第106話 交わす心
三キロくらいは歩けたろうか。
日が暮れ始めると、俺は力尽きたように座った。
「……今日はここで休もう」
頭からは血の気が引いている。
なぜか、首の根がズキズキと疼くように痛かった。
拾っておいた木枝をおざなりに組むと、ライターで火をつける。
そろそろライターの燃料も尽きる頃かな……。
「ふう……」
キャロルが杖に体重を預けながら、俺の横に座った。
焚き火が燃え盛るのを待ちながら、俺は荷物から地図を取り出した。
現在の位置を確かめ、指二本分動いたところに鉛筆で印をつけた。
大体は合っていると思うが、こんな大雑把なマーキングでは、ずれているのは否めないだろう。
若干北よりに進路を取り、ニッカ村そのものではなく、村に通じる道に出るのを目指すのが賢そうだ。
地図をしまった。
「今夜は豪勢だぞ。久々の肉だ」
「一週間ほど前に食べたような」
墜落から大きな石球を見た道までの間で、兎を一匹仕留めて食べた。
それのことだろう。
「あんな血抜きも碌にしてない肉じゃない」
前に森のなかで会ったジーノ・トガは、あれも血抜きをしてない腐りかけの肉を食べていたが、結局は俺も急いでいたら同じだった。
のんびりと下処理をしている余裕はなく、腹に入っちまえば同じとしか考えられなかった。
「上等のハムだぞ。塩まである」
恐らくは、部隊におけるご褒美的な要素として、リーダーのカンカーが管理していたものなのだろう。
燻製にした上焼き締められた豚かなにかのハムは、すでに半分になっている。
半分であっても、だいぶ食いでがありそうだ。
「ごちそうだな」
「ああ。さっそく焼こう」
俺は布でくるまれたハムを開き、ナイフでざっくりと縦に割った。
串に挿すと、一本をキャロルに渡す。
「ほら、パンもあるぞ」
「うん」
食に関しては、追手がかかってからのほうが楽というのは皮肉なところだ。
ざっくりと肉厚に切られた燻製ハムは、火にかざすと脂肪層がじゅくじゅくと泡立ち、焼け始めた。
更に回しながら、炭になる手前まで焼く。
よだれが垂れそうなほど良い臭いだ。
「パンに挟まりきるかな」
とキャロルが言った。
皿は持っていないので、パンが皿代わりになる。
串ごとかぶりついてもいいが。
「ちょっと持っていてくれ」
キャロルに串を渡して、自分はパンを用意する。
食パンのようなものではなく、保存を考えてか、ガッチガチに焼き締めた丸っこいフランスパンのようなものが、袋にゴロゴロと入っていた。
表面には、小麦粉の粉がこびりついている。
汚れても粉ごとはたき落として食べられるように、という工夫なのだろうか。
どちらにせよ、肉は入りきらなそうだが、挟めば関係ないだろう。
俺はナイフで八分目までパンを割って、二つに開いた。
それを二つ作る。
「できた」
「うん」
肉と交換して、パンで挟みながら串を抜く。
はみ出た肉にかぶりつくと、肉についた焦げ目と燻製の香りが、口の中に充満する。
体が欲しているのか、肉はあまりにも美味かった。
燻製の香りが移った油と肉汁が、甘露のように甘く感じる。
砕きの荒い岩塩のような塩をひとつまみし、ふりかけて食べると、体に足りていなかった養分が満たされたような、なんとも満足げな気分になった。
キャロルはどうだろう。
そう思ってキャロルの方を向くと、大口を開けてパンを頬張っていた。
こちらも、なんとも幸せそうに食っている。
顔がほころんでおる。
ただ、パンが硬いため、噛むのに苦労しているらしい。
もぐもぐと急いだ様子で口を動かし、ごくんと飲み込んだ。
俺がつぶさに見ているのに気づくと、
「ちょっと」
なぜか若干ドスの効いた声で言ってくる。
「ん?」
「そう見られると、は、恥ずかしいじゃないか」
「なにが?」
「ナイフとフォークがあるならともかく、お、大口をあけてかぶりついているところなど、見られたくない」
あー。
今更な気がするんだが。
「じゃあ、見ないでおく」
俺もじっと見られてたら嫌な気分……というほどではないが、所作には気をつけたくなるもんな。
「た、たのむぞ」
キャロルがそう返すと、俺は焚き火を見ながら、残りのパンを口に含んだ。
***
「美味しかったな」
キャロルは満足気に言った。
「満腹か?」
「うん」
パンが結構残ったな。
俺も胃が小さくなっているのか、満腹でこれ以上は入りそうにない。
「それじゃ、そろそろ寝るか」
「そうだな……その前に」
「ん?」
なんだ?
