阿波踊り

nine-six

阿波踊り

 世界を救うために、私は、今日も阿波踊りをする。

 あるいは、世界を滅亡させるためなのかもしれない。どちらにせよ同じことだ。私はとにかく阿波踊りを、踊り、踊り、踊る。それがいったいなんなのかもわからずに踊り、踊り、踊る。

 どこで? 舞台はどこだってよかった。だから、とりあえず近所の公園にした。家から徒歩五分の、ベンチしかないような公園。小さな子どもたちも来ないような、たまに朝から酒を飲んでいる老人が座っているような公園で、私は踊った。

 何も踊りたくて踊っているわけではない。かといって義務感とか、そういったものがあるわけでもない。そもそも踊りとは意味からの解放であり、しかし、わざわざこんなことを説明するということは、いまだに私は意味に縛られているのだろう。

 もちろん音楽は必要なかった。私の頭の中でそれが鳴っていれば十分だった。

 だから私を見ていた人はそもそも私が阿波踊りをしているということさえ気づかなかったかもしれない。だいたいが、私が踊っているところを発見したらみんな逃げていく。近づいてくるのは警官だけだった。

 またですか。

 すっかり顔なじみになった警官は、呆れたように言った。私は三日前にもここでこの警官から注意を受けていた。変な行動をするなときつく言われていた。

 いえ、季節も春になったものですので。

 確かに、春はあなたみたいな変質者が増えて困ります。

 警官は私のことを口では悪く言うが、実際は私のことをそこまで嫌いではなさそうだった。むしろ、私の踊りを好意的にとらえていた唯一の人物だった。あるいは、私の踊りというよりかは、私が公園で踊っているという現象を、唯一受けとめてくれていた。すっかり私たちは共犯だったというわけだ。

 変質者ではないのです。私は世界を救うために踊っているのです。

 あなたの目はいたって真剣なので、だから私も真剣に言いますが、あなたは間違いなく病気だと思います。

 それはそうだ、と私は思った。私は間違いなく病気で、それはおそらく今すぐにでも入院するべきような病気で、しかし自分のことをそこまで冷静に考えられるのならばまだ症状は軽い方なのかとも思えるほどは冷静で、だけど世界を救うために阿波踊りをしているというのもまた本当で、だから私はいったい自分がどうすればいいのかわからなくなっていた。

 一度、病院で診てもらいましょう。

 警官はまったく正しく、そしてやさしかった。私のような人間をほとんど軽蔑せずに接することができるこの人が人格者と呼ばれるのだと思った。

 それで。

 はい?

 私は世界を救えたのでしょうか。

 そもそもあなたは何を踊っているのです?

 警官がそう言い、私は愕然とした。やはり私の踊りが阿波であるということも一番の理解者であるはずのこの警官にすら伝わっていなかったのだ。

 あわ。

 え?

 あわおどり。

 あわって、あの、徳島の? 阿波踊り?

 うん。

 どうしてか私はそのとき自分が一瞬にしてとても幼くなったような気がした。警官がまるで先生のように思え、自分にもあったはずの幼少期を思い浮かべながら、ただこの警官に甘えていたかった。

 まったく阿波踊りに見えないですね。

 と警官は言ったあと、すぐにその言葉を訂正した。

 いや、私は阿波踊りを実際に見たことがないし、だからそんなことがわかるはずもないです。もしかしたらあなたの踊りは本当に阿波踊りなのかもしれない。

 警官はいつだって真剣だった。それは私の踊りがいつだって真剣であったように。私はそんな警官の姿を見ていると、いままで自分がしてきたことが間違っていなかったと確信した。

 ありがとうございます。

 どうしたのですか。

 私が礼を言うと、警官はまるでおぞましいものを見るかのように視線を向けた。

 いえ、なんでもないのです。

 私はそう言って、それから、

 では、私を病院へと連れて行ってもらえますか。

 と警官にお願いした。私がこの警官と会ったのはこの日が最後で、そして阿波踊りをすることをやめようと決意したのもこの日だった。

 

