第163話 リリー先輩の相談事*
白樺寮の自室のドアを開けると、シャムはうんざりとした気分になった。
「リリー先輩……まーた聴いてるんですか」
「えっ? ああ、シャムかいな……いやいや、さっきさっき」
リリー先輩は意味不明な言い訳をする。
慌てた様子で、オルゴールの箱を閉じた。
ポロンポロンと響いていた音がピタリと止まる。
そういう仕組みになっているのだ。
「もう何千回聴いてるんですか? 何度もいいますけど、良く飽きませんね」
私は机の上に本を置きながら、自分の椅子に座った。
「いやぁ、どうかな……」
リリー先輩がユーリにオルゴールを贈られてから、二週間。
異国製のその機械は、この国には同種のものがなく、ゼンマイ仕掛けで音楽を奏でる仕組みは、最初こそ面白かった。
そりゃ、私だって新しいものは好きだし、聴いたことのないメロディは新鮮で、最初の十回くらいは楽しく聴けていた。
だが、リリー先輩は椅子に座りながら、朝も昼も夜もずーっと聴いていた。
ニヤニヤと箱を眺めながら、ゼンマイを巻いては聴き、巻いては聴き……それを最大で半日も繰り返す。
最初の三日くらいは私もなにも言わなかったが、三十秒ほどでループする単調なメロディをこうも続けられると、頭がおかしくなりそうだった。
それを言うと、リリー先輩は私がいる間は箱を閉じるようになった。
だけれども、音が止まっていても箱を眺めているのだ。
音楽を聴くことにはそれほど大きな意味はなく、欲求の大部分は箱を見ているだけで満たされるのだと思う。
「ほんっとーに、ユーリのことが好きなんですねぇ……」
「うん……好き」
ドアのところから先輩の横顔を見ると、目がらぶだった。
報われない恋に生きる切なさ、みたいなものを感じて胸がキュンとなる。
いやいや、報われないって思っちゃだめか……。
「あの……」
「なに?」
リリー先輩は、幸せそうな顔で箱を見ながら返事をした。
「最近、ユーリの頼みで鉄の金属物性やってるじゃないですか。焼入れとか焼戻しの」
「うん……うん?」
「熱しないと話になりませんけど、あんまり熱しすぎると金属組織はボロボロになっちゃうわけで」
なにを言っているんだ私は。
恋の話じゃなかったのか。
「恋をするのも、ほどほどがいいんじゃないですか」
「誰かにコントロールされてやっとるわけやないもん。火事みたいなもんやもん」
「まあ、そうですけど……」
「ああぁ~……」
やば。
まーた始まったかな。
「私、ユーリくんより年上やし、やっぱそれがだめなんやろかぁ~……」
「いや」
「ちょっと太り気味なのがだめなんかなぁ……」
「いや、あの」
「それとも、やっぱ重いって思われとるんやろか……」
「いえ、だからアプローチしてないじゃないですか。それ以前の問題ですから」
移動を始める前から「目的地にたどりつかないのは靴が合わないからだろうか……」って悶々としてるようなもので、ほんと無益だ。
無益なループは目がクルクルする思いがするのでやめてほしい。
「アプローチって?」
「それは……」
自然と視線が胸に行ってしまった。
こないだユーリを出迎えた時、抱きしめたみたいにすればいいんじゃないですか。
でもリリー先輩がユーリにえっちなことをするのは嫌だったので、言わなかった。
「わかりませんよ……私だって経験があるわけじゃないんですから……」
「うーん……ならどうしたらええんやろ……」
「じゃあ、恋のことは恋のエキスパートに聞いてみたらいいんじゃないですか」
「恋のエキスパート? って誰?」
逆に尋ねられた。
恋のエキスパート? 自分で言っておきながら、さっぱり思い当たらなかった。
自分だったら誰に相談するだろう。
んー、お母さん? とか?
「えっと、良くわからないですけど……じゃあ、本とかで調べてみたらいいんじゃないですか?」
「本……? じゃあ、書き手に聞いてみよかな……」
「書き手?」
「ピニャ・コラータ」
えっ。
ピニャ・コラータというのは、教養本の作者として名を馳せている作家? だ。
沢山の本を執筆している。
といっても、その本というのは、なぜかユーリが登場するという良くわからないもので、一度読んでみたけれども、意味がわからなかった。
なぜ男性同士で……?
