第202話 ユタン峠での戦い*
五月四日、ヴィラン・トミンはユタン峠に来ていた。
ユタン峠は、白狼山脈を無事に越えるため、背の高い山や氷河を避け、尖った山の裾をくねくねと曲がって作られている。
氷河には
領境にあたる場所は、歩いて登れる程度のゆるやかな斜面を横断する形で道が作られている。
山脈の中心地点となるため、高度が高く、低木の生える限界も超えているため、木々の姿は一切ない。
土もなく、辺りには岩肌ばかりが広がり、そこから剥がれたウロコのような砂礫が所々で溜まっていた。
気温は低く、窪地には雪が残り、小さな雪渓ができている。
ヴィランにとっては都合のよいことに、ここにはトミン家以外のノザ家の兵は居ない。
この地点は冬期には完全に風雪に閉ざされるため、拠点を置くには都合が悪く、道を塞ぐことのできる防衛拠点は、ノザ家領側にもう少し行った坂の上に作られていた。
この場所には、境界であることを示す大きな立て看板が一つ立っているだけで、荒涼とした山裾だけが広がっていた。
ヴィランは、関所での衝突を避け、押し問答で門を開けさせて通り、ここまで来ていた。
前日から張っておいた天幕の中では、薪が組んで燃やされている。
「ゴンゾ。寒くないか?」
「さむい、ない」
ゴンゾは、薪に両手を当てて温まっていた。
着古しの厚手の服の上から鎖帷子をかぶり、更にその上に胸から胴を守る簡易な胴鎧をつけていた。
どれもこれも特大のものだ。
「そうか。今日は頑張って殺してくれよ。いいな」
「ゴンゾたたかう」
「合図したらだ。オレが殺せ、っていったら殺すんだからな」
「ゴンゾたたかうっ!」
ダメそうだ。
ヴィランは、ゴンゾは外に出さないほうがいいな、と思った。
「それにしても、遅ぇな」
約束の時間は過ぎている。
本日、通算十五回目の「遅ぇな」であった。
「若、来ました!」
見張りをしていた部下の一人が天幕のカーテンを開き、そう報告した。
「よし!」
ヴィランは、一声気合を入れ、膝を叩いて立ち上がる。
天幕を出、来るはずの方向を見ると、遠く峠道を進んでくる一団があった。
敵の軍団は大部隊で、千人ほどはいるだろうか。
近づいてくる姿が大きくなるにつれ、飛び抜けて豪勢な男が一人いることに気づく。
近くまで来ると、カケドリに乗ったその男は、堂々と鳥から降りた。
「ユーリ・ホウだ」
そう言った男は、頭に金の王冠をかぶり、体には銀狐の毛皮でできた上等のマントを纏い、マントの切れ目からは金糸のきらめきが見えた。
まだ若そうに見えるが、堂々とした体格で、大層な王様っぷりだ。
降りたカケドリにまで豪勢な鎧が着せてある。
緻密に編まれた薄い鎖帷子がかけられ、頭には刺繍の縫い付けられた革の覆いがかぶせてあった。
鞍も、言うまでもなく最高のものだ。
どれもこれもヴィランの好みで、発作的に奪いたいという気持ちが高まった。
奪ってやる。こいつの生活を自分のものにしてやる。
「私は、ノザ家の係累に連なる、トミン家のヴィランという者である」
ヴィランは正直に素性を述べた。
トミン家はれっきとした藩爵の家柄なので、ボラフラに付いて来ていても何もおかしくはない。
「そうか、では会談を始めよう」
ユーリ・ホウが言った。
「待っていただきたい。すまないが、そちらの兵は多すぎる。ここに置く兵の数は、こちらと同じ三百名までとしてくれ」
「構わんぞ」
あっさりと了承をした。
傍らにいた騎士の若者が、
「じゃ、ジーノ・トガとフォーン・バビの隊を残して、撤収しろー!」
と言うと、あっさりと半数以上の兵が元の道を引き返していった。
あまりに迅速だ。
「見えない所で待機する手はずではないでしょうな」
ヴィランが尋ねる。
「ん? そんなことが気になるのか。意外と神経質な奴なんだな」
先程指示をした騎士の若者が言った。
「な――ッ、んだとテメ」
年下のガキに舐めた口を利かれ、頭に血が登り、激高しそうになるが、ヴィランはかろうじて抑えた。
ここでキレたら台無しだ。
「お言葉にお気をつけください、ルールー様」
先程ジーノ・トガと呼ばれた時に、視線の先にいた男がたしなめた。
こいつルールーというのか。覚えたぞ。絶対殺してやる。
