第197話 イーサ先生の教室
イーサ先生は、使われていない教室の板張りの床に、半畳ほどの敷物を広げて、その上に座って祈っていた。
ここはいつもテロル語の講義をしている教室の近くにある、小講義室だ。
クラ語講座は、最近になって一つの大教室を独占できるようになったが、昔はそうではなかった。
その頃は、講義が終わって次のコマが始まると、休憩時間の後も質問を受け付けるために、この部屋に移動していた。
扉の開く音を聞くと、イーサ先生は祈りをやめて、俺の方を振り向いた。
「えっと……?」
イーサ先生は、敷物から立ち上がり、俺から離れるように後ずさった。
「俺ですよ」
帽子とマフラーを取る。
「えっ、ユーリさん?」
「はい。ご挨拶に伺いました」
「はあ、そうですか……」
まさか俺が来るとは思わなかったのか、イーサ先生はなにやら呆気にとられている様子だった。
「イーサ先生、その節はご不便をおかけしたようで」
俺はぺこりと頭を下げる。
「あっ、いえいえ、全然……全然、大丈夫でしたので」
イーサ先生は、暗殺があった夜に第二軍に拘束され、軟禁されていた。
どうもテルルと一緒だったらしい。
俺はティレトと接触したあと、イーサ先生の居場所を調べさせていた。
案の定拘束されていたわけだが、その場で助け出すより、移送のため王都から離れたところを襲って助け出したほうが安全なので、監視を続けていた。
だが、移送する前に王都は陥落してしまった。
どうせ引き渡すなら、同時に移送していただろうから、ドッラにはああ言ったがテルルが助かる公算は高かっただろう。
「それより、お一人で来たのですか? お立場を考えると、いささか不用心ですよ」
イーサ先生には言われたくない……。
「まぁ、それはいいっこなしということで……教養院の様子も見ておきたかったのですよ。虐げられていたら問題なので」
俺はそう言いながら、イーサ先生の近くの椅子に座った。
殆ど使われていない教室だからか、少し埃っぽい。
イーサ先生も、椅子の座面をぱっぱっと手で払い、取り出したハンカチを敷くと、そこに座った。
「先生、連れて行かれたときは大丈夫でしたか? 怪我などは……」
「はい、全然もう、まったく……。軟禁先も、なんだかとても良い部屋でしたし……」
まあ……イーサ先生は王城に捕らわれていたわけで、王城の客室といえばイーサ先生の個室より作りが良かっただろうな。
聖書の売上から3%は翻訳料として渡しているから、望めばあのくらいの部屋には住めるはずなんだけど……。
「そうですか。それなら、よかったです」
「ユーリさんも、大変だったようですね……ご両親のこと、本当に……なんと言ったらいいのか……」
イーサ先生は、本当に悲しそうな顔をしている。
悼んでくれているのだろう。
「ええ、まあ……ところで、準備室のほうを見てきましたよ。六人も待っていました」
俺は話題を変えた。
あまり湿っぽくなってもいけない。
「……そうですね。ちょっと、今はバタバタしておりまして」
「なんだか、俺の事でご迷惑をかけてしまっているようで……すみません」
「いえいえ。でも、全てお断りしているのに、何でなのか……」
イーサ先生は、やはり頭を悩ませている様子で、髪に手をやった。
メガネにかかって邪魔なのだろう。
「中には本当に質問をしに来ている子もいるので、こうしているのは不本意なのですが……応対していると、列になってしまうので……」
「テロル語の出来の良い子を雇って、あそこで代理をさせてみては?」
そしたら質問者だけ残るだろう。
その子は俺と面識がないのだから。
「でも、それも申し訳ないですし……」
「お金を渡せば、なにも悪いことはないんですよ。魔女家はみんな失業みたいなものなんですから、むしろ喜ぶと思います」
「そうですか。確かに、ユーリさんのおっしゃるとおりかも知れませんね」
良かった。
乗り気のようだ。
「お金は学校から出させますよ。いっそ教師になれる生徒には全員お金をあげて、暇な教養院生にテロル語を教えることにしましょう」
もう休校中なわけだし。
「え? いえ、でも……」
「いいんです。これは本当に必要ですから」
どっちにしろ、テロル語話者は多くて困ることはない。
万が一、俺が負けて奴隷になったとしても、テロル語は喋れたほうがいいんだし。
「もう決めました。テキストはあの聖書がいいです」
向こうの文化も学べるし、宗教のことは知っておいたほうがいいだろう。
「うーん……でも、いいのでしょうか」
「いいんですよ。古代シャン語なんて勉強しても、もう役に立たないんですから」
「あぁ……そうですね、ごめんなさい」
イーサ先生は、なぜか頭を下げた。
「十字軍が来るんですものね……元はと言えば私たちのせいで、ご両親も……」
皮肉に聞こえてしまったか。
俺は個人的に古代シャン語に憎しみがあっただけなのだが。
