第240話 アンジェの帰還 前編*
アンジェリカ・サクラメンタは、煉獄の淵を歩くような逃避行のあと、ようやく国境に辿り着いた。
川を泳いで国境を渡り、クラ人の領域に入り、植民村で金と食料とを交換し、食べ物に困らなくなると、一気に速度を上げてティレルメ神帝国に帰還した。
その行程に三ヶ月かかり、その時にはすでに、リフォルム陥落の報がティレルメ神帝国に響き渡っていた。
*****
アンジェは、まずアルティマに戻り、兵を三日間休めたあと、帝都アンダールに向かい、現在の状況を確かめた。
アンジェがアンダールに到着した時には、すでにアルビオ共和国からの使者が到着して三週間が経っていた。
国中を封書を持った配達人が走り回っている状況であった。
小領主や傭兵団は、身代金を誰が負担してくれるわけでもない。
各自で金策をして資金を調達する必要があり、身代金の金額の書かれた封書を受け取ると、皆が金策のために走り回った。
交換は、金あるいはシャン人奴隷の現物交換ということになっていたので、シャン人奴隷の値段が急激に上がった。
交換比率は、シャン人奴隷一人につき、奴隷が女性なら同年齢の一般兵四人、男性なら同年齢の二人と交換、ということだったので、市場価格からするとこちらのほうが効率がよかったが、市場価格が上がるとそれほど有利ではなくなった。
だが、各地では身代金の足しにするために娼館の主が不当に逮捕され、シャン人奴隷が接収される事態が相次いだ。
男のシャン人奴隷を主に使っていた農園の主なども、領主の強権を行使され奴隷を奪われた。
シャン人の奴隷は今や金と同じであり、特に娼館の主などは元々素性の怪しい者ばかりであり、逮捕するなどはいくらでも理由が付けられる上、民の反感も買わなかった。
全体の税率を上げるより簡単で、即効性のある代替集金手段だったのであった。
法を気にする必要のない者たちは、もっと直接的な手段に出た。
アルビオ共和国は、問題にするのは健康状態だけで、入手経路などは調べなかった。
つまり犯罪的に入手しようがお構いなしだったので、傭兵団などは農園や娼館などを襲ってシャン人奴隷を拉致することで身代金の代わりとした。
他の国では、王が健在であったために、王に一括して支払いを迫り、王家が窓口となって交渉をしたりしているようだったが、ティレルメ神帝国では王その人が不在であったために、そのようなことができなかった。
封書の中には、捕虜となった貴種その人が「金○○を工面するように。国庫にある幾らと、どこどこの城を処分して支払うこと」などと家族に指示した紙が挟まれていることもあった。
珍しい例だと、後継者争いで家督を継いですぐの伯爵が、手ずから不動産の所有権を手放す契約書を作って預け、アルビオ共和国の使者が大都市に来て直接不動産を第三者に売却し、身代金を調達するなどという例もあった。
後継者争いの過程で戦った叔父が健在であり、一族を信用できなかったのだ。
しかし、どこを探してもアルフレッド・サクラメンタの文字はなく、アンジェリカが登城したあとも残された王妃は悲嘆に暮れるばかりで、身代金の要求もなければ、工面している様子もなかった。
幸いなことに、兄帝アルフレッド・サクラメンタは戦死していたのだった。
*****
「是非近日中の選帝選挙の開催をお願いしたい」
アンジェは、並み居る九人の選帝侯を前に、頭も下げずに言った。
「なぜかね?」
ヴィーヴィ=オーランドルフ公が言った。
「時期尚早だ」
ディヴァー帝領伯が言う。
帝領伯とは、帝王の不在中に帝領を司る目的で置かれる、一種の役職であり、必ずしも世襲制ではない。
封土が与えられているわけではなく、帝王の直轄領を管理するため帝領伯と呼ばれる。
実際には帝王の腹心のことを指し、宰相とか大臣というのがふさわしい。
代替わりの際に、前帝の遺志代表者が一人くらい居てはいいのではないか、ということで、数々の帝王の努力と選帝侯側の妥協の結果産まれた役職だった。
選帝”侯”が宰相とか大臣では格好がつかないので、帝領伯という名が冠せられているわけだ。
前帝領伯はオルディナント帝領伯であり、彼は今は亡きギュスターヴの兄であった。
アルフレッドが帝王の座に座ったあと、新たに任命されたのがディヴァー帝領伯である。
実際には、生前に帝王が次を担う息子を任命し、つまりは確実に次期帝王と目された人物が一票を握るという場合が多い。
