アリス

くれさきクン

第1話

 列車に乗っている。


 列車には窓がなかった。車両同士をつなぐ扉のようなものもなかったし、どこからどこへと向かっているのかも分からなかった。だから、列車でないと言われれば、たしかにそれは列車ではないのかもしれない。

 私の他には二、三人の乗客がいた。乗客には顔と呼べるものがなかった。顔にあたる部分にはとした深遠な穴が開いていた。二、三人、というのも不思議だった。二人に見えるときもあれば、三人に見えるときもあったのだ。

 横長の座席には見おぼえがあった。くすんだクリムゾン・レッドの冴えないシート。

 列車が揺れ、吊皮が揺れる。乗客の一人は親子のように見えた。


 やがて列車が停まる。ドアが開いて、声が聞こえる。

『列車はひとまず停まります。しばらくすると再び走りだしますが、それまでの間、列車を降りていても結構です』

 私は、ひとまず列車を降りようと思った。


 深い闇の支配する、森の中に私は降りた。光は列車の中にしかなかった。

 一人が私の後に降りた。重そうに身体を引きずり、歩き、森の中へと消えていった。通った跡は濡れたようにぬめぬめと光っていた。

 私は列車に戻り、元の場所に座った。列車が再び走り出すのを待つ。ぽーっとのどかな汽笛を鳴らし、ドアが閉まる。

 列車はゆっくりと動き出した。

 

 何故その列車に乗ったのか、思い出そうとした。けれども、どんなに懸命になっても、枯れた井戸をまさぐるみたいに、何一つ思い出すことはできなかった。やがて私はあきらめ、「列車に乗っている、それでいいじゃないか」、そう思い直すことにした。

 何もなかったところに窓が開き、夜の街が遠くに、小さく見えた。

 

 列車はいつの間にかトンネルに入った。何かに耳を押さえつけられている感じがして、少し嫌な気分になった。


 トンネルを抜けてしばらくすると、列車は再び停まった。さっきと同じ内容のアナウンスが聞こえ、ドアが開いた。外はやはり森だった。

 雨が降っているようだった。今度は降りず、窓辺にそって歩き、そこから森を眺めた。しとしと、猫の背中をなでるみたいな雨だった。一人、降りた。大きな黒い傘をさし、やはり重い体を引きずるように、森の奥へと消えていった。

 草が、木の葉が、真っ暗な空が、やさしい雨の中で、こっそりと音もなく揺れている。


 列車は夜の闇の中を、ことんことん、としずかな音をたてて走った。乗客はやはり、二、三人いるようだった。ぼんやりと、同じリズムで揺られる、彼らの暗い穴は、何も見ていないようだった。じっとそれを見つめていると、なんだか吸い込まれそうな感じがした。それと同時に、なぜか安らかな気持ちにもなれるのだった。


 街の光はずいぶん遠くへ行ってしまった。

 遠くに見るとそれは、息をこらし、じっと列車を見つめるちいさな獣のようだった。

 心配そうに、ただ成りゆきを見守るかわいそうな獣――

 

 光は少しずつかすみ、やがて見えなくなった。


 列車の中の明かりが徐々に暗くなる。薄闇のなかに、自分自身の姿がぼんやりと浮かび上がる。腕時計に目をやったが、よく見えなくて、私は溜息をついた。


 目をつむり、街のことを思った。そこで出会い、別れた人たちのことを考えた。

 いろんな人が私のそばにやって来て、何かを言っては去っていった。私はいま、遠い遠い、誰も知らない場所にいる。私がどこへ行くのか、私にもわからない。ちいさな獣は、もしかして、かつての私自身だったのだろうか。

 目を開けてみたが、何も変わらなかった。


 小さな音が聞こえ、私はまどろみから醒めた。

 はじめ、それは雨の音に聞こえた。しかし、やがて思い直した。雨ではない、それは、言うなれば霧の音なのだ。

 


 なにも特別なことではない。


 霧に包まれ、列車は闇の中を走る。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アリス くれさきクン @kuremoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