「ユーリ、ありがとうな」
なんか言ってきた。
「どうしたんだ急に?」
「いやさ、明日はニッカ村に着くんだろう?」
「まあ、予定ではな」
なんのかんので200km前後歩いてきた計算になるから、よっぽどずれている可能性もあるので、それほどの自信はないが。
「村では隊の連中や、助けの者が待っているかもしれないわけだろう?」
「そうだな。そういう可能性は十分ありそうだ」
俺はその可能性は低いと見ているが、低いといっても一割から三割くらいはあり得るかなと思っているので、期待は十分持てる。
俺が期待していないのは、端的に言えば、探索する側はキャロルの怪我という事情を知らないからだ。
その情報が未知であれば、連中はキャロルは無事である。と考えるだろう。
二人が徒歩で歩け、二人共が武術の訓練を積んでいるため、ある程度の困難は突破できる。という前提であれば、海沿いの道を踏破する。というのが一般的なルート選択になる。
なぜそう思うかといえば、同じように落下した俺が無事であることは、リャオが確認しているからだ。
ユーリ・ホウが無事だったのだから、キャロル・フル・シャルトルも無事であろう。
そう頭から決めつけるのは馬鹿のすることだが、判断の材料にはなるので、行動を予想するなら上位にくるだろう。
「そうなったらさ、すぐに助けられて、お前に礼をいう機会がなくなるかもしれないじゃないか」
「なくなるってこたぁないだろ」
別に永遠に離れ離れにされることもないだろうし。
「そうだけど、あとで改めてお礼を……なんてことになると、ちょっと空々そらぞらしくなるかもしれない。だから、今言っておきたかったのだ」
「そうか」
礼なんて言われる筋合いはない。などといって突っぱねるのも、この場合は失礼だろう。
素直に受け取ったほうがいい、ように感じる。
「そうだな。だけど、俺のほうも礼を言いたいくらいなんだけどな」
「なにをだ?」
「お前が生きていてくれていることをさ。前も言ったが、お前に死なれたら落ち込むどころじゃないからな」
「あのさ……これを聞いていいのか判らないが、途中で、その……私が死んでいたらよかったのに。とは思わなかったのか?」
なんだその質問は。
可笑しみが湧いてきて、思わず口がにやけた。
「そういう質問は、正直な答えは帰ってこないもんだぞ」
「……うん、そうだと思うけど。でも……そう思って当然だと思う」
やけに素直だな。
味方が待っていてくれている、と決めてかかっているわけではないだろうが、村が近づいて気がほぐれているのかもしれない。
「考えなかったな」
「そうなのか……なんでなのか、聞いていいか」
「なんでもなにも、そうだからとしか言いようがない」
「でも、普通はそう考えるものだと思う」
どうも納得出来ないらしい。
「なあ、お前にとって一番大切なものってなんだ」
「どうした、藪から棒に」
「まあ、答えてみろよ。話の流れだ」
「うーん……シヤルタ、になると思うけど」
国か。
サイズが大きいが、そういう場合もあるだろうな。
特にこいつの場合は、生まれが生まれだし。
「俺は、自分が一番大切だったんだ」
「普通は、そうだと思うけど」
「そうだな。人間は、誰でも自分が大事だ。まあ、もっといえば、自分の生命が……ってことになるんだろうが」
「うん。それは解る。私もできれば死にたくない」
「だが、自分が一番に大事という人生は、虚しい」
俺は、ここにくる前の人生がそうだったから、余計にそう思う。
「そうだろうか……?」
「自分がいちばん大事なら、一生自分を気にして終わりだ。だが、一番大事な自分より、さらに大事な何かが見つかれば……価値の無い人生も、少しは値打ちのあるものになる」
「うぅん……それがつまりは私を助けた理由なのか?」
「まあ、そうなるな」
「……難しいな」
「解らないなら、それで何の問題もない。他人の人生哲学なんてものは、頑張って理解するもんじゃないしな」
「その……じゃあ、おまえにとっては、私は、自分の命より大事ってことなのか?」
「そうじゃなかったら、死ぬほど苦労して助けたりはしない」
実際のところ、どうでもいい奴だったら、その場に放っておくということはないだろうが、穴を掘って食料をくれてやって、助けを待て。と言ったかもしれない。