ただ、所詮は九分の一の影響力しか持たないので、自他ともに認める次期帝王ということで余裕の体でいた結果、八人の選帝侯が買収されてしまい登極できなかった、といった事例も数多ある。
「アルフレッド帝の崩御が確認されたわけではない」
「しかし、捕虜交換の名に記されていなかったということは、既に崩御なされたと考えるべきでは?」
「近衛を連れ、今も森の中で忍んでいるのかもしれぬ」
ディヴァー帝領伯は、立場上それが当然の態度であるとはいえ、にべもなかった。
近習の騎士たちを連れて森の中に潜んでいるかもしれない。
一見、ありえそうな話だ。
しかし、それをいい出したら、夫が行方不明になった妻が再婚できないようなもので、何時まで経っても選帝選挙はできなくなる。
「シヤルタ王国軍は既にリフォルムを制圧したのです。早急に選帝を行い、新たな帝王を立てなければ」
アンジェは言った。
この理屈は一定の説得力を持つはずであった。
前回の選帝では、キルヒナ王国がまだ健在であったが、マルセナスの会戦で敵軍に快勝したばかりであり、軍事的にかなりの猶予があった。
今回は、前回のように十年もかけて選帝を行っている暇はない。
「それにしても時期尚早である」
ディヴァー帝領伯が再び言った。
「現在、アルビオ共和国の使者に、アルフレッド帝王陛下の安否の確認を要求している。既に亡くなっておられるなら、御遺体なりを返還するのが礼儀というもの。その返答が戻ってきてからでも遅くはなかろう」
アンジェは返答に窮した。
その情報はアンジェにとって未知であったし、理屈が通っていた。
「……先方が無視をしていたら? ディヴァー帝領伯殿がおっしゃったように、例えば白狼半島の森の中に入り、そこでひっそりとお亡くなりにでもなっておられたら、確認のしようがない。三年も四年も返答を待つのですか?」
「それは今考えることではない。アルビオの使者に要求を出してから、まだ二週間と経ってはおらぬ。伝達に一月半、返信に一月半、あと二月半ほど経ったのち、もし御遺体が帰ってきたのなら国葬を終えて、それから初めて考えはじめるべきことであろう」
「くっ……」
アンジェは二の句を継げなかった。
そこから十秒ほどが経った時、
「歴史を紐解けば」
と、ヴィジターホルム辺境伯が発言した。
「シャン人族がティレルメ地域を侵したことはない。欲したこともない」
アンジェは頭を疑問符でいっぱいにした。
何を言っているのだこの老人は。
呆けたか。
「欲するとは限らない」
――自分の腐った脳内の図書館に入っている知識を披露したかっただけか。
アンジェは、そう理由付けして納得することにした。
この場合のティレルメ地域というのは、いわゆる属州ティレルメであったころの本領を指し、○○地方というのと同じである。
「カルティレ戦役の頃の苦渋を味わいたいのであれば、ご随意に。だが、女が殴らなかったからといって、男が殴らないとは限らない。今のシヤルタ王国はユーリ・ホウが支配しているのです」
アンジェはそう言って、席を立った。
「いかがした」
ヴィーヴィ=オーランドルフ公が言う。
「解散と致しましょう。ディヴァー帝領伯殿がおっしゃったように、今は先方からの返答をいましばらく待つのが正しい。私は帰らせていただく」
アンジェは帰りかけて、二歩あるいてから振り向いた。
一言いっておいたほうがいいと思ったからだ。
「一つ言っておきますが、ユーリ・ホウの勝利が偶然と思っているのなら、それは大きな間違いです。女王が殺され、王権が転覆した時、彼は単なる地方領主の息子だった。それが三ヶ月後には国内を平定し、一月かけて十二万の軍を滅した。その軍がまっさきに向かうのは我々ティレルメ神帝国だ。そのことをよくよく考えられよ」
*****
その二ヶ月後の、ある日のことだった。
アンジェは、アンダール郊外に借りた家の一室で、執務を執っていた。
手紙を書き、人と会い、招かれ、あるいは招き、会食をして話す。
パーティーなどには好んで出席し、人々に応対し、戦いでのことを話す。
アンジェはそうやって支持者を増やしていた。
既に、次の女帝として扱ってくれている者も多い。
話題としては、やはり捕虜の帰還についてのものが多かった。
戦いから五ヶ月も経つと、フリューシャ王国などでは捕虜交換が円滑に終わり、帰還を果たした貴族が多くいた。
