のど仏

くれさきクン

第1話

 僕と隆は学校の廊下で衝突し、どういう訳か、心と体が入れ替わってしまった。

 僕たちは戸惑ったが、結局解決策もなかったので、そのままの姿で生活する事にし、その三日後、隆は登校途中の横断歩道に突っ込んできたトラックにはねられ、死んだ。


 奇妙なものだった。告別式にはクラス全員で参列したのだが、自分の写真が遺影として飾られ(それは二年前に家族で松島へ行ったときの写真だった。僕は不抜けた顔でカメラに笑いかけていた)、クラスメイト達が僕の目の前で僕の思い出話をしながら泣き、そして僕の両親に挨拶するのを見ていると、当然と言えば当然だが、それがほんとうに現実の出来事だとは思えなかった。

 僕は僕の死体に興味があったが、棺には窓がついていなかったので、中を見ることは叶わなかった。頭を強く打ち、即死だったそうだ。


 僕の体と、隆の心が死んでしまった。

 誰もそのことには気づいていない。唯一僕と秘密を共有していた隆は死んだ。式場にいる全員が、僕が、十五年間僕であり続けていた僕が、トラックにはねられて死んだのだと思っている。そして、隆が死んだことには誰も気づいていない。深く考えれば考えるほど奇妙な状況だった。

 僕の体は永久に失われてしまった。僕はこれから死ぬまで、隆として生きていかなければならない。


 出棺の段になった。棺の傍らにいる両親の姿を眺めていると、不意に誰かに声をかけられた。

「もっと近くに行かなくていいの?」

 隆と仲のいい珠子が、囁くようにそう言った。「どうして?」と問い返すと、珠子は怪訝そうに眉根を寄せ、

「だって……ずっと仲よかったじゃない。よく彼の話してたし」

 僕は少し戸惑った。確かに、僕と隆はこの一年間よく会話したし、一緒に遊んだりもしたのだが、珠子に指摘されるまで、隆であるこの僕が、僕の遺体の傍にいるべきだという事には少しも思い至らなかったのだ。

「そうだね」

 僕はそう言い、棺が見える位置に移動した。母がすぐ目の前で泣いている。普段は感情を表に出さない人なのだ。その母が、嗚咽しながら泣くのを見ていると、さすがに心が痛んだ。

 

 棺が式場の外に運び出され、母と父と伯父夫婦が、棺と共に霊柩車に乗り込んだ。僕たちは霊柩車に最後の別れを告げた後、担任の短い話を聞いて、解散することになった。

 珠子が僕のところへやってくる。

「一緒に帰ろう」

 どうしようかと一瞬迷ったが、断って変に気を遣われたくもなかった。僕は頷き、珠子とともに歩きだした。


 僕が隆になって五日になるが、初め予想されたほど、日常生活への支障は大きくなかった。

 案外、うまくやれるものである。

 つまり、結局のところ、僕たちはどこにでもいる普通の高校生なのだ。隆がとてつもない秘密を持っている様子もなかった。母親との会話で、たまに僕の知らない人の名前が出てくることを除いては、これといって居心地の悪いこともなかった。

 誰も、隆の中身が僕であることには気づいていない。隆が隆であることの必然性が疑わしくなるほどだった。僕が長い時間を隆として過ごせば過ごすほど、隆が隆として生きた時間は希薄になり、隆という人間への認識は、僕自身に対するそれに近づいていく。自分の身体への未練さえなくしてしまえば、僕が隆として生きてゆくことに、それほどの苦労はないのだった。


