第55話 テンネル侯爵夫人side③

「そ、それは……ど、どういう……」


 予想外の言葉に声が震えてかすれて、うまく言葉が出てこない。

 

「どうもこうも何も、そのまま。僕はテンネル家は継がない。当主になる気持ちもさらさらないよ」


「なっ……」


 スティールの清々しいほどの物言いにわたくしは言葉を失った。膝の上の冷たくなった指先を温めるように包み込む。顔色も青褪めていることだろう。

 動揺しているわたくしとは対照的にスティールは冷静だ。

 姿勢を正し、対峙するようにまっすぐに見つめる瞳と引き締まった真剣な表情に嘘はないのかもしれない。

 けれど……


「どういうことなの? 退学する際に次期当主に指名することは伝えていたはず」


 動転した気持ちを落ち着かせながら、残る理性を総動員して荒げそうになる声を抑える。ここで感情にまかせて喧嘩腰になっては話は進まない。


「うん。それはちゃんとわかっていたよ。でも、兄上が当主に決まっている時点で、僕は家を出て独立しようと思っていたんだ。そのために留学をしたんだし、父上も母上も承知してると思っていたよ」


「事業を手伝ってくれるのではなかったの?」


「えっ?」


 スティールはびっくりしたように見開いた目を数回瞬かせた。


「僕、そんなこと言ってたっけ?」


 あごに手を当てて記憶をたどっているのか黙り込んだスティール。


「将来のことを考えて留学をするというのは聞いたわ」


 隣国の最難関の学院を受験したいという理由がそれだった。

 だから、てっきりうちの事業のためだと思っていた。


 隣国の学院は外国の留学生も多いし、成績が優秀であれば平民も通うことができる。成績争いは熾烈だと聞くし品行方正であることも求められる。たとえ王族でも両方伴わなければ、容赦なく落とされる厳しいところだと聞いていた。

 その厳格さゆえに、学院を卒業したとなれば就職先に困ることはないという。

 スティールはそんな中にあってとても成績優秀だと聞いていたし、人脈も含めて将来は家の事業に大いに役立つだろうと思っていたのだ。


「言ってなかったかなあ? その将来が、独立することだったんだけど」


「聞いてないわ」


 わたくしはかぶりを振って答える。

 スティールの将来は独立すること。夫婦が考えていた将来が事業を手伝うこと。

 全然違うのではないの? お互いかみ合っていない。今まで全然別の方向を向いていたってことよね。


「けれど、今は違うわ。状況が変化したのだから方向転換も必要だと思うわよ。あなたは次期当主なのだから」


 これからはテンネル家の将来のことを考えてもらわなければ……


「うん。だから、継がないと言っている。はっきり言えば興味もないよ」


 そんな……

 バッサリと切り捨てなくても。

 振り出しに戻ってまたもや言葉を失った。

 わたくしは重ね合わせた手をぎゅっと握りしめて、声を絞り出す。


「あなたがいなければ……テンネル家はどうなるの?」


 エドガーが使えない今、スティールにまで見放されたら……

 主人が元気なうちはいいでしょう。でも、そのあとは? わたくしたちも年を取るわ。いつまでも現役でいるわけにはいかない。それに次期当主がいないとなれば侮られることもあるかもしれない。ただでさえ醜聞があるのに。


「親戚から優秀な人材を見つけたらいいんじゃない?」


 軽率ともいえるような口ぶりで軽々しく答えるスティール。


「もっと、はっきり言えば、兄上の尻ぬぐいはまっぴらごめん、かな?」


「エドガーの?」


「兄上は婚約解消の意味を理解していないみたいだしね。なんというかいろんな意味でイタイというか……あれが兄かと思うと恥ずかしすぎて」


 よほどエドガーの態度がひどいのだろうか。スティールは目も当てられないとでも言いたそうな表情をしている。

 

「それはそれとして、今学期が終わったら僕は学院に戻るよ」


「はっ?!」


 サッと気持ちを切り替えたのかスティールはサバサバとした口調で言い放った。

 次々と息子からもたらされる言葉に気持ちがついて行かない。


「一度退学してしまえば戻れないけれど、実は休学扱いにしてもらってるんだ。退学はいつでもできるからって、学院長の勧めでね。ここの学園も悪くはないけど、やっぱりあっちが僕には合ってる気がするんだ」


「だったら、何のために帰国したの」


「それは父上と母上の言葉に従ったからだよ。一度現状も見てみたかったしね」


 大人しくて生真面目で努力家。それがわたくしのスティール評だった。線が細くて少し頼りないところがあったのに、いつの間にたくましく育ったのかしら。留学していろいろな生徒にもまれたせい? それとも、生来から持っていたもの?


「僕はまだ学生だからね。すぐに切り替えろと言われても簡単には出来ないんだ。だから、もう少し猶予が欲しい。お願いします。母上」


 スティールは立ち上がると深々とお辞儀をした。


 何度も拒絶するところを見ると気持ちはあまりないのかもしれないけれど、息子は息子なりに譲歩したのだろう。

 猶予。

 スティールの気持ちを考えずに、一方的に大人の考えを押し付けたのはわたくしたちだ。

 これ以上、息子の気持ちを失うわけにはいかない。


「わかったわ。当主の件はもう少し待ちましょう」

 

 わたくしの返答に安心したのか、ホッとした顔をしてスティールは部屋を出て行った。


 これから、主人とも話し合わなければならない。

 一筋縄ではいかない事態にさらに頭を悩ますことになった。

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