だが、ティレルメ神帝国には帰還者は一人も居なかった。
北方に連れて行って開墾作業をさせられたので、移動に時間がかかっているなどという説明があったが、不安を感じている者が多いのが実情である。
フリューシャ王国のほうは、まだ遠いからいいものの、ティレルメ神帝国はシヤルタ王国に直に接している。
それを考えると、兵力の帰還はこちらの兵力の増強に直結してしまう。
なので、なんだかんだと理由を付けて返さないつもりなのではないか。
いや、疫病が流行って全滅してしまったのではないか。
様々な説が囁かれていた。
そんな中、アンジェはパーティーで出会った伯爵の一人に対し、個人的な手紙を書き、会食をセッティングしようとしていた。
ドアがノックされ、従者の一人の声がした。
「アンジェ様、アンダール王城から、レオナール様がいらっしゃいました」
「通せ」
そう言ってしばらくすると、ドアが開かれた。
「ようこそ。レオナール・ディヴァー殿」
「アンジェリカ殿下、このような粗末な家にお住まいとは」
レオナールは眉をひそめて嘆いた。
レオナールは、未だ年若きディヴァー帝領伯の息子であった。
今年で二十二歳になる。
使い走りのようなことをしているが、なぜかアンジェの支持者となっており、それを隠しもしていない。
行いは忠臣のもので、臣下の誓いも行いたいなどと言っているが、今の所保留している。
忠誠が偽りか誠か分からないので、わざと距離を置いているのが実情であった。
「国祖レオン・サクラメンタも漁村で漁師をしていたのだ。このような家に住むも一興だろう」
実際には、帝都で家を借りると家賃が高すぎるのだった。
貴種たる者に戦場でもないのに雑魚寝をさせるわけにはいかないので、側仕えの家臣には個室を与えねばならないし、それに警護の部屋を考えると、それなりの大きさの一軒家が必要となる。
少し畑があるような郊外に建てたほうが、敵が迫ればすぐにわかるし、富農が作ったような一軒家ならば部屋数も多く、使いやすい。
「それも終わりです。選帝選挙が行われますから」
レオナールは、仰々しく一本の巻き紙を渡した。
羊皮紙を紐でくくったうえで、封蝋がしてある。
アンジェは、それを受け取ると封蝋を割り、くるくると巻き紙を開いて中を見た。
確かに、一ヶ月後に選帝選挙が行われると書いてある。
実際には、選帝選挙のための選帝会議の招集書、という形であったが、同じことだ。
アンジェ以外の対立候補はいないし、国内の雰囲気もアンジェ一色で決まっている。
奇をてらって他の者を選べば、ユーリ・ホウの脅威には対抗できないのは火を見るより明らかだ。
アンジェは、選帝侯が自分を選ぶことを確信していた。
「兄上の崩御が確認されたか」
「はい、ここだけの話ですが……」
レオナールは、狭い執務室の中で、アンジェに数歩近寄った。
「――なんだ」
「アルフレッド様が纏われていた御衣服が届きました。胸には槍痕が……」
レオナールは、左の胸の真ん中寄りのところを指でスルリと撫でた。
そこに槍の切れ目があったということだろう。
「乾いた血でべったりと汚れておりました。崩御は確実です」
「そうか……」
アンジェは、ふいに心の重荷が降りたような気がした。
他人には兄帝は死んだ死んだと言ってきたが、心の何処かでまだ生きている可能性のことを考慮していたのだろう。
そうか、死んだのか。
「他に、手紙などは?」
「さあ……私も、父上の話を盗み聞きしたまでのことなので、そこまでは……」
「そうか」
「おそらくは、遺体を戻すのは骨になるのを待ってから、ということなのでは?」
「そうだな」
遺体を搬送するにしても、埋葬して腐れてしまっているものを搬送するのでは気味が悪い。
腐敗が始まっていない状態で迅速に遺体を返却できない場合、白骨化させてから骨を返却するというのは、ティレルメでもたまに行われていることであった。
「そうか、兄帝はお亡くなりになったか……」
アンジェは、嬉しいような悲しいような、複雑な気分になっていた。
「レオナール殿、今日は帰ってくれ。少し祈りたい」
「かしこまりました。まことに、ご愁傷様です」
レオナールは、形ばかりの弔意を示し、部屋を出ていった。
アンジェは目を閉じ、冥福を祈った。
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