「はいはい」
「――ッ、はぁ、それより、キエン閣下はいずこに?」
「キエン閣下なら、今日は病欠で来ておりません。ここにおりますユーリ閣下に全権を委任する旨、文書としていただいております」
「――それは困るっ」
ヴィランが言った。
キエンもまとめて殺さねばならぬのだ。
「はい? 全権委任状は正式なものですが……ご覧になりますか?」
「うむ、これが委任状だ」
ユーリ・ホウが懐から一枚の封筒を差し出してきた。
ヴィランは、言った手前それを受け取り、中身を読んだ。
上等の羊皮紙に、ルベ家がホウ家にこの日の交渉の全権を委任する旨、確かに書いてある。
「これが偽物ではないという保証は?」
ヴィランは最後の足掻きをした。
「えっと……ハハ」ジーノ・トガは、困ったように頬を掻く。「では、本日の会談は中止になさりますか? 後日延期というわけには参りませんから、戦争になりますが……」
「う……いや。それは困る」
「では、続行ということで?」
「うむ」
糞、キエン・ルベは殺せないのか。
だが、それならユーリ・ホウだけでも殺しておいたほうがいい。
会談自体をおじゃんにしてしまうのは下手だ。
「では、会談を始めるとしよう」
ユーリ・ホウはカケドリに差してあった槍を掴むと、肩に担いだ。
「待て、護衛は双方一人のみとさせていただこう。こちらはキエン・ルベ不在の条件を飲んだのだ。そちらが――」
「構わねぇ」
ユーリ・ホウは面倒臭そうに断言した。
「……いいのか」
「さっさと済ましてぇんだ。早く天幕に入ってくれ」
「わかった」
よほど腕に自信があるのか。
まあ、天幕の中に入れちまえば、こっちのものだ。
ヴィランは、ユーリ・ホウを伴って、中にはいった。
護衛としてついてきたもう一人の騎士も、筋骨隆々だ。
天幕の中に入ると、ゴンゾがまだ火にあたっている。
「ゴンゾ、仕事だ」
「お? コロすのか?」
馬鹿。言うな。
「守るんだよ。ほら、来いって」
ヴィランがそう言うと、ゴンゾは立ち上がり、狭苦しそうに天幕の中を歩き、ヴィランの横についた。
「……え、そいつでいいのか?」
ユーリ・ホウは、ゴンゾを見て言う。
「ああ、こいつがオレの護衛だ」
「まあ、そいつでいいのなら構わないが……」
ユーリ・ホウは椅子に座った。
ヴィランもまた、勝ち誇るように椅子に座った。
これで支度は整った。
ユーリ・ホウがここから生きて帰るということは、万が一にもないだろう。
「しかし、ノコノコと付いてくるたぁな」
「ここにか?」
「あぁ、ボラフラ・ノザは、ここには来ない」
「ああ、そう」
ユーリ・ホウは、眉の一つも動かさずに言う。
感情が希薄な印象を受けた。
「お前が殺したんだよな? そんじゃ、ノザ家の代表はお前ってことになるのか?」
ユーリ・ホウが尋ねる。
「なに言ってやがる、馬鹿かてめぇ」
先程、ヴィラン・トミンと名乗ったばかりではないか。
「下剋上だよ。オレがノザ家を乗っ取ったんだ」
「ああ、そう……んじゃ、降伏すんのか?」
「おめぇ馬鹿か? てめぇは罠にかけられたんだよ。これから死ぬんだよ」
ボラフラが来ていないということは、罠に決まっているではないか。
「んん……分かんねぇな」
ユーリ・ホウは不思議そうに頭を掻いた。
「そんなら、なんでこんな会話してんだ? さっさとやらねえのか?」
「オレは三百の兵に加えて、もう三百の兵を隠してある。この笛を吹けば」
と、ヴィランは机の上に置いてある角笛を指さした。
「六百対三百になる。兵を下げたのが間違いだったな。お前は囲まれて終わりだ」
「……はぁ?」
素っ頓狂な声をあげた。
「うぅん……やっぱ分かんねぇなぁ……」
ユーリ・ホウは心底疑問な様子で、頭を掻いている。
会話が噛み合っていない。
これから死ぬという事実を突きつけているのに、怖がりもしなければ、恐れもしていない。
「ちょっと聞きたいんだが、お前、勝ち誇るためにこの会話してるのか?」
「ああ。お前は死んで、オレが勝つ。その立派なマントも王冠も、オレが奪って使ってやる」
「んん……やっぱ分かんねぇわ。どこが俺に似てんだ、こいつ……」
俺に似てる?