「イーサ先生、それ以上は言わないでください。そういう話ではないはずですよ」
「でも……」
あー……。
なんか、誰かから糞くだらない話を吹き込まれたような気配がするな。
先生はクラ人だから、仕方ないと言えば仕方ない……と思ってしまう自分が嫌だけど。
けど、クラ人は友達! みたいに誘導するのも、それはそれで戦意がなくなることになって、問題大アリだしな……。
「イーサ先生の立場柄、誰かにそんなことを言われたのかも知れませんが、気にしなくていいんです。戦争となればお互い様ですから」
「……でも、同胞が裏切っていたようで……リューク・モレットという方なのですが」
「ああ、あいつですか」
あれには役に立ってもらった。
「すみません……王国に亡命者として匿ってもらっておきながら」
俺もこのあいだ知ったのだが、亡命時の契約書にシャン人国家への背信行為はしないという条項があって、彼はその条項に違反していた。
まあ、その条項がなくても外患誘致的な罪で死刑なのだが、契約書というのは信義の取り交わしなので、イーサ先生は気にしているのだろう。
「先生は、リューク・モレットとは別の人間じゃないですか。気にする必要はないですよ」
「……あの方は、教皇領の方なんです。私のように馴染むことができずに、いつも故郷のアホルナカトに帰りたいと言っていました。根は悪い人ではなく……」
「そうなんですか……まあ、ちょっと手遅れなんですが」
うーん……。
まあ、手遅れだな。
「今、彼はどうなっていますか?」
「端的に言えば、イーサ先生が聞かない方がよい類のことになっています」
「教えてください。私も酷い物、醜い物は見飽きるほど見てきました。大丈夫です」
そうはいってもなぁ。
「まあ、これから人生を楽しむことは、いかなる意味でも難しい体になってしまっていますね」
王剣の拷問たるや凄まじいものがあり、俺でも感心したほどだ。
相当の人体の知識がなければ、ここまで責め苛むのは難しいだろうと思わせるほどの拷問の痕だった。
あれでは、たとえ生き残っても、殺してやったほうが慈悲になるだろう。
「ああ……」
イーサ先生は、世界に蔓延する不幸を嘆くように息を吐いた。
「大した情報は知りませんでした。本当に繋ぎになっていただけのようですね。ただ、王都の情勢や大物の個人名などは、事細かに伝えたことでしょう」
もちろん、イーサ先生が亡命していて、生きていて、教鞭をとっているということも、彼が伝えたはずだ。
「……罪を免れないことは分かっているのです。でも……本当に悲しいですね」
「俺も沢山の人を殺しましたが、根っからの悪人なんていうのは、ほんの少ししかいなかったんだと思います。リューク・モレットさんもいい人なのかも知れませんが、殺します。その代わり、俺も殺される時は文句を言いません。お互い様なんですよ」
殺したり殺されたりするのは、仕方のないことだと思う。
人間は法治社会であってさえ、奪うために他人を殺すのだから、法の機能しない
向こうの考えも理解できなくはない。財産は作るより盗む、あるいは奪うほうが楽に手に入るのだから。
何十年も働いて家を建てるより、家主を殺して埋めて、そこに住んでしまったほうが安く済むのは自明なことだ。
俺にはそれなりに学があるし、能力があるから、自分で生み出した富で裕福な暮らしができる。
だが、これは能力を持って産まれた者だからやれることだ。
まったくの無能で、なにをやっても上手くいかないような無残な人生だったら、俺だって他人から奪うことで生きようと思ったかもしれない。
人間というのは、死を恐れるようにできているのだから、奪うくらいなら死ねというのは無茶な要求だ。
立場も然り。俺が邪魔だからといって、あなたは邪魔なので立場を降りて田舎で隠遁していてください。と言われても、それには従えないのだから、殺してしまうのが安上がりかつ、手っ取り早いということもあるだろう。
俺は、それを理不尽だとは思わない。
実際、オローン・ボフにはその提案をしたし、それを蹴ったので退場してもらった。
だとすれば、加害者と被害者が共有できるのは、お互い様という理屈しかないのだ。
人間は、産まれた時から否応なく世界という
そこには、人を縛る法はない。
神が作った上位なる法など存在せず、人が人を縛る法を勝手に作り、暴力という強制執行力を背景に運用しているだけのことだ。
平常時の社会では、その法は平常運転で機能するかもしれない。人によっては、それを世を律する道徳なのだと誤解するかもしれない。
だが、最上級の暴力の行使である軍同士の戦争という事態になれば、そんなものは機能しない。
弱き敗者が踏みにじられ、強き勝者が踏みにじり、力が逆転すれば、加害者と被害者が入れ替わったりもする。
それは、他人を踏みにじって裕福な生活をしてきた者として、死に際して口が裂けても言うべきでない言葉だと知っていたのだろう。