ユーリは普通に女の子が好きなんだけど、あえて男性同士にする必要性は……?
最近は、現実の人物がまったくでてこない、独創小説? も書いていて、そちらも読んだことがあったが、やっぱり難解すぎて意味がわからなかった。
白樺寮で誰もが憧れている成績優秀・眉目秀麗・高貴な家柄の女の子が、毎晩ベッドに入ると自分が巨大な芋虫になってしまう夢を見て、人間と芋虫との違いに悩み、白樺の樹にいた芋虫に恋をするに至り、よくわからない事になる小説だ。
意味がわからなかった。
人間は、いくら悩んでも蛹になったりしない。
「あの……? あの小説と現実の男の人とは、だいぶ乖離があるような……?」
「どうかな……。ずば抜けた人間観察力がなかったら、書き手って務まれへんとは思うし。行ってみるだけなら
あかん……冷静な判断力を失っている……。
「本気ですか?」
「まあ、ええやないの。シャムも来てくれるやろ?」
*****
コンコン、とノックをすると、「どうぞ」という声が中から聞こえた。
「失礼します」
そう言ってピニャ・コラータの自室に入ると、ピニャはいなかったが、ルームメイトの女性がそこにいた。
彼女もユーリの関係者で、コミミ・キュロットという。
「おや、リリーさん。シャムさんも」
「コミミさんか、ちょっとピニャさんにそうだ……じゃなくて、聞きたいことがあったんやけど」
リリー先輩は言葉を替えた。
コミミさんは、ピニャさんに対して若干過保護なところがあり、どこへでも付いていきたがるので、言葉を選んだのだろう。
「ピニャならいません。古代シャン語の補習です」
「あー、そかそか」
ピニャさんは、未だに古代シャン語の講義を済ませていないらしい。
私も、あのまったく無駄な学問については頭を悩ませている。
来年には最後の必修である中級古代シャン語Ⅲの講義に挑まなくちゃならない。
中級古代シャン語Ⅱで心を殺して暗記することを覚えたから、さほど苦ではないとは思うけど。
ていうか、もう卒業しなくてもいいんじゃないかな、と思わないでもない。
「それじゃ、また改めます。お邪魔しました~~」
先輩が去ろうとしたところで、
「待ってください」
と、コミミさんは呼び止めた。
「それより、活字の素材はどうなったのです……? どうにかなったのですか……?」
「あ、大丈夫です。問題の金属のアテはつきましたから」
担当者は私なので、私が説明する。
「問題の金属……というと?」
「凝固の際に膨張する性質を持った金属、ですね。鉛錫合金だと鋳型の中で固まる際に収縮しすぎてしまうので、その金属を足せば、膨張と収縮の性質が打ち消し合って、問題が解消するわけです。あとは耐摩耗性の問題とかは残ってるんですけど――」
「あ、分かりましたので……大丈夫です。解決したなら」
「そうですか?」
素材の希少性の問題とかを説明しようと思ってたのに。
「まあ、こちらも進んでいるので……できるだけ急いでください、というだけです」
コミミさんは目線で机を指した。
コミミさんの座っている机の上には、一文字づつ文字が描かれた紙片が並んでいる。
たぶんテロル語の文字なのだろう。まったく馴染みがなかった。
「なにをしてるんですか?」
「カリグラフィー……まあ、習字みたいなものです。印刷する聖書とやらは美麗なことが商品価値に繋がるらしいので、文字一つ一つの字面や幅を調整しているんです。ユーリ会長の命令で……私、クラ語取ってないのに……」
「大変なんですね」
なにやら苦労しているようだ。
あまり興味がない。
文字は読みやすいといいと思う。
「まぁ……将来的にシャン語で活字を作るときの参考になるでしょうから、無駄とは思いませんが」
「そうですかぁ……」
将来的には古代シャン語も網羅することになるのだろうか。
現代シャン語ですら、結構な文字種があるんだけど……古代シャン語になると、その二十三倍くらいはある計算になるのかな。
活字が何個必要になるのか……数字が簡単に爆発しそう。
「それじゃ、お
話が一段落ついたのを察して、先輩は言った。
「はい、どうぞ」
「それじゃ、失礼します」
ぺこりと頭を下げて、退出する。
「ピニャなら、大図書館にいるかもしれません」
別れ際にコミミが言った。
*****
大図書館にいくと、ピニャ・コラータは椅子に座っていた。
なにやら分厚い本を読んでいる。
分厚い本を覗くと、古代シャン語の本だった。