「なあ、あいつには俺がこんなふうに見えてんのか?」
ユーリ・ホウは、護衛の騎士に訪ねた。
「さあ、閣下の心中は分かりかねますな」
「そっか……」
ユーリ・ホウは、顎に手を当てて考え込み始めた。
「確かにガキの頃はアレだったけど、こんなじゃなかったよな……? こんなだったっけ……?」
ヴィランの顔をじっくりと観察しながら、そんなことを言っている。
「なんだ、てめえ」
「ドッラ殿、あれかと。ユーリ閣下が言っていたではないですか」
「あっ、そうだな……あれ、何だったっけ? 考え事してたら忘れちまった」
「降伏勧告するのではなかったのですか? 逃げ場はないと」
「ああ、そうだった。あのな……いや、そうじゃねえって。それって相手がビビっちまった場合だろ?」
ユーリ・ホウは護衛の男にそう言って、次にヴィランを見た。
「ビビっちまってはいないよな? 始める気はあるんだろ?」
ヴィランは、先程から猛烈に嫌な予感がしていた。
おそらく、この男はユーリ・ホウではない。替え玉を掴まされた。
だとすると……。
「六百対三百なんだろ? なんでお喋りしてんのか分かんねえけど、さっさと笛吹いて号令出せよ」
「グッ……」
「あ、伏兵についてはユーリが褒めていたぞ。冬季……迷彩? よくわからんが、白い布を被って雪渓に潜んでるらしいな」
バレている。
どこで露見したんだ。昨夜から見ていたのか?
「まあ、こっちは小細工してねえらしいから、六百対三百だぜ。それでもビビって逃げちまう感じか?」
「やるに決まってんだろッ!」
ヴィランは、机の下に隠してあった
手斧は猛烈な勢いで回転しながら、ドッラの頭に吸い込まれるように向かう。
ドッラは座ったまま拳を握り、椅子の上で腰を回しながら、縦向きに回転する手斧を眼前で殴った。
方向を逸らされた手斧が、くるくると回って地面に突き刺さる。
「――なんのつもりだ? こういうのって、見えないところから投げるもんだろ。舐めてるのか?」
「クッ」
ヴィランは、机の上に置いてあった角笛を掴み、思い切り吹いた。
ブォオオオオオ―――――!!!
