聖女の見上げる赤い月
おおきな犬
第1話
走っても走っても目の前に続く暗闇。後ろを振り向くと、いつからかすぐ後ろにもその闇は広がっていた。
戻ろうにももう家の明かりなど見えはしない。
汗か涙かもわからず、ひとりの少女は両手のひらで大きく顔を拭った。ぐすっと鼻をすする音は誰に聞こえることもなく、しんと静まる闇が飲み込んだ。
「お母さん。怖いけど、わたし負けません」
しかし、少女はとうに決意していた。何があろうとこの暗闇の先を目指さないといけない理由があるからだ。
「この手紙、絶対にお母さんの大事な人に届けるから」
2時間前。少女の母は古びた、小屋とも呼べる小さな家でひっそりと命を落とした。
『レイミヤ、この手紙を森の向こうの教会へ届けてほしいの』
囁くような声で少女レイミヤの母は愛しい我が子に最期の言葉を伝える。意識が遠くなる中、レイミヤの泣き声も何もかもがぼんやりと聞こえていた。
この手紙をレイミヤに渡すかどうか死に際まで迷ってしまった自分の愚かさに、やや冷静に呆れながらも最後には決めていた言葉を、我が愛しい娘に伝える。
『好きな人ができたら、その人の魂を愛しなさい。ううん、人だけじゃない、花も動物も人も。魂だけはみんな同じだから』
短い人生だったが、満足のいく内容だった。真っ暗闇の中で可愛いレイミヤの姿が見える。レイミヤが生まれてくれた日、初めて立ってくれた日、小さなカエルが跳んできてたくさん泣いた日。
一日、一日が暖かい灯籠になって、行き先を照らしていく。
これからもずっと思い出が照らすのだろう。その先にはきっと、あなたも。そんなことを思いながら、ゆっくりと心の目を閉じた。
重たい目蓋で視界が狭い。
つい2時間前に息を引き取った母とのやり取りがレイミヤの頭をよぎった。また目頭が熱くなるのを感じながら歩き始める。
最初のうちは激情に駆られ恐怖心もないままに走っていたレイミヤだが、今となってはまともに立って歩いている感覚もなかった。膝が震えている。
森の中にいるのはうさぎやリスだけではない。
もう動物ではないもの、死後に悪魔の力を得たモンスター『動魔』もこの森に巣食っているのだ。
もちろんレイミヤにそれをやっつけてしまえるような特別な力などないことは本人も承知していた。それどころか基本的にはか弱く、誰よりも優しくあることをモットーとする彼女にとっては喧嘩などもっての外であった。
そんな何が出てもおかしくない0時手前頃に、レイミヤはまだ森の奥深い場所にいた。
普段少しは人の通る道だけあってどちらに進むべきかはわかるにしても、月が隠れればほぼ真っ暗になる。完全に気が動転していたせいで明かりも持たずに飛び出てしまったことを後悔してももう遅い。レイミヤにはズボンのポケットに入れた手紙しかなかった。もちろん、暗くて読むこともならないが、読む気はない。
「お母さんが信頼する人、その人に読んで貰わなくちゃ意味がないもんね」
もう一度勇気を貰い、手紙を入れたポケットがほんのりと温かく感じられた。しかし、そんな勇気はすぐに小さく萎んでしまう。
ーーガサガサッーー
すぐ真横に2メートル近くの緑色をした生き物がゆっくりと現れたのだ。
ぬめぬめとした無毛の怪物は頭部側面についた大きな目玉だけををレイミヤに向けた。
「ひっ……」
思わず息の止まる動魔の迫力にレイミヤの全身は強張って動かなくなった。
巷では動魔による悲しい事件が起きていることを知らないわけではなかった。それでも冒険者が討伐したりして普段そう出会うことがなく過ごしてきたレイミヤにとって、夜の森も少しは安全が確保されるものだと心のどこかで思ってしまっていたのだ。
動魔は目の前に現れた恰好の獲物の息の根を止めるべく、にちゃっという音を立ててパーにした手をレイミヤへと振り下ろした。
びちゃ
咄嗟に目を閉じたレイミヤの頬に生温い飛沫がかかって、びくっと肩を震わせた。
恐る恐る薄目を開けた瞬間、旋風が起こったように木々の葉っぱが一斉に揺れて動魔が吹き飛んだ。すっかり怯んだ動魔は一目散に森の中へと逃げていった。
「夜の森は魔物の巣窟。何の用かは知らないけれど……早く帰りなさい」
「だ、誰ですか?!」
すとん、とレイミヤの前に黒衣の女が降り立った。その凛とした声よりもまず、深い深い赤色の瞳に釘付けになる。白い肌に赤い瞳、さらにフードの下は赤い頭髪をしていた。年の頃はレイミヤと大差がなく見えたが、大人びている様子から年上のように思えた。
不躾に観察をしたせいか赤色の彼女が眉をひそめてレイミヤに背を向けてしまったので、慌てたレイミヤはその裾を握りしめて引き留めた。
「私、教会に急いでいて……」
「教会に?」
相変わらず冷たい声色ではあったが、教会という言葉に赤い少女は驚いた表情を見せた。そして少し考える仕草の後で言う。
「それなら道をまっすぐ、もう安心して行きなさい」
「本当ですか!?あの……助けていただき、ありがとうございました!」
レイミヤは深々とお辞儀をして、先程のあっという間の出来事についてお礼を述べた。
振り下ろされた動魔の手は駆けつけた赤い少女が受け止め、驚く程の身体能力から繰り出されたジャンプと回転回し蹴りによってあの巨体を一撃で吹き飛ばしていた。
もちろんレイミヤが薄目を開けて見た風景は、その一連の動作の後のことだったので助けられた本人には何が起きたのかは知りようもなかったが、今目の前に立っているのが命の恩人であることは理解していた。
「当然のことよ。私は先を急いでいるからこれ以上面倒は見れないけれど」
あと少し頑張りなさい。そう言い残して彼女はあっという間に見えなくなってしまった。またひとりになったレイミヤは、ここから先は安心という言葉を思い出し、力強い足取りで森の奥へと進んでいくのだった。
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