第241話 アンジェの帰還 中編*

 年が明けて畏歴2021年1月。


 選帝選挙の当日、アンジェリカ・サクラメンタはアンダールの王城の貴賓室で、選挙の結果を待っていた。


 父が死んでから十二年、ついにこの時が来た。

 女帝となる日が。


 本も読む気になれず、ワインに手を付ける気にもなれなかった。

 腹も減らず、アンジェはただただ虚空をみつめ、椅子に座っていた。


 絨毯の敷き詰められた廊下を走る音がし、ノックもなくドアが開け放たれた。


「アンジェ様! ご当選です!!」


 従者の少年が叫ぶように言った。


「あぁ……」


 嬉しくて涙が出そうになった。


「おめでとう……っ、おめでとうございますうっ」


 少年が、自らの目から流れる涙を袖で拭った。

 少年のみならず、家臣たちは皆知っているのだ。

 アンジェの舐めた辛酸の量を。


 どのように功績を立てても無視をされ、アルティマに閉じ込められ、ありとあらゆる嫌がらせをされた。

 特別法まで作って、アルティマの税を奪おうとされたこともある。


 何度も何度も暗殺されかけ、水に毒をいれられ、酒に毒を入れられ、毒見役もそうでない者も、十人を超える者が命を落とした。

 その葬式に出るたびにアンジェは決意した。

 アンジェが罹ることを狙って疫病を流行らされた時は、病に苦しむ領民を見ながら涙を流した。


 その苦難を乗り越え、アンジェは今ここにいる。

 戴冠権利保持者の資格を与えられた。


 これで戴冠式を執り行なえば、アンジェはこの国の王なのだ。


 アンジェは椅子から立ち上がり、少年を抱擁した。


「アンジェ様……」

「ありがとう。お前たちのお陰だ……感謝する」


 心からの言葉であった。



 *****



 選帝選挙から一ヶ月後。


 ギルマレスクの大聖堂にて、戴冠式が行われていた。

 ギルマレスクは、かつてのクスルクセス神衛帝国時代、属州ティレルメ総督府が置かれていた都市であり、アンダールのものより巨大な大聖堂がある。


「偉大なる先帝、レーニツヒト・サクラメンタの子にしてふるみやこアルティマのあるじ、アンジェリカ・サクラメンタ。主イイススの名の下に、ティレルメ地域及び北方八州を統べる者の冠を授ける」