「まだ信じられないね……」

 川沿いの道を歩いているとき、珠子はそう言った。

「あいつが死んだことが?」

「うん……だって、おとといまで、同じ教室で授業受けてたのにさ……」

 おとといのことを考える。その時すでに、僕の体の中には、隆の心が入っていたのだ。

「何か変わった様子とか、なかった?」

 少し気になって僕は尋ねた。

「何が?」

「だからさ、あいつ……いつもと違うところ、なかったかな、って」

「ううん。私は何も感じなかったけど。……何かあったの?」

「いいや」と僕は言った。「ちょっとそう思っただけだよ」

「……ふぅん」

 気の抜けたような返事をし、珠子はふたたび沈黙の躯となった。僕も黙って、機械的に足を動かし続けた。


 隆は、いま、どこにいるのだろう。

 隆は死んだ。けれど、隆の体は生きている。それは、何を意味するのだろう。隆の魂は、どうなってしまったのだろう。


    ☆


 小学生のころ祖母が亡くなった。大腸癌だった。一度は手術で難を逃れたが、すぐにまた再発し、壮絶な治療の末に死んだ。

 祖母の棺には、顔にあたるところに窓がついていたので、死に顔を拝むことができた。しわくちゃで、目は落ちくぼみ、骸骨のようになっていたが、それでも死に化粧を施され、口を軽く結んだ顔は、まるで昼寝でもしているみたいだった。入院していた頃よりよほど祖母の印象に近かった。

 僕はその時、両親や数人の親せきたちと一緒に霊柩車に乗って斎場へ移動し、棺が火葬炉の中に入れられるのを見た。きっちり入ってしまうと、斎場の人が炉の戸を閉め、伯父に点火のスイッチを押させた。それらの行程はじつにあっけなく終わった。


 斎場からいったん葬祭場へ引き揚げると、大人たちは事務的な仕事に忙しくなった。祖母と親交のあった人たちがやって来て、両親や伯父夫婦に挨拶をした。殆どは僕の知らない人たちだった。祖母は僕よりはるかに長い年月を、沢山の関係を築きながら生きてきたのだ。そのバラバラにほつれた糸が、いま一つにより集まっているのだと僕は思った。僕はそのうちの一本に過ぎないのだ。


 しばらくして、僕たちは再び斎場へ向かった。お骨を回収して骨壷に入れるためだ。

 銀色の台車の上には白い淡白な欠片があった。斎場の人が、どこか現実離れした口調で、この骨はどこどこの部位だとか、そんなことを話した。

 僕は、説明を頭の中で反芻しながら、まだ熱を帯びている骨片を眺めた。骨盤のあたりから、視線を押し上げてゆく。殆ど粉のようになっている部位もあるが、腕や脚は二本ずつあるし、首の上には頭骨がある。

 しかし、そこには祖母のおもかげは無かった。当たり前だ。僕は祖母の骨を初めて見るのだから。本人だって、自分の骨なんて見たこともなかっただろう。

「最後に頭骨を置いてください。……これがのど仏です。仏様がお座りになっている姿をしています。この方ののど仏は、とてもきれいな形をしていますね」

 のど仏。

 祖母の身体が横たわっていた台の上には、そう名付けられた、小さな骨があった。

 祖母はこの世からいなくなったのだ。

 僕はこの段になり、そのことを実感した。どこへ行ってしまったのかは分からないが、もう僕たちとは違うところへ行ってしまった。

 死んだ人間を火葬する理由が、何となくわかったような気がした。

 斎場の人が、鉄の長い箸で、仏と呼ばれる骨をつまみ、骨壷の中心に置いた。その周囲に頭骨を重ねていくと、仏の頭がひょっこり飛び出しているような形になった。器用なものだと僕は思った。


    ☆


 ふと、火葬の時間が気になった。時計を見る。斎場まではそう遠くない。そろそろ始まるころではないだろうか。

 僕の体が焼かれる。そして、小さなのど仏が残る。

 僕の魂はここにある。しかし僕の一部は、確かに失われる。僕の身体は、たしかに僕を規定するものの一部ではあったのだ。

「隆」

「うん」

 僕たちは川を眺めていた。水面に何枚かの銀杏の葉が浮いている。不規則に揺られながら、下流に向けて流れてゆく。

 何を考えているのか、珠子が言った。

「私たちは生きてるんだよね」

「そうだな」

 その声は彼女に、他人のもののように聞こえただろう。


 僕は僕の身体の数奇な運命を思った。誰のものでもなくなった『それ』は、その時になって、おそらく、誰も知らないところへ還された。

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のど仏 くれさきクン @kuremoka

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