「それは、私が王女だからじゃなくてか?」
「はあ?」
あまりにもな質問に、思わず素っ頓狂な声がでてしまった。
何を馬鹿みてぇなこと考えてやがる。
「あのなぁ……俺が王家に感謝されるために死ぬほど頑張るような人間だと思うか?」
「いや、思わない」
すぐに答えられるようなら聞くなよ。
折角いいシーンだったのに。
「そうかぁ。なるほどなぁ」
キャロルは、分かったのか分かっていないのか、どこかしみじみと言った。
「そろそろ寝るか。話すのは明日、村についてからでいいだろう」
「火は消すのか?」
「消したほうがいいな。一応撃退はしたから追ってこないとは思うが、寝首をかかれたら馬鹿らしい」
こういう時こそ、詰めが肝心なのだ。
「そうか。じゃ、崩すぞ」
キャロルは松葉杖の先で焚き火を叩いた。
そのまま突き崩すと、集まっていた焚き火が崩れる。
木枝に取り付いた炎はあかく燃えているが、そのうちに燠おきとなって、消えるだろう。
俺は立ち上がると、樹の幹に背を降ろした。
これで少なくとも背をとられる心配はないし、硬くはあるものの背を預けて眠れる。
いつものように油紙のポンチョを取り出すと、キャロルが近寄ってきた。
***
「なあ……」
キャロルが言う。
同じポンチョの中でくるまっていると、布越しに温かい体温を感じ、近くにある顔からはキャロルの息遣いが聞こえてくるようだった。
囁くような小さな声なのに、近いせいでよく聞こえる。
なにせ、キャロルの頭は、頬がくっつくほど近くにあるのだ。
「どうした?」
「聞いていいか?」
「なにをだよ」
まだ話をしたりないのか。
眠くはないからいいけど。
「あのさ……婚約者とかいるのか?」
「……はぁ?」
今日のこいつは本当に思いもかけないことを言ってくるな。
いつもはカチカチなくせに。
「いないけど……なんで?」
なんのつもりだ。
「じゃあ、交際している女の人は?」
「いない」
俺がそう答えると、キャロルはいきなり身をよじった。
足の上で身体を半分廻して、顔を俺に向けて横にする。
生温かい感触が、頬に触れた。
「ッ!?」
「んっ……」
そのまま二度三度と、頬にくちづけを繰り返す。
「おい……っ」
突き放すわけにもいかず、俺の声は、なんとなく戸惑っていた。
「……嫌か?」
キャロルは、耳元で囁くように言う。
「どうしたんだよ。お前らしくもない」
「先に答えてくれ。嫌だったか?」
キャロルの声は、浮ついた熱を持っていた。
艶めかしい。
「嫌……ではないけど」
「そうか」
そう言うと、キャロルはもう一度、俺の頬に口づけをした。
今度は、口の端にかかるほどの近さで、離すときに軽く舌で唇の端を舐めた。
「これが、私の気持ちだ」
「……俺も、そこまで鈍いわけではないけどな」
さすがに、俺もキャロルからの好意には気づいていた。
だが、それは、恋というよりは、入学したての頃の幼い敵意が、だんだんと変化し、興味を経て、好意的な関心に変わってきた……といったものだったように思う。
「助けてもらった感謝のつもりなら……」
「違うぞ。私は……私の生きたいように生きている。他人に迷惑をかけない範囲で……だから、確認をした」
さっきのが確認だったのか。
そら恋人や婚約者がいたら、こんなことをしたら気を悪くするわな。
「あとは、お前が嫌でないなら、ただ受け入れればいい」
「嫌じゃない」
「じゃあ……」
「だけど、俺は、責任を取れないことはしたくない」
「責任なんて、どうでもいい」
どうでもいいってこたーねえだろ。
「お前に口づけをし返したら、俺も男だ。その先も欲しくなる」
俺も一ヶ月近く抜いてないし、その上血なまぐさいことが続いて、気がたぎっている。
殺人には、暴力的な衝動が必要で、その衝動は一皮むけば、性衝動に繋がる。
俺もキャロルの前ではストイックの皮をかぶっているが、皮を剥がされれば、どうなってしまうかわからない。
「かまわない」
えっと。
「あのな、問題は、俺はお前の夫になる気は、今の所ないってことなんだ」
当たり前の話だけど。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか」
前もって答えを用意していたのか、キャロルの返答は素早かった。
どうでもいい?
