第232話 ミィレル大教会

 ミィレル大教会のホールでは、衆目の前で大主教とイーサ先生が論を交わしていた。

 イーサ先生は訳者カソリカ・パテラ・ウィチタと紹介されている。


 そのうえ、飛び道具を防ぐため、ついたてが立てられて姿を隠していた。

 元々は何の防御策もなく衆人に囲まれる形で討論させるつもりだったらしいが、こちらから文句をつけてこういう形にしたのだった。


 俺はすぐその横で、ホウ家の兵隊の服を着て警備をしていた。


「しかし、カルルギニョンは聖標せいひょうの秘跡はイイスス様が望んだものではないとしている。これはどうお考えなさるか」


 老人といって差し支えない年齢の大主教が、立派な祭服を着て攻め立てている。


「……それを語るには、まずクスルクセス時代の悪習について述べなければならないでしょう。カルルギニョン氏が信仰の形を憂いた属州フリューシャでは、聖職者は聖標の秘跡を行う対価として多額の金銭を信者から集金していました。教会の収入構造がそういう形になってしまっていたのです。カルルギニョン氏は、これをとても憂いておられた」

「むっ……」


 大方、公衆の面前で論破してやろうと意気込んでいたのだろうが、大主教は可哀想だった。

 公開討論が始まってもう40分にもなるが、まだ話題が尽きない。


 今は聖標の秘跡の話をしている。



 イーサ先生のワタシ派は聖標の秘跡を認めているが、カルルギ派は認めていない。

 聖標は秘跡四行のグランド・ミスティリオン一つなので、これを認めるか認めないかというのは、イイスス教的にはたいへん大きな解釈の違いである。


「そのことは、フリューシャにあるシュラ=ディーン大聖堂に残るカルルギニョン氏の手記に詳細に綴られています。当時、属州フリューシャでは、聖窟の発見からクルクス戦役……そして聖寝神殿の改装のために、二十年の長きに渡って相当な重税が課されていました。庶民は聖職者に葬儀の費用を払えず、聖標の秘跡を行ってもらえないまま葬られる事例が跡を絶たなかったのです。カルルギニョン氏の文章からは、そのことを強く憂う感情が伝わってきます」


 イーサ先生は、元々は聖寝神殿侍従長という役柄にいた。

 これはつまりイイススの聖体に直接奉仕をする……つまり、敷布を取り替えるだとか、毛布を替えるだとか、周囲を掃き清めるだとか、そういった身辺の作業をする人たちの長という意味だ。

 聖寝神殿自体、本来でいえばイイススの眠りを守ることが目的の建造物であるのだから、侍従長はその神殿の長ということになる。


 このポストは割と特殊で、一切の音を立ててはならないという仕事の性質上、細心の注意を払い続けることのできる心穏やかなエリートの若者が選ばれる。

 研いだカミソリ時代のイーサ先生が適任だったのかという疑問はあるが、その本性をむき出しにする前は、心穏やかなエリートで通っていたのだろう。


 まかり間違ってイイススの聖体が横たわる聖寝室で躓いて転んだり、腹が減って腹が鳴ったりしたら磔刑ものなので、注意散漫になりがちな老人などはむしろ向かず、歳を取ると別の重職に移されるという。


 ただ、イイススは聖体といってもぶっちゃけ死体でしかないので、我儘を言うこともなければ何かを要求することもない。

 また、世話をするといっても、眠りを妨げないために聖寝室への侵入は最小限であることが推奨される。

 イーサ先生によれば、年に三回ある重要な行事を除けば殆ど暇な、研究し放題のポストであったらしい。


 何をいいたいかといえば、アイルランドとスコットランドという、悪く言えば辺境の地に閉じ込められたカルルギ派の聖職者とは、アクセスできる資料の量が全く違うのだ。

 カルルギ派の信仰の中枢部はフリューシャ王国だったし、アルビオ共和国はカルルギニョン帝国が消滅する前に離反した国だ。


 亡国に際して記録を託すにしても裏切り者の国に託すということはあるまいし、国教であるカルルギ派の資料ですらカソリカ派のほうが沢山持っているという状況なのだろう。


「カルルギニョン氏がおっしゃりたかったのは、そのような形で、金の有る無しで神の国への導きが決められるというような信仰のかたちは、イイスス様は望んでおられない。ということだったのでしょう。ですから、聖標がなくとも魂が迷うことはないと民衆に説いたのです」