 ギルマレスク大主教が言い、アンジェの頭に王冠を被せた。


 本来であれば、戴冠式までには半年ほどの猶予を作り、教皇を招き、この場合はアンジェの頭に合った王冠を作り直すのが普通だった。

 だが、教皇領はエピタフ・パラッツォが捕虜となったことで混乱していたし、それほどの猶予もなかった。


 しかし、アンジェは満足であった。

 少し大きめの王冠には、内側に綿の詰まった帯が巻かれ、アンジェの頭にぴったりと載るようになっている。

 みっともなくは見えないだろう。


「神聖帝王アンジェリカ・サクラメンタ。神に導かれし子羊の守り人。そなたの治世に祝福あれ」

「謹んで、神より使命を拝領いたします」


 そして、アンジェリカは立ち上がった。


 王笏おうしゃくを一振りしながら、振り向く。


「アンジェリカ・サクラメンタが、ここにティレルメの新たなる帝王となりしを宣言する!」


 アンジェがそう叫ぶと、


「アンジェリカ帝王陛下! 我らがまことの王! 清潔なる乙女!」


 アンジェの臣下が叫び、一斉に剣を抜いて、勢いよく鞘に納めた。

 ジャキン、と楽器のように剣の音が鳴る。


「我らが剣を捧げしは唯一人! 身命を賭して帝王を守らん!」


 言い終えると同時に、楽器隊が壮麗な伝統音楽を奏ではじめる。

 ステンドグラスの光が美しい。

 アンジェの眼前にいる誰しもが、今この時、頭を垂れ、目を伏せ、新たな帝王に畏敬の意を表していた。


 輝かしい戴冠式であった。

 国中の全てが新しい帝の到来を歓迎している気がした。


 まるで、寒い冬が終わり春が来たようだ。


 ならば、せめて長い夏にしてみせよう。

 そうアンジェは思った。



 *****



 そして一週間後……。


「おいっ! 国庫が空とはどういうことだ!!」


 帝王となったアンジェリカは、ディヴァー前帝領伯に詰め寄っていた。


 ここはアンダールにあるディヴァー家の屋敷であり、庭にはアンジェ麾下の兵が詰めかけ、屋敷を制圧していた。

 アンジェはただ一人で前帝領伯親子に向かい合い、問い糾していた。


「まあまあ、落ち着いてください」


 父を虐げられているレオナール・ディヴァーがなだめるようなことを言った。

 腹が立った。


「黙れ!」


 アンジェリカは怒りのままに怒鳴りつけた。


「宝物庫までカラ、別荘や離宮までも売り払っているとはどういうことだ! 貴様ら親子の共謀ならば、背任罪で逮捕する!!」

「なーんにも出てきやしませんよ」


 レオナールは冷静であった。


「我々は何もしていない」


 ディヴァー前帝領伯が言った。


「何もしていないわけがあるか! 貴様ら以外の誰が勝手に財産を処分できる! 売った金をどこへやった!」


 アンジェは怒髪天を衝くほどに怒っていた。

 帝室の宝物庫までカラになっているとはどういうことだ。


 あそこにあった宝物は、全て由緒正しいもので、サクラメンタ帝家の歴史そのものと言える。

 それが全て消えているのだ。


 その上、別荘や離宮も他人に売られているという。

 王の権限を使って取り返すにしても、当然金を返してくれという話になる。


 ところが、アンジェが探しても、存在した莫大な売却金はどこにもないのだ。

 持って逃げたかと思い来てみれば、ディヴァーの親子はこうしてここにいた。


 怒鳴りたくもなる。


「お父さん、私から説明しますから」


 レオナールが飄々と言ったので、アンジェは剣を抜いてレオナールに突きつけた。


「言ってみろ」

「私たちは何も知らないんですよ。王妃殿下がやったことで」

「では、その王妃殿下は今どこにいる」


 むろん、アンジェとてその可能性は留意していた。

 アルフレッド派の残党といえば、王妃とディヴァー家くらいのものだ。


 ところが、王妃はどこにも居なかった。

 王城にも居ないし、離宮や別荘は売られてしまっている。


 国外に逃げたかとも思ったが、出奔した様子はなかった。

 普通、王妃ほどの人物が逃げるとなれば、側仕えや荷物などで大所帯となる。

 分からないはずはない。


「この家にお招きしています。隠し部屋にね」


 レオナールはこともなげに言った。

 アンジェは眉をひそめる。


「では、王妃を問い詰める。その隠し部屋とやらはどこにある」

「彼女と話しても不愉快な思いをするだけですよ? まずは落ち着いてください」

「落ち着いていられるか!」


 アンジェは、怒りのままに、剣でもって花瓶を壊した。


「まあまあ、では十分だけ話をさせてください。それが終わってもまだ私たちが気に入らなかったら、斬ってくださって結構です」


 そう言って、レオナールは勝手に立つと、テーブルに置いてあるコップに水差しから水を注いだ。

 勝手に喉を潤す。


「………」


 レオナールは剣を突きつけられていたが、なにも武装を取り出していなかった。

 その父親もそうだ。

 落ち着いている。


「私が、ここにいる父の差し金でアンジェ陛下に接触したのは察しておられますよね? 混乱期に家が生き残るためのセオリーです」

「当然だ」


 ディヴァー家は、アルフレッドの腹心であった家だ。

 アンジェに交代した以上、そのまま用い続けるわけはない。


 むしろ、過去に遡って背任行為などを探し、それが見つかれば責に問うくらいのことはしただろう。


 だが、レオナールがこちら側に入って、忠臣というていで様々な活動をしていれば、そういうわけにはいかない。

 協力してくれたから、ことさらにレオナールを引き立てねばならないとか、そういうことにはならないが、前当主が慎ましく隠居でもしてレオナールが当主になれば、ディヴァー家を酷く扱うわけにはいかなくなる。


