第172話 別れ

「ユーリくん! ご無事ですか!」


 ミャロは拘束帯をほどき、鷲から降りた。

 焦った様子で、片足を欄干の手すりに乗せる。


「馬鹿、危ないっ」


 慌ててミャロの足に手を添えた。

 足を滑らしでもしたら、六階から地面まで真っ逆さまだ。


「わわっ、すみませんっ!」


 ミャロは俺の頭を抱きとめるように掴む。

 俺はそのままミャロの下半身を両手で抱え、ゆっくりと床に降ろした。


「どうした、こんなところに」

「申し訳ありません、魔女の動きを察知できませんでしたっ」


 ミャロは深々と頭を下げた。


「今は責任の所在は置いておこう。それで、どうした」

「いえ、ユーリくんだけでも逃さなければと……」


 ミャロは言いながら、少しでも情報を得ようと、部屋の中をキョロキョロと見回していた。


「――毒ですか」


 青ざめたような顔になった。


「ああ。カーリャがそそのかされたらしい。盛りやがった」

「毒の種類は?」

「赤のカノッリア……って毒らしい」


 それを言うと、ミャロの顔は更に青ざめた。


「……本当ですか? 恐ろしく手間のかかる毒ですよ」

「王剣が自信満々に言っていた。間違いない」

「え、じゃあユーリくんは? お元気そうですけど」

「酒に入ってたんだ」


 俺が言うと、それだけでミャロは全てを察したようだった。


「魔女も調べが甘いですね。無事でよかった」


 無事なもんか。


「俺は皆を置いては逃げられない」

「え、でも、赤のカノッリアを飲んだのなら、もう……」

「すぐに吐かせたんだ。少ししか飲んでいない。手遅れなんてことはない」


 そう言いながら、自分が客観的な事実を言っているのか、自信が持てなかった。

 俺がそう思いたいだけなのかもしれない。


「ユーリくん、決断を迷うのは分かります。でも……ユーリくんまで居なくなったら、皆はどうするんですか?」

「だが……」

「リリーさん、シャムさん、社の皆さん、ホウ家領の方々は……? ユーリくんが居なかったら、皆迷ってしまいます。新大陸だって……ボクでは主導できません」

「俺の両親とキャロルだぞ! お腹に子どもがいるんだ」


「ユーリ様」


 横から声をかけてきたのは、エンリケだった。


「黙ってろと言っただろ。口を挟むな」

「お父様がお呼びです」


 ルークが?


 俺は急いでルークの近くに行った。

 近くで見ると、相当具合が悪そうだ。


 顔に血色がまったくなく、ベッドの横には血を吐いた痕がある。

 顔筋は引き攣っている。


 ああ……。


「父上……どうしましたか?」

 枕元に耳を近づけた。


「あれ、俺の、鷲だ」


 ルークの鷲?

 じゃあミャロは別邸から連れてきたのか。


 よく貸したな。


白暮はくぼ……お前に、やる。ふたりで……ゴホ、のっていけ。あの鷲なら……」


 二人?