「どうでもよくはないだろ」
「私は、責任をとって結婚してくれなんていわない。一夜の気の迷いと思って関係を絶ってくれても構わない。別の女と寝ても何も言わない」
身持ちの硬い、性に潔癖だったキャロルが、こんな台詞を言うとは。
キャロルの口から放たれるとは思えないようなセリフが、矢継ぎ早に放たれてくる。
「そういう問題じゃ……」
「そういう問題だよ。後々、お前に面倒をかけることなんてない。あとは、お前の心だけなんだ」
キャロルの意志は硬いようだった。
今のような状況でそんな心配をするのも滑稽だが、子どもとかできたらどうするつもりだ。
「俺は、お前を都合のいい女のように、ぞんざいに扱ったりはできん。さっきも言ったが、お前のことは大切に思ってるんだ」
俺がそう言うと、キャロルは少し思いあぐねたようだった。
だが、しばらくして、
「なあ……」
と、キャロルは続きを話した。
「お前は、私を助けたのは自分の都合だと言ったよな。なら、私が今これをするのも、私の都合なんだ。私は、今この時、お前と心を交わしたい。それだけのことなんだ。私とするのが嫌でないなら、どうかしてほしい。それが私の望みで、そうだな、つまり……」
キャロルは慎重に言葉を選んでいるようだった。
自分の想いを誤解なく伝えたいのだろう。
「このまま、お前がすり抜けていってしまうよりは、ぞんざいに扱ってくれたほうが、私はずっと嬉しいのだ」
想いのこもった言葉だった。
このような非常事態にあって、おかしくなっている部分もあるのだろうが、俺への想いは本物なのだろう。
それが伝わってくる。
酒に酔ったときの告白にも似て、元からの本心がなければ、こんなことをするはずはない。
俺はキャロルの体を両手で支え、唇を奪った。
唇を押し付けて、離すと、今度は両手が空いたキャロルが俺の首に腕を回し、唇を奪い返してきた。
「んっ……!」
興奮が高まり、体に熱が入り、脳髄が滾ってくる。
理性が薄まり、片手を離し、キャロルの胸に手を伸ばした。
手のひらを押し付け、揉むと、服の上からでも解る柔らかみが、更に興奮を加速させた。
「んっ……ふうっ、はぁ……はぁ……」
至近距離で乱れるキャロルの吐息も、桃色に変わっている。
お互いに求めている。
だが、俺は頭のなかの理性を総動員して、獣の欲求をおしとどめた。
「……今日は、この辺でやめとこう」
「っ……どうして?」
「お前、初めてだろ」
「もちろん。おまえは違うのか?」
「俺もそうだ」
こっちに来てから十八年もやってないんだから、初めてといってもまったく嘘ということにはならないだろう。
「お互い初めてというのは色々面倒がある。わざわざこんな、寒くて真っ暗な森のなかですることはない」
「温かいぞ」
確かに、お互い興奮で体に熱が入っているため、野外とは思えぬほどポカポカとしていた。
「温かくても、暗くちゃお前の体を気遣うどころじゃない。お互いに体も汚いし……悪いことずくめだ」
「うっ……臭ったか?」
まあ、多少は臭いはあるわな。
川に入っての水浴びも、そもそもキャロルは怪我をしてるし、俺の方も雪解けの氷のような水を体にうちつけるのは弊害の方が大きいと見て、やっていなかったし。
「それはお互い様だしいいけどな。とにかく、焦るこたぁない」
「んっ……むう~~っ」
キャロルはなんとも言えない唸り声を出した。
「わかった。今日は諦める」
キャロルは、俺の首から腕を離した。
体の向きを直し、俺の胸に再び背中を預けた。
一連の情事で、ポンチョは首の部分から少し破れてしまっていた。
これは予備があるからいいが……。
着ながらこんなことするもんじゃないな。
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