 病院は快適とはいえなかった。お風呂に入れるのだって三日に一回程度だし、小さな部屋には私以外に三人の病人がいる。カーテンで区切られただけのスペースは、プライバシーなどあるはずもなかった。

 私は病院の中をひたすら歩いた。とにかく暇だったのだ。一日に三度の食事以外に楽しみはなく、もちろん外には出られないから身体は疲れず、だから無理やりにでも小さな病棟を何時間も歩いた。

 歩いていると、すぐに浮かんでくるのは世界を救わなければならないということだった。私は踊ることをやめようと決意はしたが、しかし、世界は救わなければならなかった。踊ることは義務ではなかったが、私にとって、世界を救うことは義務のように思えたのだ。

 先生、私はまったく偉大ではありませんが、しかし、だからこそそういう義務があるのです。

 そうですか。そのお話をもう少し聞かせてくれませんか。

 いえ、話せないことも多いのです。この会話だって、誰に聞かれているかわかりませんからね。言葉は、とても脆いものです。だからこそ私はいつだって踊っていたのです。踊りは、言葉を使わないで表現することができます。

 つまり、あなたには踊りが必要だったのですね?

 いえ、もちろん踊り以外でも言葉を使わない表現方法はあります。しかし、阿波が私に舞い降りたのです。

 ちなみに、あなたのご出身は?

 世界の終わりです。


 薬はたくさん飲んだが、どれがどのように効いているのか、まるでわからなかった。薬の変更があるたびに、先生に体調はどうですか? と聞かれたが、私はいつもそれを太陽の明るさで例えた。

 今日は夏の太陽でした。

 冬ではないのですね?

 夏と冬が同じでないのであれば。

 私は先生との会話が不毛に思えて仕方なかった。そう感じるといつも警官のことを思い出した。私が意味を見出せたのはあのときだけだったような気がした。

 

 ふたたび私が踊るときがくることになるとは、まったく予想していなかった。

 ある日、いつものように私が病棟をくるくると歩いていると、遠くから叫び声が聞こえてきた。女の甲高い声だった。

 落ち着いてください、落ち着いてください。

 そう叫ぶ声は、明らかに落ち着いてはいなかった。落ち着いてくださいと叫ぶ女を看護師は必至で抑えようとしていた。誰ひとりとして冷静ではなく、ただそれを呆然と見つめる私たちだってそれは同じだったかもしれない。

 叫んでいる女は刃物のようなものを持っていた。当然だが病棟にそんなものは持ち込めるはずもなく、だからこそ看護師たちもどうすればいいのかわからずにいたようだった。いままで様々な患者の異常行動に対応してきた看護師たちも、刃物ひとつあれば冷静さがなくなってしまうようだった。

 落ち着いてください、落ち着いてください。

 ふたたび女は叫んだ。私はその女をよく観察した。女はダボダボのジャージを着ており、やたらと長い髪は地面に着きそうで、それだけで自死できそうだった。女の視線は上を向いており、その目の位置からは私たちを把握できているのかもわからなかったが、それでも刃物は看護師たちに向けられており、だから誰も近づくことができなかった。

 落ち着いてください、落ち着いてください。この世界はもう終わりです。確かに、その事実はあなたたちには受け入れられないかもしれません。何かが終わることは、悲しく、辛いことです。しかし、それは人間の唯一の尊厳なのです。終わりがやってきて、それを見届けること。私たちにできることは、それだけなのです。だから、無駄な抵抗をやめてください。

 女はまるで踊っているようだった。ふらふらと、ふらふらと。音が鳴っていた。ステップは踏めてなかったが、身体が揺れており、それは世界が鳴らしている音に乗っている証拠だった。私はそれを見て、とてもうれしい気持ちになった。そして、あの公園で踊っていたときのことを思い出した。

 世界を救うために、私は阿波踊りをしなければならない。

 気が付いたら私は動き出していた。女を囲んでいる看護師の中に混じっていった。私の気配に気づいている人はいないようであった。誰もが目の前の女に気を取られていて、つまり私は自由の身だった。今だったらこの病棟から逃げ出すことも、この世界から逃げ出すことも、あるいは、誰の目も気にとめず、自由に踊ることだってできそうだった。