「そう、聖標の秘跡には意味がないのだ」

「そうはなりません」


 イーサ先生の舌鋒は鋭かった。


「なぜ? それは先程のおっしゃりようと矛盾している」

「矛盾してはいません。イイススによる手記三の27:3には”トマスは聖なるしるべを辿って冥府まで導かれる。その聖なる標は祈りをもって立てられる。”とあります。聖標せいひょうの秘跡の根拠はこの一節から成ります」

「その祈りとは神の子イイスス様による祈りのことを指すのだ。聖職者によるものではない」


 あーあ。


「イイススによる手記一の13:8には”安心するがよい。私は常に祈っていて、君たちは常に恵まれている。”とあります。イイスス様は常に祈りをもって我ら信徒に恵みを与えてくださっている、ということです。イイスス様が聖標を立てておられるのだとすると、”聖なる標は祈りをもって立てられる”という記述とは、語感的な矛盾が生じます。トット語による原書ではアクミ マスル ファムルタ イル シュナイラとありますが、マスルという言葉にはやはり能動的に何かをするという意味があります。イイスス様は恒常的に祈りを恵んでくださっているのに、聖標は能動的に立てられることになっている。つまり、聖標を立てるのはイイスス様による祈りではなく、聖職者による能動的な祈りであるという解釈が自然だと、私は考えます」


 そうなんだよなあ。


 成立した時代背景を考えると致し方ないような気もするのだが、カルルギニョンの言い出した教義というのは恣意的解釈が多すぎる。

 乱れた世を正そうという熱心さは感じるのだが、そのために強引に都合のいい解釈をしている感じなのだ。


 小説家と歴史家の違いとでも言うのだろうか。

 カルルギニョンの教義はエネルギッシュで魅力的ではあるのだが、聖典を恣意的にではなく字義通りに紐解いていけば、どう考えてもカソリカ・ウィチタが立てた初期カソリカ派のほうが正しい。


 まあ、でもそれはそれでいいんじゃないかとは思う。

 宗教というのは元々誰かが言いだしたことに心酔した者たちが集まって始まるものだし、現カソリカ派のように差別を助長する解釈をしているわけではないのだから、害があるわけではない。


「――なるほど、そのような解釈もあるのでしょう」

「もちろん、私はカルルギニョン氏の解釈を否定するものではありません。聖標がなくとも魂は迷わない。それはそれで正しいという見方もできるでしょう。イイスス様は、聖なる標を辿ると語られましたが、聖なる標がなければ迷うとは語っておられません。また、聖なる標は人が亡くなるその都度立てなければならないとも述べてはおられません」


 さすがに完全に論破してしまってはカルルギ派の立つ瀬がなくなると思ったのだろう。

 イーサ先生はフォローをした。

 確かに人が亡くなる都度立てなければいけないとは言っていないが、死ぬ場所はそれぞれ別の場所なのだし、道標みちしるべはその都度新しいものを立ててもらったほうが便利だろうと思う。