 それを狙ってのことであろうことは、最初から分かっていた。

 見え透いた生き残り戦略だ。


「ま、そういうことをしていたので信用されなかったんでしょうねえ」

「王妃にか」


 だから王妃に出し抜かれ、共犯者になれなかったということだろうか。

 自分たちは無関係だと言いたいらしいが、意味がわからなかった。


「アルフレッド様にですよ。アルフレッド様はご存命です」


 脳天から背筋を、黒い落雷が貫いたような衝撃が走った。


 生きている、だと?


 馬鹿な。


「そんな馬鹿な。あの血まみれの戦衣はなんだったというのだ」


 レオナールの言葉を信頼できず、アンジェはそのあと自分で確認をした。

 確かに、アルフレッドが着ていたのと同じ服が血まみれでそこにあった。


 槍に貫き通された穴もちゃんと空いていた。


「それは申し訳ありません。ただ、私もあの時は信じていたのですよ」


 体中が小さく震え始めた。

 肌が総毛立ち、腰が崩れそうだった。


 ここに誰も居なかったら、実際に崩れ落ちてしばらく放心していただろう。


「我々が気づいたのも、つい一週間前です。王妃を問い詰めて、埒が明かないので王妃の部屋を漁ったら、出てきましたよ」


 レオナールは、父親から一枚の紙を受け取ると、アンジェの眼の前にやった。

 アンジェは震える手で掴む。

 紙は四つに破かれており、別の紙を裏に貼り付けて修繕してあった。


 ”あの売女が戻っていた場合、誰にもこのことを知らせないこと。

 あの豚は身代金の支払いを妨害してくるだろうから。”


 そう書いてある。

 確かに兄の字であった。


 それ以上は、読もうとしても文字の上を目が滑ってしまって、読めなかった。


「身代金はクシャペニ金貨七百万枚。法外な金額ですが、問題はそこじゃない。シヤルタ王国は、なぜ今まで生存を隠していたのか、という点です」

「………」


 そんなのは決まっている。


 生きているのに、なぜわざわざあの服を送って、死を偽装したのか。


「どう考えても、アンジェ陛下とぶつけるためですよねぇ……つまり、わざわざ戴冠をさせて、国内で力をつけるまで泳がせていた」


 戴冠前に生存の報が出回っていたら、選帝選挙後であっても戴冠式は延期されていただろう。

 選帝選挙前であったら、当然、選挙自体が行われていなかった。


 そもそも、選挙が行われたのは、胸に穴の空いた戦衣が届いたからだ。

 そんなものは幾らでも偽装できる。


 なにが、腐った遺体を届けるのは気味が悪い、だ。


 生きていたのだ。

 アンジェは、当時の浅はかな自分を殴り倒したくなった。


「捕虜交換をさんざん遅らせているのも、そのためでしょう。戦死していないのなら当然、兵たちはアルフレッド様が捕虜になっているところを見てしまっています。それを考えれば……」

 レオナールは、はあ……と溜め息を吐いた。

「王妃がアルビオ共和国に支払ってしまった莫大な金額……クシャペニ金貨にして三百二十一万枚。七百万枚の半分にも届きませんでしたが、満額払うまで帰ってこないというわけではないでしょうね。アルフレッド様は機が熟せば解放されるでしょう」