 音が鳴ってから踊りだすのか、それとも踊ってから音が鳴りだすのだろうか。とにかく私の中では音楽が鳴っていて、その時にはもう踊っていた。それはほとんど同時だったのかもしれない。

 身体の動き。自らの身体を道具として、見世物として意識する。私は見せたいのだ。この身体の動きを、このリズムを、このステップを。

私が踊るのはあくまでも阿波で、特段むずかしい動きはない、誰にだってすぐに真似できる、だから私は阿波を踊っている、誰にでもできるこの踊りを、しかし自らのものにしている、誰にでもできるこの踊りは、私だけの特別なものになる。

 私が踊っているということを、いったい誰がはじめて気づいたのか、それは不思議なことに刃物を振り回している女だった。女は私が踊っているのを見た。その視線を辿るようにして周りの人たちも私のことを見た。すると沈黙が生まれた。私の中ではあの阿波の音が流れていた、だからその音がみんなにも聞こええているのだと私は信じていた。

 誰も私のことを止めようとはしなかった。もしかしたら急に踊り出すことなんてここでは日常茶飯事だったのかもしれない。看護師はもちろん周りの病人も慣れてしまっていて、むしろ日常を思い出していた可能性だってある。つまり非日常のはずの祭りが、かえって日常を蘇らせた。

 気が付いたら女は叫ぶことをやめていた。何もかもどうでもよくなったのか、刃物をその場に置いて、そのまま部屋に戻ろうとした、そこを看護師に取り押さえられた、私はその間もずっと踊っていた、阿波を。一人で。誰に見られることもなく、ただ踊り続けなければならなかった。

 むなしい。

 そんな声が私の中から聞こえてきた。私はどうして踊っているのか、一瞬にしてまったくわからなくなった。

 狂気のめっきが剝がれていくようであった。それはつまり私が私自身と向き合う瞬間であった。私は自分が踊っている状況を俯瞰で見なければならなかった。世界を救うためにはじめた踊りは、しかし本当はそんなものではなく、ただの狂気の真似事であるような気がした。もはや誰も私のことを気にもとめていない、こんな状況では、踊ることなんてできない、私は見世物にすらならず、世界を変えるどころか、この歪な世界を維持するための道具となりはてていたことに嫌でも気づかされた。


 私は踊ることをやめた。


 ふいにあの警官のことを思い出した。どうしてあの警官は私に付き合ってくれたのだろうか、もちろんただの仕事だからといえばそうなのだが、それ以上の関係が私たちの中ではあったはずだった。私はあの警官のおかげで、あるいはあの警官のせいでこの病院にいるのだ。私は結局ここでも踊ってしまって、狂人にもなれずただ途方に暮れてしまっているだけではないか。世界を救うこともできず、もはや踊ることもできず、このままうちはてていくだけの生命だと感じた。


 騒ぎはあっという間に何事もなかったことのように仕立てられ、私たちはいつも通り異常な生活をはじめた。私はもう踊ることはなく、それでいて何かが私の中で決定的に欠けてしまっていることに気がついた。

それからの私はほとんど口をきくことさえできなかった。主治医の問いかけにも答えることができず、いや、そもそも私には最初から言葉など持っておらず、それで踊るという魂胆だったのだが、それさえもただの幻想だと知ってしまったいま、いったいどうして答えることができるというのだろうか。

 あなたは世界を救うのではなかったのですか?

 誰かが言った。たぶん主治医が言ったのだ。だけどその声はあの警官だった。どちらにせよ同じことだ。もしかしたら誰も言っていないのかもしれない。すべては私の夢幻で、だから私は。

 これから先も生活は続く。そのこと自体に不満があるのではない。ただ、私はできればもう一度踊りたいのだ。あの無意味な踊りを。無意味だと信じていたあの踊りを。それでいて世界を救うような踊りを。

 せめて、もう一度だけ。私に阿波を。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

阿波踊り nine-six @nine-six

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る