「では、カルルギニョンの教えは正しいということでいいのだな」


 大主教が妙なことを言い出した。


 あらかじめ入手していた情報によると、この人はワタシ派聖書が流通したせいで、信者から妙な説明を求められ、その返答に窮してこの公開討論の催しを開いたらしい。


 つまりは、カルルギニョンの教えのほうが正しいとハッキリさせたいという狙いがある。

 状況を整理する手段としてはあまりに単純だが、気持ちは分からないでもない。


「正しいとは言っておりません」

「では、間違いだと言っているのか」

「はい。カルルギニョン氏の教えには間違いもあるでしょう」


 うーわ。


「……成る程、貴女と我が教会の理念は、永遠に相反するようだ」

「そうでしょうか?」


 イーサ先生はめげなかった。


「一つお尋ねしたいのですが、カルルギニョン氏は神なのですか?」

「……は?」


 大主教は、突拍子もない問いを浴びせられ、妙な声をあげた。


「神であるわけはない。神は天上におわすお方と、それと同質であるイイスス様のみ」


 第一回の公会議で採択されたニケーア信条というものである。

 カルルギ派は分裂以降の公会議の採択を認めていないが、それ以前のものについては概ね受け入れている。


「そうでしょう。この世で過ちを犯さないのは、神と神と同質であるイイスス様のみです。只人ただびとであるからには、カルルギニョン氏も過ちを犯すでしょう。当然、私も沢山の間違いを起こしてきました。イイスス書以外の正典や外典を著した使徒たちも、かつては過ちを犯す人間でした」


 使徒たちは現在列聖され、聖人になっているので、現在過ちを犯すかどうかは解釈が微妙なところだ。


「私やカルルギニョン氏が神ではなく只人である以上、解釈が一つの瑕疵もなく完璧であり、その言葉を神の意図そのものとして聞いていいなどということは、ありえないことです。違いますか?」

「う……ぬう」


 そりゃグウの音も出ないだろ。


 ちなみに、イイスス書というのはイイススその人が書いたとされる正典のことで、当然のことながら信仰上最も重視される教本である。

 イイススによる手記Ⅰ~Ⅳがそれで、原本は現存して聖遺物として管理されている。


 なぜ原本と呼ばれるものが現存しているかというと、イイススの聖体が発見された聖窟に入っていたからで、これほど由緒正しいものはないだろう。

 それがイイススの真筆であるのか写本であるのかはハッキリしていないが、畏歴45年の入睡年以前に書かれたものであることは間違いない。


 そんで、聖窟の発見は畏歴1008年のことだったのだが、この時に発見されたイイスス書は、それまで後生大事にイイスス書として扱われていた本とは、32箇所に小さな表現の食い違いがあった。