それもかなり難しそうだ。
一行読んだだけでも、難解な表現を使うのに躊躇がない感じが伝わってくる。
補習だと言っていたけれど、自習でこれをやっているということは、中級シャン語の講義ではないのかもしれない。
上級シャン語Ⅱ……下手をするとⅢかもしれない。
私とは根本的にレベルが違うので、推測もできない。
「ピニャさん、ピニャさん」
リリー先輩が小さな声で声を掛ける。
気づかない様子だ。
「ピニャさんっ」
先輩が肩を叩くと、
「ヒエッ!」
ものすごく甲高い上ずった声を上げながら、ピニャはビクッと跳ね起きた。
思わず周囲を見回すが、見える範囲には誰もいない。
誰もいなかったが、やたらと響きのよい奇声だったので、誰の耳にも届かなかったということはないだろう。
「ヒャッ、誰ですか」
「リリー・アミアンです」
先輩は特徴的なイントネーションで言う。
「あ、ああっ……リリーさんですか……エッ、何か用事でも?」
「用事というか相談なんやけど……」
「相談……ですか? なんでしょう」
「ユーリくんのことなんやけど……」
「えっ……」
ピニャは後ろめたいことでもあるかのようにビクっと震えた。
「も、もうユーリさんの教養本は書いてませんから……許してくださいぃ……」
「えっ、ちゃうねん。そうじゃなくて、というか、怒りに来たんじゃないから……」
「ぇ……そうなんですか……」
ピニャはホッとしたように胸をなでおろした。
なんだろうこの会話……。
「もしかして、今忙しい?」
「べつに、忙しくないです……古代シャン語の勉強をちょっと……」
「お好きなんですか?」
思わず尋ねてしまった。
古代シャン語を好きという理解しがたい人はなぜか一定数いる。
「好きというか……文章表現が広がるので……」
「文章表現?」
「やっぱり本を読む人は教養がある人ばかりなので……古代シャン語を押さえた文章を書くと嬉しがってもらえます……難しすぎるのもだめですけど、簡単すぎても味気がないので……」
「そうなんですか……難しいんですね」
仕事上必要、ということなのだろうか?
よくわからなかった。
「ちょっとここだと話せへんから、喫茶店にいかん?」
喫茶店というのは
大図書館を出て目の前にある。
「分かりました。じゃあ、ちょっとこれ返してきますね」
ピニャがぱたんと大きな本を閉じると、読む人も少ないのだろう。本の上に残っていた埃が、ぽふんと舞った。
*****
銀杏葉の個室にて、リリー先輩はピニャに相談していた。
私は美味しいお茶を飲みながら、呆れた気分でそれを聞いていた。
「はあ……つまりユーリくんと仲良くなりたい……ということですか」
「うん。ピニャさんはあれやろ? ずっとユーリくんを観察してきたわけやから……なにか分かるんとちゃうかなぁ~って思って」
やっぱりなにかがおかしい。
恋は盲目というやつかな。
ユーリの観察だったら、同室のドッラさんとかのほうがよっぽど一緒にいる時間が長い。
そちらに聞きにいくべきではないだろうか。
「でも、私の小説の男性像というのは、教養女が考える男性像なので……本物とはまた違うと思いますよ。本物の男性とは私、お付き合いしたことがないので……」
「わかってますって。参考程度でも聞いてみたいんです」
「まあ、そういうことであれば……あくまで、私の小説のキャラクターとしてのユーリくんのお話なので……そこは分かってくださいね」
「わかってます、わかってます」
本当に分かっているのだろうか……。
まったくそんな感じがしない……。
「ユーリくんの恋人、または配偶者になるにはどうすれば……ということでしたか」
「そうそう。まさにそれ」
リリー先輩は身を乗り出さんばかりに頷いた。
「それなら、まずユーリくんが何を求めているか、ということからお話しましょう。
ユーリくんは、内心では愛に飢えている人です。
愛に飢えているので、愛を与えてくれる存在を大切に思います。
そういう人たちを守るためなら、命も投げ出すでしょう。そういった情の深い男性です。
ですから、恋愛に対してドライな感じは受けるものの、それは表向きだけで、恋人や配偶者を必要としていないわけではありません。
愛情に対しては鈍感どころか、むしろ敏感で、愛情を注がれることに感激するタイプです。
男性にはそういう人が多い気がしますが、そういったタイプの人って、子供のころの家庭に問題があったりして、心に傷を負っていることが多いんですね。
