遠背島展望室手引

Yukari Kousaka

 

 海の上ばかり見ていては駄目、と深水しみずは言った。

 その日、展望室の仕事を任されていたのはわたしだったはずで、だからここにはだれも来ないと思っていた。けれども深水はまるで自分の役割は最初から展望室にあったかのようにためらいもなくその扉をくぐった。そして、海の上ばかり見ていては駄目、ともう一度わたしに言った。

「深水の仕事はここじゃないでしょう」

「でも浅雛あさひな、きみに展望の仕事を任せるには頼りない」

 わたしは思わず舌を鳴らしそうになった。遠背島とおせじまはいつもこうだった。陸からやってきたわたしを快く迎え入れてくれたけれど、決してその一番重要な部分には触れさせてくれなかった。温かいと思ったそれは進めば進むほどつめたく陸のわたしを拒んだ。海底都市だと思った。都市というよりは町のほうが近いけれど。

 遠背島とおせじまで生まれたという深水もこの島に似ていた。深水だけではなかった。この島の住人はだれもが、まるで砂に擬態したエイのように、この島の色をしていた。

「現にばかり見ているだけじゃないか」

「当然でしょう。遠背島から海を、貝楼諸島をみわたすのがわたしの仕事なんだから」

「だから駄目なんだ」

 今度はきちんと音を立てて舌を鳴らした。わかっていたことだが、深水はそんなものには動じなかった。深水はわたしではなく、展望室を見つめていた。ひろい窓と双眼鏡、天候や生物の動きについてのデータがまとめられた資料、その他にも様々なスイッチやレバーがある丘の小部屋。

「じゃあ潜水でもしろって言うの」

 遠いさざ波が耳のなかで飛沫をあげた。

 戯れ歌、と深水はつぶやいた。え。

 戯れ歌を、浅雛が知らないから。

「遠背島はただの島ではないということを、浅雛は知らないからだ」

 その歌は、遠背島の子どもたちに教えられた。子どもたちは定められた年齢になるとその歌を覚えた。母親や父親によって代わる代わる教えられた。けれども子どもたちはその歌を外で歌うことを禁じられていた。歌を覚えるときも、母親や父親は戸が閉まっているかどうかということに充分注意を払った。当然、島の外では歌ってはならなかった。子どもたちは大きくなり、その子どもたちがふたたび定められた年齢になるまで歌ってはならなかった。楽譜も詩の記述も残してはならなかった。それでいて、次の代に教えるその日まで一音たりとも、一語たりとも忘れてはならなかった。

 その歌に遠背島のことがすべて記されていると深水は言う。

「どうして歌ってはならない歌なんてものを覚える必要があるの」

「歌うべきときが来るまで歌ってはならないだけだ」

 そして、歌うべきときはできる限り来てはならない、と深水は言った。

 深水は遠背島と歌の本質的なところについては何も語らなかったが、すべてを語ったようにも思えた。深水がわたしに展望の仕事をさせたがらないということ。海面だけを見ていては駄目だということ。島が、島の人間がエイのように同じ色をしているということ。戯れ歌は外で歌うことを禁じられているということ。

「戯れ歌を覚えたら、わたしも展望の仕事ができるようになる」

 今度は深水がおどろく番だった。深水は、本気、と息だけで笑った。もう、遠背島を知らないなんて言えなくなるよ。二度と。それでもほんとうにいいの。

 それでも良かった。わたしは本気だった。陸から逃げて、海に、島にたどりついたわたしは。もうどこにも行くところなんてなかったし、遠背島が、貝楼諸島がわたしを受け入れてくれるならなんだって良かった。深水はもう一度息だけで笑った。今度の笑いの意味はよくわからなかった。

 深水は黙って展望室をめぐると、扉や窓の鍵を閉めはじめた。手伝うべきだったのかもしれないが、わたしの身体はそのときすでに思うように動かなかった。鍵を閉められたのはわたしの身体だったかのように。すべての鍵が閉まっていることを確かめ終わると、深水はひろい窓から一度だけ海を見た。遠いさざ波が耳のなかで飛沫をあげた。

 それから、深水は歌った。

 歌はたったの三行だった。

 たったの三行だったが、わたしはそれ以上を必要としなかった。島もまた、それ以上を必要としなかったのだろう。歌はそれ以上の言葉を必要とはしなかった。深水は歌を頭から繰り返してから、初めてわたしの目を見た。歌っている間、深水が目を閉じていることにわたしは気がついていなかった。

「遠背島は、『それ』あるいは『彼の者』の背だ」

 『彼の者』。大いなるもの。神のひとり。あるいは悪魔の。

ああと思った。『彼の者』は今、眠っている。だからそのときではない。歌う必要はない。覚えつづける必要はあっても、思い出させる必要はない。

「遠背島は、あるいは他の貝楼諸島の一部も、『彼の者』の気まぐれによって存在している。『彼の者』は人を載せることを喜ぶ。人のためになることを喜ぶ。人が『彼の者』のもとで暮らすことを喜ぶ。『彼の者』は人を殺めることを喜ぶ。『彼の者』は人を苦しめることを喜ぶ。『彼の者』の本質は喜びだ。『彼の者』は海に浮かんでいるわけではない。海のなかの砂地に足をつけている。『彼の者』は天や陸から降りてここにいるだけだ。あるいは、海に沈んでいたものが浮かび上がっただけだ」

 深水は、だから、と付け加える。

 海の上ばかり見ていては駄目。

 『彼の者』がいつ目覚めるかは海しか知らない。海のなかしか、あるいは、海の底しか。海を、貝楼諸島を、遠背島を知るものしか、それを見つけることはできない。

「でももう浅雛も大丈夫だ」

 深水は扉の鍵をまわした。かちゃん、と気味のいい音がした。歯車がまわり始めるときのような心地がした。

「浅雛も、


 展望室はわたしだけのものになった。ひろい窓から真下を見下ろすと、木戸から深水が出ていくのが見えた。深水はこちらを見上げなかった。その必要はなかった。深水から、視線を遠くへと動かす。貝楼諸島が見える。遠いさざ波が耳のなかで飛沫をあげる。

 かすかに、『彼の者』が寝返りを打つ。


 わたしは展望室でひとり、戯れ歌を歌った。


 島は海に浮かんでいるとは限らず

 島は海に抗って時に陸とつながり

 島は海にかえる用意ができている

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