 どちらがイイススの真筆として正しいのかは歴史の闇の中だが、どちらにせよ現在使徒と呼ばれるイイススの高弟たちは、師の金言を写し間違えていたわけだ。


「神でない誰かの言葉を信仰するのは、誤った信仰であると私は考えます。信徒としてあるべき姿とは、神その人の言葉に耳を傾けること。私はその助けをするにすぎません」


 この一本筋の通った正論のようなものがワタシ派の魅力なのだろう。


 実際、その説得力に胸を打たれた人々がいなかったら、こんなふうに聖堂に人が集まったりはしないはずだ。

 千人くらいいるぞ。

 半分は物見遊山だとしても、正規流通ルートから横流れした本を読んだ人だけで五百人もいるのかよ。


「むぅ……」


 とっさに反論が思いつかず、大主教は困った顔をしてうつむいた。

 可哀想だ。ここまでやりこめなくていいのに。


 と、そこで、


「神に仇なす獣に天誅を!」


 唐突に群衆から声があがり、イキっている奴が声を上げたと思ったら、敷設されていた柵を乗り越えて走ってくる奴らがいた。


 ほーら、やっぱり居たじゃん。


「退がれっ!」


 一つだけ覚えたテロル語を叫びながら、ホウ家の精鋭兵が穂鞘ほざやのついた槍で打突する。

 教会側との折衷案だったが、敵も大量に居るかな。


 いや、ホウ家の精鋭兵を突破できるほど居るとは思えん。


「先生はついたてから出ないでください!」


 俺はそう言うと、机にあった飲み水の入った瓶を握った。


 一人の男が、味方の肩を右足で踏み、ホウ家の兵の肩を左足で踏み、三段跳びのようにして突破してきた。

 凄い身のこなしだ、と感心しながら、着地点を狙って瓶を思い切り投げつける。


 スタンと地面に着地した瞬間、肩に分厚い瓶が思い切りぶつかった。


「ぐっ!?」


 喘いでバランスを崩したその時には、間合いを詰めた俺の槍が喉を抉っていた。

 穂鞘の被さった穂先が、首と喉の付け根あたりから十センチ近く沈んだ感触があった。


 恐らく死んだだろう。


「ほら、イーサ先生、行きますよ」


 シャン語でそう言うと、イーサ先生の手を取って、裏のほうに走った。



 *****



 ほとぼりが冷めたのを見計らって戻ると、襲撃は鎮圧されていた。

 おそらく、たまたま潜伏していた教皇領やユーフォス連邦の密偵だったのだろう。


「大主教」


 俺が声をかけると、大主教は困った顔でこちらを見た。

 暗殺騒ぎが起きたことに対して抗議されるかと思っているのだろう。


「こちらの訳者の言い逃げのような形になって、ご気分は悪かろうが、こういうことなので本日の公開討論はこれで終わりにしてもらいたい」

「う、うむ……」

「むろん、この者らには厳正な処罰を期待する」


 俺は乱入してきた不埒者たちを見ながらそう言った。

 十二人のうち五人は息をしていないようだが、七人は生きている。


 入り口には手荷物検査があって、ナイフ程度ならまだしも槍だの剣だのを持ち込むのは不可能だった。

 その状態で、槍を持ったホウ家精鋭を相手にしては、勝てるわけもなかった。


 まあ、彼らはスパイなので、俺が言わなくとも拷問にかけられた挙げ句死ぬだろう。


「それでは、イーサ先生を船にお連れしてくれ」

「了解しました」

「ユーリさん、ご迷惑をおかけして本当にもうしわけありませんでした……」


 イーサ先生は、護衛の兵に周囲を守られながら、歩いていった。


「申し訳ないな、大主教」


 俺は大主教に声をかける。

 思えば、この人も事故にあったようなものだ。


 別にカルルギ派は誰かに迷惑をかける邪教というわけではないのだから、そもそも敵対したくない相手だ。


「いえ、わたくしから申しでた討論なので……」


 大主教は歳をとっているので、先程の騒動で疲れてしまったのだろう。

 討論の時にはまだあった覇気が消え失せている。


「これから、この共和国を経由した聖典の流通は少なくなるだろうから、信徒は増加しないと思う。ご安心なされよ」

「それは……?」

「猊下がご存知かは知らぬが、先ほどの女性はイーサ・カソリカ・ウィチタといって、教皇領が目の敵にしている女性だ。ここで今捕まっている連中が襲ってきたということは、もはや訳者が彼女だということは露見しているということになる。自然、あの聖典はこれから禁書となるだろう。これ以上の販売は難しくなる。ゆえにこの国にあの聖書が増えることはなくなる」

「ほう、なるほど……」


 大主教は老顔に少し喜色を表した。

 よっぽど厄介だったのだろう。


「私はカルルギ派とは対立するつもりはないし、攻撃するつもりもない。言い訳のようになってしまうが、攻撃したいのはカソリカ派であって、この国に流通させようなどとは露ほども思っていなかったのだ」

「それは存じております。商人どもが」

「はあ……まったく、厄介な事をしてくれたものだ。評議会も止めてくれればよかったものを」


 俺はドサクサに紛れて評議会のせいにした。


 とはいえ、カルルギ派に迷惑をかけようと思っていなかったのは本当だ。

 横流れは俺が指図したものではないし、最初から販売相手は大陸だと言っていた。


「閣下のお考えはよく分かりました」

「うむ。警備への協力に感謝を」


 俺は大主教に慇懃に礼を返すと、ミィレル大教会から出た。

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