王を名乗る彼女の姿は、しかし男の知るそれとは全く違っていた。
伝え聞いていた蝙蝠を彷彿とさせる翼も、獣じみた牙も、彼女の身体のどこにも見られない。
しかしそんな姿であるにも関わらず、男は彼女の言葉を疑うことなく呑み込んでいた。
信じた訳ではない、ただ、それが嘘であるか真であるかは男にとって些事だった。
重要なのは、彼女が敵であるか味方であるか、その一点だけだ。
「それ、妾は名乗ったぞ? ぬしも名を名乗れ、そこな狼よ」
「……クリフ。ただのクリフだ。……それで、魔王が俺に何の用だ」
男がそう答えると、ノエルはほうと深いため息を吐き出した。
それまでは自信にのみ満ちていた深紅の目に、僅かに疑いの光が灯る。
「……ぬし、妾が魔王だということに疑いは持たんのか? こんな姿の
「お前が何者であっても構わない。俺にはまだやり残した事がある。魔王でも何でも良いから、早く俺を解放しろ」
「ほう、やり残した事とな」
その言葉を、ノエルが捉える。やり残した事、やり残した事と何度も反芻させながら、今度は瞳に期待の色を灯らせる。
「奇遇じゃのぅ……妾にもやり残したことがある。じゃがその為には妾だけでは力が足りん。なぁぬし、この
「……そう、だ」
「そうかえそうかえ、いやはや愉快愉快、痛快じゃ」
けらけらとノエルが嗤う。心底愉快そうに、或いはどこかへ叫ぶ様に。
その声は底抜けに明るく、また凍り付く程に冷たい。
「妾のやり残した事はの、勇者を一人残らず殺す事じゃ。妾を玉座より引きずり下ろし、
その時、はっと何かに目覚めた様な気分に男はなった。
伸ばした指先が、彼の真ん中を捉える。逃れられない運命があるとするなら、それはきっとこの時の事だろう。
その時彼は間違いなく、そこに運命を感じた。
「時にぬし。ぬしのやり残したこととは何じゃ?」
「……太陽」
「うん?」
「太陽の聖女。コーネリア・ザカリアヴナ・ベアトリーチェの奪還だ」
ふらふらと、男が手を伸ばす。
「太陽を……俺は、太陽を取り戻したい。その為ならば、その為ならば……!」
何にでも従う。泥水を啜り地べたを這いずる。光を捨てて夜に生きる。
それだけの覚悟が、男にはあった。
――俺は今ここで、ノエルの元へ……。
行かなければならない。今ここで、自分は魔王の元へと行かなければならない。
でなければ――為すことはできない。太陽の聖女を取り戻すことなどできはしない。
そんな思いを汲んでか汲まずか、彼女は今再び、嫣然と微笑んだ。
「さて、これより妾は一度だけぬしに命ずる。
そして彼女の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「一人残らず狩り尽くすまで、ぬしは妾の刃となれ」
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