と、音が響き渡る。
同時に、バババババァン! と凄まじい音が天幕の外から聞こえてきた。
ヴィランの軍のものではない。
トミン家の軍に、銃器の武装はない。
銃声か。
何が起こっているのか、天幕の中からではわかりようがなかった。
「始まったな。さあ、やるか」
ドッラが椅子から立ち上がり、穂先が分厚い鉈のようになった槍を構えた。
切っ先をゴンゾに向ける。
「まずはテメエからだな」
「ゴンゾ! 殺せぇ!」
「コロォォォオオオスッ、ゴンゾッ!」
ゴンゾは出し抜けに机を蹴り上げた。
会議用の長机が一瞬宙に浮き、天板を横にして倒れた。
天幕の真ん中に居座っていた机がどかされ、広くなる。
「フーッ、フーッ」
ゴンゾは目を血走らせ、持て余した力の行き場所を探すかのように、肩をいからせている。
両手には、天幕の壁に立てかけてあった、鉄条の入った長い棍棒を持っていた。
こうなったゴンゾは無敵だ。
鎧を着ていようが、防御をしようが関係がない。
棍棒が当たれば兜を被っていようが頭が潰れるし、防御をしても次の一撃で終わる。
「あんたは、あっちを頼む」
ドッラがヴィランを顎で示した。
「承知」
広くなった天幕の中で、護衛の男がヴィランに槍を突きつけた。
ヴィランは、腰に下げていたもう一つの
外からは、間断なく鉄砲の爆ぜる音が聞こえてきていた。
ゴンゾは、対多数で本領を発揮する。
十対百の戦いであっても、ゴンゾが一人敵に突っ込めば、敵は竦み味方は猛る。
早くこの場を抜けて、ゴンゾを加勢させなければならない。
「ゴンゾォオオオオッ!」
ゴンゾが雄叫びを上げながら、横合いから棍棒を振り抜いた。
必殺の棍棒が躱されると、間髪入れずに逆側から棍棒が襲いかかる。
体を捻りながらガムシャラに棍棒を繰り出す、この連撃こそがゴンゾの真骨頂だった。
「ゴンゾッ! 早く始末しろ!」
護衛の男が構える槍に気を留めながら、ヴィランはそれを見ていた。
この連撃に耐えられたものはいない。
恵まれた体格から生み出される、広い歩幅で迫り来るゴンゾには、退がり足も通用しない。
勝利を確信し、ゴンゾが再び右の棍棒を繰り出そうとした時だった。
ドッラは電光のような勢いで槍を繰り出し、鎖帷子を紙のように破り、振り抜く前の右腕の付け根を槍で抉った。
深々と突き刺さった槍を一瞬で抜き、勢いを失った右の棍棒を躱すと、棍棒はそのまま腕からすっぽぬけてしまった。
左腕に持った棍棒で攻撃したときには、ドッラはもう離れている。
放物線を描いた棍棒が、ゴトン、と地面に落ちた。
「ゴンゾオッ!」
ぶらりと垂れた右腕を振り回し、左の棍棒をもう一度振った時、ドッラはもう一度槍を突き出し、今度は左腕の付け根を抉った。
「アレッ?」
左腕の棍棒もすっぽぬけ、地面に転がる。
「終わりだ」
両肩の鎖骨の下に生まれた傷口からは、奔流のように血が吹き出し、あっという間にゴンゾの着古しの服を真っ赤に染め上げていた。
刺されてから数秒しか経っていないのに、右腕のほうは手首まで血が染み、だらんと垂れ下がった指先からは、血が滴り落ちている。
「ふあっ? なんでっ?」
ゴンゾは、間の抜けた声でブラブラと両腕を振った。
なんで腕が動かないの、そう言いたいのだろう。
「こいつが一番の腕利きかよ。あんた本当に騎士院出たのか?」
ドッラは、ゆるりと槍を構えながらヴィランを見て、言った。
出たに決まっている。
だからこそ、ゴンゾの刺された場所が、腕に血を送る血管が通っている場所だということも分かる。
たとえ治ったとしても、腕を動かすための紐が切れているから、ゴンゾの両腕は二度と動くことはないだろう。
遠い昔、騎士院で習ったことだった。
だが、ゴンゾが弱いわけではない。
ノザ家の騎士たちは、皆為す術もなくゴンゾに屠られていったのだ。
「フッ!」
短く息を切ると、ドッラはピュン、と槍を振り回し、ゴンゾの右の首筋を切断した。
腕も上げられないゴンゾは、防御のしようもなかった。
「ウアッ」
首から鮮血がほとばしるが、既に血管が二箇所やられているからか、その勢いは乏しい。
ゴンゾは膝を屈し、両膝を地面につけた。
「アッ、うあ……シニたくない。ヴィラ兄……助けて……」
だが、護衛の男に切っ先を向けられているヴィランには、どうすることもできなかった。
ゴンゾは、数秒もしないうちに頭から地面に倒れ伏し、動かなくなった。
「お前は生かしとくように言われてんだよなぁ。どうする? やるか?」
「くっ……」
とてもではないが、こんな野郎と戦おうとは思わなかった。
あまりにも馬鹿らしい。
ヴィランは踵を返すと、背中の天幕のカーテンをくぐり、外に出た。
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