第166話 温泉郷での一幕

 その日、俺は休みを取って例の温泉に来ていた。


 しばらくぶりに来たので、外を見ると風景の印象が変わっている気がした。

 カチカチに凍てついた山が、若干ほどけ、おっかなびっくり新芽を出そうとしている。


 そんな気配がする。


 春が来るのは素晴らしいことだ。

 ただ、温泉の楽しみは減る。

 王鷲の飛行で凍てついた四肢を、温泉で蕩けさせる歓びは何事にも代えがたいものだ。


「ユーリ、どうかしたか?」


 キャロルが言った。

 俺と同じバスローブのような室内着を着て、髪をまとめて、一人座りのカウチのようなソファにかけ、リラックスしていた。

 深く腰掛けて、オットマンのような揃いの足掛けに裸足を預けている。


「小難しいことを考えていた」

「どんなことを?」

「真冬にここに来て温泉にドボンと浸かる気持ちよさは、夏には味わえなくなるなぁ、と」


「全然小難しくない」

 キャロルはくすりと笑いながら言った。

「そういえば、そうかも」


 ある意味文学的のようにも思えるんだが。


「お前はここに来ると頭がゆるくなるみたいだな」

「そうかもな。いつも問題を抱えてるから」


 最初と違って、難題というほど頭を悩ませる問題は少なくなったが、王都にいる間は判断を矢継ぎ早に求められる。

 失敗したら大損害のような判断はそれほどないのだが、なにしろ毎日精神的に疲れる。


「ここはいいな。本当に気が休まる」

 キャロルが言った。

「ああ。誰も連絡を寄越さないというのがいい」


 仕事のことを考えないで済むというのは、本当に気が楽だ。

 自分が居ない間に、とんでもないことが起きているということも無くはないので、この上外界の時間が止まっていてくれたらパーフェクトなのだが、それは仕方がない。


「私は、お前を独占できているという感じが好きだ」


 何を言い出すのか。


 外を見るのをやめて、キャロルのほうを向き直ると、意地悪げな顔をしていた。

 なにやら女王の風格を感じる。


「いつも独占できてるじゃないか」

「心はそうかも。でも、時間は独占できていない」

「まぁ、そりゃ……」

「時間も独占したい」


 キャロルはオットマンから足を下ろして、カウチから立ち上がった。


 下着を何も着けていない躰で抱きしめてくる。

 足を絡ませ、身体中に柔らかいものが密着する。


「時間も体も。どうだ?」

「いいな。ベッドに行こう」



 *****



 キャロルはアブノーマルに耐性がないんじゃないか。

 そんな風に思っていた時期もあったのだが、それはまったくの間違いだった。

 人は見かけによらない。


 キャロルは、俺がキルヒナのときに受けた傷のところを舐めるのが性的にクるらしく、陶然とした顔で足を舐めていた。

 くすぐったい足の裏をキャロルに丹念に舐められるというのは、ゾクゾクするものだ。


 ただ、正直なところ、シチュエーション的な部分以外はそんなに気持ちよくはなかった。

 舐められたら気持ちいいところは、もっと他にもある。


「っぷは……ハァ、ハァ」


「この辺にしとこうぜ」


「えっ……やめるのか?」

「まだ日も暮れてない」


 外はまだ明るかった。


 夕陽になりかけた太陽が、横から薄く窓を照らしている。

 位置的に朝日を浴びられるようにできている寝室は、夕陽が差さず、ようやくキャロルの顔が判別できる程度の明るさしかなかったが、外はまだオレンジ色のはずだった。


「そうか……まぁ、まだ夜があるしなっ」


 性欲モンスターかよ……。

 既に一回したのに……。


「湯で体を清めたら、ちょっと休むか」

「そうだな、うん」


 キャロルを置いて、半露天風呂になっている内湯に行き、軽く湯をかけて汚れを落とす。

 タオルで水気を拭うと、室内着をまた羽織った。


 そのままリビングのほうに行って、寝椅子に体を預ける。


「はぁ―――」


 ため息をつきながら、体の力を抜くと、どろどろと沼の中に落ちてゆくような気持ちになった。

 仕事の課題がぽつりぽつりと、泡のように浮かんでは意識的に吹き消す。


 深く考えると、休日の気分が台無しになってしまう。

 だが、思い浮かぶのは仕事のことばかりだった。


 目を開けると、夕陽に照らされ、ゆっくりと闇に沈もうとしている空に、満月から少し下弦に欠けた月が浮かんでいた。

 まだ青みを帯びた空に浮かぶ月は、どこか所在なさげに見える。