 鷲に二人乗りするのか。


「……でも、お父さんお母さんを置いては……」


 俺がそう言うと、ルークは腕を大きく動かして、俺の首を無理矢理抱えた。


 妙に熱い手が震えている。


「俺たちがお前の死を望むと思うかっ! お前は、自分と妻のことだけ考えろ! 妻子を守るのが男の役目だッ――!」


 ルークの体調からすれば、恐ろしく大きな声で叫ばれた。


 血しぶきだろう。顔に飛び散った飛沫から鉄の香りがする。


「ゲホッゲホッガホッ――」


 ルークは俺の首から手を離すと、布団を口に当てて大きく咳き込んだ。

 布団にはおびただしい量の血が染みている……。


「行け……」


 ルークはそうつぶやいて、気絶するようにベッドに横たわった。


「……ユーリくん、ボクはギュダンヴィエルなので、どうとでもなります。なので、キャロルさんを」

「ああ。鷲はもらう」


 不思議と心が定まっていた。

 もう迷わない。


 ルークにはたくさんの事を教えてもらったな……。

 本当に、すごいお父さんだ。


「別邸はまだ陥ちていません。あそこまでなら」


 鷲の二人乗りは危険だが、ルークができると言ったのだ。

 俺に鷲の全てを教えてくれたルークが言ったんだ。


 幸いなことに、ここは六階だ。

 十分な高さがあり、ここから別邸までの距離ならば、上昇する必要はない。

 滑空して滑り降りるようにいけば、あるいは……。


「そうする。だが、行く前に、一人殺しとかないとな」


 俺は部屋の隅まで歩き、カーリャの目の前で短刀を抜いた。


「ンーッ、ンーッ!」


 カーリャは青ざめて暴れるが、縛られているので逃げられない。


「はい。ここで殺したほうがよいと思います」


 ミャロも同意見のようだった。


 私怨だけではない。

 キャロルと俺が居なくなったあと、魔女たちはこいつを即位させるだろう。

 もはや降伏するなどという選択肢はないのだから。


 だとしたら、ここでカーリャを生かしておく意味はない。

 意味がないどころか、害になる。


「待て」


 短刀を持った手を掴んで止めたのは、ティレトだった。


「一応聞いておくが、どういうつもりだ」

「殺させるわけにはいかない」


 ティレトの目には堅い決意が見えていた。

 まあ、王族が殺されるのを阻止するのは、王の剣の役目なのだろう。


 警吏が、目の前で殺人が行われようとしていたらとりあえず止めるのと同じようなものだ。

 だが、それは手続き的な問題にすぎない。


「女王の許可が必要なら、さっさと取ってこい」

「そうさせてもらう」


 ティレトは女王のところへ向かうと、二言三言会話した。

 戻ってくると、


「駄目だ。殺させるわけにはいかない」


 唖然とした。


「何を抜かす。元はと言えばてめえらの失態じゃねえか。この上邪魔までするってのか」


 頭が沸点を超えそうになる。

 ここで責めても仕方がないと思っているから、黙って堪えてきたが、こんなことになったのは王家の過失だろうが。


 人を招いておいて毒を盛られたのだから。

 この馬鹿がどうやって毒を盛ったのか知らないが、管理不行き届きは王家の責任だ。


「シモネイ陛下のお心をお察ししろ……」

「おっ、お心だ?」


 俺のお心を察してくれよ。

 頼むから。


 戦略上必要じゃなくても殺したいくらいなのに。

 おこころ?


 たちの悪い冗談かなにかか。


「シモネイ陛下と話していいか?」

「ああ、そうしてくれ」


 俺は女王のベッドに向かい、枕元に座った。


「……どういうことなんです?」

「カーリャ、のことは、私が……」


 自分で処理したいのか?