当たり前のように暴力を使い、職を汚し、暴利を貪っていたが、彼女らは厚顔無恥ではなかった。
「そうですか……でも、ユーリさんは悲しそうな顔をしています。それは、人の心が傷ついている証拠ですよ」
「どうでしょうね」
「ユーリさんは、戦争でも、犠牲者を最小限に収めようと努力したではないですか」
それは、十字軍が来るからだ。
俺は、教養院の生徒でさえ、魔女出身の者は皆殺しにしようとしていた。
どうにか回避できたから良かったものの、あの時に本当にそう考えていたのは確かだ。
「まぁ……戦争なんてするのは、人でなしですよ。実際、俺が十字軍にやろうとしている事を知れば、イーサ先生は俺に失望すると思います」
普通に考えて、ドン引きだろうな。
イーサ先生のような人には、発想自体できないものだろう。
「失望しませんよ。ユーリさんには、私を失望させることなどできません」
イーサ先生は、不思議なことを言った。
「どうでしょう」
「なら、教えてください。誰にも漏らしたりはしませんので。神に誓います」
「なぜ知りたいのですか? たとえ知っても不快な思いをするだけなのに」
別に、イーサ先生を犠牲にするわけではない。
イーサ先生は、俺が敷いた平和の上で暮らし、平穏を享受していればよい立場だ。
それは、全然悪いことではない。
「ユーリさんが何をしようとしているのか、知りたいからです。場合によっては、助言ができるかもしれません」
「まあ、いずれ知れることですし、構いませんが……」
さっき神に誓いますって言ったしな。
イーサ先生が神に誓うといったら、それは絶対のことだ。
「なら、お話しましょう」
*****
「そんなっ……」
イーサ先生は、案の定、口を抑えて言葉を失っていた。
「だから、イーサ先生は加害者の一味のように心を痛める必要はないのですよ。こちらも似たようなことをするのですから」
お互い様なのだ。
それで文句を言われる筋合いはない。
「ユーリさん……それはいいのです。私は、ユーリさんの心がどうかしてしまわないか、そちらのほうが心配です」
「……なぜですか? へっちゃらですよ」
実際、人一人の首を掻っ切ったあと、こうして平然と次の用事を済まそうとしているわけだし。
時が時ならサイコパスと言われてもしゃーないわな。
「ユーリさんは、他人の痛みが想像できる人です。それに目を背けようともしないでしょう。だから心配なのです」
「大丈夫ですよ……そんなに繊細な人間ではないですから」
「もし入信していただければ、幾らでも罪を赦してさしあげるのですが……ユーリさんには気休めにもなりませんよね」
斜め上の発想だ。
はい、あなたは罪を償い、神は許しました。なので、貴方にはもう罪はありません。
それはそれで便利な話だが、俺には茶番としか思えない。
「残念ですが、そんなのは御免です」
「そうですよね。なら、せめて……」
イーサ先生は、椅子から立つと、俺の前に跪いて、両手で手を包んだ。
体温の高い、温かい手に包まれる。
イーサ先生を見下ろすような格好になったので、なんだか落ち着かなかった。
いかなる意味があるのか、イーサ先生は手元を見ながら何か祝詞のようなものを小声で唱えていたが、すぐに止んだ。
見上げるように俺を見た。
「ユーリさん……一人で抱え込まないでくださいね。ユーリさんの周りには、たくさんの人がいるのですから」
「俺の罪は俺の物ですよ」
「私は許します。失望もしませんよ。罪を犯しながら罪を直視し、苦しみながら生きていくのが人なのですから。ユーリさんは、ただの人です。罪を犯していない人など居ないのです」
なんだか、今日のイーサ先生は、今までで一番宗教者っぽい。
「それでは、殺された人たちが浮かばれないでしょう」
俺に焼き殺された魔女たちだって、まあクズではあったが、家庭では厳しいながらも良い母親だったんじゃないのか。
少なくとも、数人はそんな感じのがいた。
「私は許します。イイスス様は関係ありません。私がユーリさんを許します。どうか、心に留めておいてください」
俺の手を握ったイーサ先生にそう言われると、ふいに心が安らいだ気がした。
そうなった自分に、嫌悪感が湧く。
それは違う。
「……そうですか。分かりました、覚えておきます」
奇妙な気分になりながら、少し手を引くと、イーサ先生は俺の手を離した。
「それでは、少し用事があるので、これで失礼します」
まだ少し時間があったが、俺は椅子から立った。
これから北に行って、また戦争をしなければならない。
「ご武運をお祈りしています」
イーサ先生は立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
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