 これから太陽の光が消え、大気層の明るみが途絶えれば、星の輝きとともに、月は主役のように輝きを放ち始めるのだろう。


「な、なあ、座っていいか?」


 と、遅れてやってきたキャロルが言う。

 ほんと好きだなこいつ。


「いいよ」


 と言うと、キャロルは俺の上に座り、仰向けに寝転んだ。

 足を折り曲げて、俺の胸のあたりに頭を置いた。


 どこの職人が作ったのか、高そうな寝椅子は二人分の体重が乗ってもビクともしなかった。


「ふぅ……」

 安心したのか、キャロルが一息ついた。

「なんか、今日は積極的だな」

「……ちょっと、寂しかったのかもしれない」

 キャロルとここにくるのは、ほぼ一ヶ月半ぶりだった。

「暇すぎてか?」


 からかうようにそう言うと、キャロルは握りこぶしを作って俺の腰辺りを叩いた。


 俺と同じように、キャロルもまた取る講義がなさすぎて暇なはずなんだが。


「……まあ、前より暇を持て余しているのは確かだけど」


 事実だったんやんけ。

 なんで叩かれたのか……。


「毎日に張り合いはないな。白樺寮は退寮したし……寮にはお前もミャロもいない」

「そうか」


 普段なにしてるんだろう。

 読書とか王城の手伝いとかか?


「俺も、最近忙しくなったからなぁ」

「忘れてるかもしれないが、お前は昔から忙しい男だった。東に魔女がいれば喧嘩を売り、西に流民がいれば仲間にならないかと誘い……」


 いや……。

 そんなことしてた?


「そうだったかな」

「そうだったよ。誰より講義を取っていなかったくせに、誰より忙しそうにしていた」


 そうだろうか……。

 社を建てる前の時期はかなり暇だったんだけどな。


「なあ、学院を卒業したらどうするんだ? ホウ家をやりながら、社のほうもやるのか?」


 それは……。

 困ってるんだよなぁ……。

 実際、どうしよう……って思ってる。


 卒業するのしないのって時期の前に、株式会社化できたら良かったんだけど、株式公開みたいなことをすると魔女が一口噛んでくる気がして、実現出来なかったんだよな。

 そんな商習慣も存在しないし。


「そろそろ、身の振り方を考えないとな」

「ホウ家には入るんだろ」

「まあ……入らざるを得ないだろうな。色々頭が痛いんだが」


 諸侯との付き合いとか上手くやれるのかな。

 考えただけで頭痛がしてきそうだ。

 人の名前覚えるの苦手なんだよな……。


「……なあ、それだったら、私と結婚しないか?」


 ……結婚?


「ホウ家に入るんだったら、王家に入っても同じだろう? いろいろとやりやすくなる」

「うーん……」


 俺が王配になるわけ?


 でも、定期的にこういう事をしている立場上、断りづらいな。


「王配になったら、どうせお前と喧嘩になるよ。俺はメチャクチャやるからな」


 そもそもが、生きてきた世界観がキャロルとは違う。

 俺は貴族制ってやつがどうも肌に馴染まないし。


 誰かに特権を与えてそれが世襲されるというのが、なんとも公平でない感じがしてしまう。

 それは代々の富豪の家が財産を相続する、みたいな話とは質の違う話だ。


 そういった誰かが割りを食っている歪な社会構造を、トップになったとき放っておけるのかといえば、やっぱり正そうとするだろう。

 そういうところで喧嘩になりそうな気がする。


「喧嘩、いいじゃないか。夫婦喧嘩」

「なんでだよ」

「そんな大きな喧嘩にはならないよ。お前はなんだかんだ、道理に合わないことはしないからな」


 いや、どうだろう。

 俺は自分が正しいと思ったことは推し進めるけど、それが道理に合っているかというのは別のことだ。


 それは社会通念の話で、魔女にリベートを払わないのも、魔女の世界からしたら道理に外れた行為なわけだし。


「そんなの分かるか。俺は道徳の権化じゃないんだから」

「……うーん、じゃあ、喧嘩になったら私が折れるよ」


 折れるところが想像できない。


「お前が折れても、女王陛下がいるだろう」

「お母様か……言っていいのかわからないけど、最近へんなんだ」


 そうなのか。

 プレッシャーが掛かっているのは分かるが、変って?


「キエン殿をやたらと呼びつけてな……やっぱり防備が心配らしくて」

「キエン・ルベを? どんなことを聞くんだ」

「大丈夫なのかとか、砦は作ったのかとか、そんなことしか聞かないよ」


 ……うーん。

 そんなこと聞いてどうするの?


 王家がわざわざ聞かなくたって、勝手にやるんじゃないか?