 機が熟す、というのは、アンジェが対抗できる勢力にまで育ったら、ということであろう。

 内乱というのは、勢力が均衡しなければ長続きしない。


 それを考えれば、レオナールの言う通り、クシャペニ金貨三百二十一万枚は払い損であったのだろう。

 王妃が払ったのが百枚だろうが七百万枚だろうが、アンジェにとって最悪のタイミングになれば、どちらにせよアルフレッドは解放される。


 だが、王妃は七百万枚払うまでは夫は解放されないと信じこみ、戴冠を阻止する情報を得ながら、それを喋らずに国の財産を次々と処分して金策に走った。

 話してアンジェの戴冠を阻止すれば、代わりに身代金の支払いを妨害されることになる。

 そうしたら夫は永遠に解放されない。


 もしアルフレッドの生存が露見してアンジェの戴冠が遅れたところで、七百万枚は支払われていないのだから、解放する義務はない。

 どう頑張っても一年や二年は遅れる。


 戴冠が阻止されたとしても、その一、二年の間にアンジェは力をつけただろう。

 頃合いを見計らってアルフレッドを解放すれば、勝手にアンジェと戦って内乱を起こしてくれる。


 アンジェの野心とアルフレッドの執心が両立する限り、ユーリ・ホウは主導権を握り続けることになる。


「こちらの算段もめちゃくちゃです。まったく、ユーリ・ホウという人は、つくづく恐ろしい」


 ユーリ・ホウの手のひらの上で踊らされていたわけだ。

 もしかしたら、追撃を逃げ延びたのも、わざと逃したのかもしれない。


 ここまでやるか。

 あの男は悪魔か。


「それで、どうなさりますか?」


 レオナールが尋ねた。


「……なにがだ?」

「どうぞ」


 レオナールは、少し歩くと引き出しの中から短剣を出して、鞘ごと机の上に置いた。


「あっ、ここで使わないでくださいね。私たちが外の兵に殺されてしまうので」

「なんのつもりだ」


 意味がわからなかった。


「民の幸福を思えば、ここでアンジェ様が自害なさるのが最も適当ではないかと」


 自害するだと?


 レオナールの言いたいことは分かっている。


「馬鹿か」


 だが、あまりに馬鹿げていた。


「では、兄君と内乱をなさる?」


 アンジェは全身を憤怒が突き抜けるのを感じた。

 叫びだしたかった。


 アンジェは国中に祝福されながら即位した。

 この一週間で様々な貴族と会い、軍を掌握しつつある。


 立派に戴冠を果たした、ティレルメ神帝国帝王なのだ。

 アルフレッドの為政下では表立っては言えなかったものの、父レーニツヒトの時代から支持し続けてくれている諸侯は多い。


 アルフレッドが戻ってきた所で、現帝王は自分で、アルフレッドに王権はないと言い張ることもできるだろう。

 だが、その結果は国中を巻き込んだ戦乱だ。


 当然、たくさんの兵が死に、民は苦しみ、国土は荒れる。

 得をするのはユーリ・ホウだ。


 ここでアンジェがこの短剣を胸に突き立て、自死すれば、そんなことは起こらない。

 ユーリ・ホウの奸計はご破算となり、アルフレッドは、あれはあれでユーリ・ホウと戦うだろう。


 死ね、という理屈は分かる。


 いや、分からない。


 疎んじられながらも身を粉にして戦い続け、ようやく王になった。


 なった途端、何も成し遂げないまま、自分を信じてついてきてくれた家臣も見捨て、自分で胸を刺して死ねと?

 そしてアルフレッドは戻ってきて、アンジェの死を祝い、旧臣たちを処刑する。


 馬鹿な。


「――戦うに決まっている」


 後世で国を荒らした馬鹿な女と罵られようが構わない。

 それを世に問わないで居られるなら、なんのために地獄ダイスの淵を歩くような思いをして、あの戦場から逃れてきたのか。


 ギュスターヴ。


「ここで死を選ぶくらいなら、最初から玉座など望まぬわ」


 死するべきは兄だ。

 私ではない。


 アンジェは心を決めた。


「では、このレオナール、改めて忠誠を誓いましょう」

「要らぬ」


 要らなかった。


「そんなことは言わずに。どうせあの狂王は、貴女に恭順の意を示した私を許しはしますまい。信頼は置けますよ」


 レオナールは気軽そうに笑みを浮かべた。


「ならば勝手にしろ。邪魔になったら斬り捨てる」

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