 身内の恥は身内で始末をつけたいということだろうか。


 俺からしてみれば、目の届くうちに確実に終わらせておきたい。


「あれと、最後に、話を、させてください」

「いえ、でも時間が……」

「あれを使えば、ご両親の助命に役立つ、かも……」


 ……そう言われると。


「どうか……」


 シモネイ女王は、目を閉じながら、消え入るような声で言った。

 今までの嘆願のどれよりも真摯な願いに聞こえた。


「分かりました。一理ないでもありません」

「お気をつけて……本当に、ごめんなさいね……」


 もうしょうがない。

 押し問答してる時間はないし、王剣がいるのに無理矢理実行するのも難しい。


「分かった。カーリャについてはお前らに任せる」

「かたじけない」


 ティレトが言った。



 *****



 シモネイ女王はああ言ったが、助命というのは殺されないという意味だ。

 毒が治るという意味ではない。


 毒のエキスパートらしい連中がああまで言うのだ。


 ……ルークとスズヤとは、今生の別れになるのだろう。

 別れを済ませなければならない。


 俺は、スズヤの枕元に跪いた。


「お母さん……すみません。行きます」

「………おねがい。ユーリ、最後に抱かせて」


 俺はおずおずと、スズヤの胸元に体を寄せる。

 ベッドからスズヤの両腕が現れて、自然な抱擁が俺の両肩を包んだ。


「ありがとう……私、ユーリのお母さんができて、とても幸せだったわ。ユーリは寂しがりやさんだから心配だけど、きっと大丈夫よね?」

「はいっ……はい」


 これで今生の別れと思うと、幼少のころから、優しさで包んでくれたスズヤの思い出が、走馬灯のように頭を駆け巡った。


 俺はこの母親から、どれだけ優しくしてもらっただろう。

 あの暖かい家で愛情を注いでもらっただろう。


 両目から涙が溢れてくる。

 涙声になってしまう。


「ユーリは優しいから、こうなったことを後悔しちゃうかもしれないけど……お願い、幸せになってね」

「すみません、お母さん。すみません……」


 涙が次から次に溢れてくる。


 元はと言えば、俺の結婚の顔見せだったのに。

 こんなことなら、最初からなにもしなければよかった。


 新大陸なんて目指さなければよかった。魔女を追い詰めなければ、こんなことにもならなかったかもしれないのに。

 なにもかも失ってしまった。


「いいのよ。キャロルさんとの結婚式は見たかったけれど。あぁ、孫も見たかったわね……この子も産んであげたかった……」


 ああ。

 そんな未来もあったんだ。


 台無しになってしまった。

 スズヤは孫や息子や娘に囲まれた、幸せな老後を過ごせたかもしれないのに。


 それが……こんな終わり方をするべき人じゃないのに。


「でも、ユーリ、私が一番望んでいるのは、あなたの幸せなのよ。それは守れた……。だから、今、お母さんは幸せなのよ。幸せのよ。お願いだから、覚えておいてね」

「はい……はい」

「……なら、もう行って、ユーリ。愛してるわ」


 スズヤは最後に一層力強く俺を抱きしめると、名残惜しそうに腕を解いた。


 離れたくない。

 強くそう思った。


 だけど、離れなければならない。


 俺がスズヤのベッドから離れると、スズヤはにっこりと微笑んだ。


 隣り合っているベッドでは、ルークがこちらを見ている。

 ルークは何も言わず、力強い眼差しで俺を見ていた。


 ベッドから出ているルークの手を握りしめる。


「お父さん、お母さん。育ててくれて、本当にありがとうございました」

「ああ、ゴホッ、もう行け」


 ルークはそれを言うだけでも辛そうだった。

 先程大声を出したからか、声が酷くしゃがれている。


 名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも、俺は両親のベッドを後にした。



 *****



 涙をふいて、鼻をかむと、キャロルのベッドに向かった。


「キャロル、大丈夫か」

 ベッド脇に座って、頬を撫でてみる。

「……すまないな。いつも迷惑ばかりかけて……」


 他の三人と比べると、やはりキャロルの調子は相当いい。

 血色が悪いことには悪いが、普通に喋れている。

 それは、声帯が麻痺していないということだ。


 頬からは温もりも感じる。


 なにより違うのは、血を吐いていないところだ。

 喋るのは辛そうなので、痛みはあるのだろうが、呼吸器の血管は破けていないのだろう。


「大丈夫そうか?」

「うん。大丈夫」


 大丈夫らしい。

 俺はベッドから立ち上がった。


「ミャロ。生き残れると言ったが、自信があるんだろうな」

「もちろんです」

「じゃあ、これを預かっといてくれ」


 俺は、自分の短刀をミャロに渡した。


「えっ、これは……」

「二人乗りするんだ。少しでも軽くしなきゃな」


 俺は靴を脱いだ。

 服も、下着とシャツ以外は全部脱ぐ。


「よし。キャロル、立てるのか」

「ん、どうにか――あっ」


 ベッドから降りようとして、尻が滑って床に尻もちをついた。

 痺れがあって自由が効かないのだろう。


「王剣、介助できるか」

 俺がしたいところだが、俺は鷲に乗らなければならない。

「キャロル様、お手伝いいたします」


 ティレトが肩を貸して、キャロルを欄干のところに連れてくる。

 俺はバルコニーに立つと、欄干に足をかけて、白暮の背中に乗った。


 殆ど素っ裸の体に拘束帯をつけて、手綱を操る。

 ミャロがつけた鷲は首を部屋に向けていて、出発するには反転させる必要があるからだ。


 白暮は、さすがルークの調教が効いていて、以心伝心で意図を察したようだ。

 欄干を掴んだ鉤爪をくるりと組み替えて、なんの手間取りもなく向きを逆に変えた。


 並の鷲ではこれができない。

 意図を読み取れず混乱したり、その場で飛び立ったりしてしまう。

 人間に対する絶大な信頼感と、鷲自身の頭の良さ。深いパートナーシップが並立して初めて出来る芸当なのだ。


「キャロルを。持ち上げられるか?」


 ティレトが戦々恐々としながら、キャロルを持ち上げた。

 キャロルが欄干に足を乗せる。

 落ちたら地面までまっさかさまだ。


 落ちないよう、ティレトに腰のあたりを掴まれているキャロルに、手を差し伸べる。

 手首同士でがっしりと手を繋ぎ合うと、力いっぱい引き上げた。


 どうにか、鞍の背中のところに座れたようだ。


「腕を回して、しっかり捕まってろよ」

「ああ」


 キャロルが背中に手を回す。

 以前何度も抱きしめられた経験からすると、ひどく弱々しい力だった。


「ロープを」


 二人乗り用の鞍というのは、珍品屋のネタ商品にしか存在しない。

 もちろんこれは二人乗り用ではなかった。

 ティレトがロープを寄越し、俺はキャロルと自分の体をたすき掛けのように縛り、更に腰でもう一度縛った。


 準備は整った。


「ミャロ、くれぐれも気をつけろ。絶対に死ぬな」

「はい」

「キャロル。最初は自由落下で高度を速度に変えるからな。慌てるなよ」

「わ、わかった」

「いくぞ」


 手綱を使って前進させると、白暮は地面に飛び込むように六階から飛び降りた。

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