 たぶん、その件について一番真剣に頭を悩ましてる専門家はキエン・ルベなのだから。


「お母様は騎士院を出ているわけじゃないから、キエン殿の説明が分からないみたいなんだ。だから近衛の上の方の人を呼んで会議に参加させたりもするんだけど……意味がないみたいだ」


 端的に言って、キエンの邪魔してるだけなわけだ。

 食事の用意をしている母親に「ご飯まーだー?」と連呼して困らせる子どもみたいなものだろうか。


「そういうのは止したほうがいい。一番考えてるのはキエンなんだから、反感を買うだけだ。近衛に百年に一人の天才策略家でも居るんなら、話は別だけど」

「それはそうなんだけど……でも、不安みたいなんだ」


 まあ……わからないでもないけど。


 そもそも、王族の仕事って魔女界と騎士界のバランス取りみたいなところがあったからな。

 それに加えて、血の高貴さを拠り所にして、全体からゆるーく敬意を受けながら統治していた。


 こういう切った張ったの状況には不慣れなんだろう。


「俺が入ればマシになるのか?」

「私が成人したら、譲位して戴冠式をやるだろう。ユーリは王配になって采配を振るえばいい」

「なんだ、そんなに辞めたがってるのか。女王陛下は」

「ああ……なんというか、お母様は疲れている」


 疲れてるとか。

 疲れてちゃ困るんだけど。


「俺との結婚とかなしで、お前に譲位したいとか言ったことはないのか」

「ふふっ、それはないよ。責任を放棄したいわけじゃないんだ。ただ、ユーリに関しては適任者と思っているから、預けられれば預けたいと思っている。私はその域まで達していないのだろうな」


 そうなのかー。

 それに関しては、親っていうのは子を自分より高くは評価したがらないものだから、仕方ない気もするけど。


 それにしても、王室か。


 どっちみち、まだ船も十四隻にすぎないし、いざとなったら他の商船を徴発するにしても、ウチ以外の船は小舟ばかりだし……。

 いずれ逃げるにしても、戦わないって選択肢はなさそうなんだよな。


 参ったな。


「それでな……ちょっと、ユーリに言っておかなくちゃならないことがあって……」


 キャロルは俺の胸の上で言った。


「なんだ?」

「あのな、結婚してくれってわけじゃないんだ。嫌なら嫌でいいから……」


 キャロルは体を動かし、俺の上に馬乗りでまたがった。


「その、アレが来ないんだ」

「アレ?」


 嫌な予感がした。


「月のものが……」


 うわっ。

 あー………。


「そうなのか。いつから?」

「先々月くらいからだ……」

「そっかーー……」


 じゃー、ほぼ確定か。


 もっとショック受けると思ってたんだけどな。

 なんか顔がニヤける。


 なんだ。

 嬉しいのか。俺は。

 嬉しがってるのか。


 困惑したり敵意を抱いたり、イーーーッってなったりするんじゃないんだ。

 嬉しいのか……俺は。


 もっと嫌な思いをすると思ったんだけどな。


「めでたいな、まったく」

「そう思ってくれるのか?」


 キャロルは心配そうな目で俺を見下ろしていた。


 紅くなった夕陽も落ち、空はとっぷりと暗くなっていた。


「心からそう思うよ。幸せな感じだ」

「そうか……。そうか……!」


 よっぽど心配だったのか、キャロルは喜色満面で抱きついてきた。


「ありがとう。よかった、本当によかったっ……!」


 キャロルは首に絡めた腕で抱きしめながら言った。


 堕ろせとでも言う鬼畜だとでも思っていたのか……。

 できるだけ外に出してたとはいえ、やることやってたんだし、いつかこうなるだろうなぁ、とは思ってたよ。


「俺が父親ねぇ……実感ないな」

「私も母親だ……! 実感はないぞっ!」


 キャロルは妙なテンションで、涙まで流している。


「はあ……そんじゃ、結婚するか」

「えっ?」

「俺も年貢の納め時ってやつなんだろ。結婚しといたほうが何かと便利だ」


 俺がそう言うと、キャロルは絡ませていた腕を解いて、体を起こして俺を見た。


「本当か? 冗談じゃないよ……な?」

「ああ、冗談じゃない」


 そう言うと、キャロルは自分のほっぺたをつねりはじめた。


「ひたい」


 夢だと思ってんのか?

 そこまで嬉しがられると、こっちも光栄な気分になってくる。


「結婚しよう。いや、俺と結婚してくれ。キャロル」


 ここは男のほうからプロポーズするべきだろう。


「もちろんだっ! 私の人生で、こんなに嬉しかったことはない!」


 寝椅子の上で、俺とキャロルはもう一度抱きしめあった。

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