酷いイジメを受けたり、とんでもなく寂しい思いをしたのに、誰も助けてくれない。救ってくれない状況がずうっと続いていた、というような。
それは世の中では珍しいことではありません。
特に青猫寮の男子学生などはそういった人が多いですよね。
でも、ユーリくんの前歴を調べると……これはシャムさんのほうが詳しいですよね。とても恵まれた……愛情に不足のない家庭のようです。
普通、そういった家庭に育った人というのは、愛情を与えるのも与えられるのも当たり前なので、必要以上に感動したりはしません。
愛情に飢えたことがないからです。それは空気のように自分をつつみこんできたものですから。
なので、そんな家庭からユーリくんのような性格の方が生まれたのは、とても不思議です。
イメージがしっくり来ないんですよね。
前世の記憶でもあって、トラウマを引きずってる……。
なんて設定も考えたこともあったんですが。
結局、謎は解けませんでした。
まあ、私の中のユーリくんは、こんなキャラですね」
怒涛の分析だった。
びっくりした。
当たらずといえども遠からずというか、的を射ている感じもなんとなくする。
すごい。
隣にいるリリー先輩を見ると、今の発言を忘れないようにか、遅ればせながらメモを取っている。
うわ、なんか占いにハマってるヤバい人みたいな感じするっ……。
しばらくしてメモを取り終えると、
「それで、その……女性像、というか、その、配偶者像は……?」
と切り出した。
「ああ、それは簡単です。最初の人です」
「最初の人?」
「性格を嫌悪しておらず、愛情を注いでくれて、自分も愛している人なら。まあ、誰でもいいってことはないんでしょうけど」
「いや、おかしなこと言っとるよ。ユーリくんが愛している人になるのが目的やんか」
もう隠そうともしていない……。
でも、言っていることは論理的だった。
ユーリが愛する人になるのが目的。
その通りだ。
「ユーリくんはたくさんの人を愛してますよ。シャムさん、ミャロさん、キャロルさん、そしてリリーさん、あなたのことも愛しているはずです」
「えっ……」
リリー先輩は愕然とした顔になった。
え、私も?
「これは浮気ということではないですよ。ユーリくんは強い意思と一般的な倫理観を持っています。性的関係になるのは一人だけでしょう」
「え? じゃあ最初の人は誰でもええんか?」
「シャムさんは妹的なポジションにいますから、不利かもしれませんが、そういうことです」
不利とか言われた。
「つまり、早いもの勝ちってことなん?」
「ありていに言えば」
あっそう。
ふーーーーん。
そんなわけない、とは思えない不思議な説得力があった。
早いもの勝ち。確かにそうかもしれない。
求めてくる人たち皆とえっちなことをしまくっていたら、皆が不幸になる。
だから最初の一人に限定する。
そういう理屈だろう。
いかにもユーリは考えそうだ。
でも、一人だけを選んだら不幸が最小化されて幸福が最大化されるのか。
一人だけを選んで、その人と専心的にえっちしてたら、他の人たちが「そっか、それじゃしょうがない」って納得して、不幸にならないのか。
そりゃ、他の人たちが「じゃ、別の男探そ」って思うくらいのらぶ度だったら、そういうことになるかもしれないけど。
実際はそうじゃないわけで。
私だったら、ユーリがリリー先輩とくっついて、ずっといちゃいちゃラブラブしてるのと、私とも浮気してくれるのだったら、浮気してくれたほうがたぶん幸福は高い。
こないだだって、ユーリは私を抱きしめてくれた。
それはリリー先輩だけハグして、私は放っておかれるよりはずっと幸せだった。
それなら、結局みんなと浮気しまくったほうがトータルの幸福度は高くなるんじゃないか。
「早いもの勝ち、か……」
リリー先輩はなにか呆けたような表情で言った。
その表情がなぜかちょっと怖い。
何を考えているにしろ、ろくでもなさそうだった。
「いえ、真に受けないでくださいね。私がそう思っているだけなので……」
「うん。ありがとな。参考になりました」
「たぶん、ぜんぜん的外れですからね。私は男の人と付き合ったこともないんですから」
「わかってるわかってる」
どうか分かっていてくれますように。
私には祈ることしか出来なかった。
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