第95話 アンジェの憂鬱 前編*

 戦場に一人の少女が歩いていた。

 ゆるく波がかった髪をなびかせながら歩く彼女は、丸い耳をしている。


 ティレルメ神帝国の王位継承権保持者である、アンジェリカ・サクラメンタは、戦場にいた。


 戦場といっても、ここは後方に位置する後詰めの陣地である。

 数百名の手勢を率いながら、アンジェリカは陣地の警護を担当している。

 後詰めの守りといえば響きはいいが、実際はなんの活躍もさせてもらえない閑職であった。


「ふう……」


 自ら精鋭と称し、常から訓練させている手勢を、退屈といわざるをえない警備の任務に着かせている。

 まだ朝だというのに、もうやることがなくなってしまった。


 それもそのはず、本陣と言っても、ここは既に撤収が始まっている、名ばかりの本陣なのだ。

 三日前の会戦において、アンジェリカの属す十字連合軍は、長耳の連合軍を打ち破った。


 そのもう片方の人類は、イイスス教の世界では悪魔と呼ばれている。

 だが、アンジェリカは亡き父の言いつけを守り、頑なに長耳と呼んでいた。


 その長耳の連合軍は、すでに敗退し、こちら側の軍団は前進している。

 その前進は追討戦も兼ねているので、軍団は全速をあげて追っていると言ってよく、また生き残った傭兵の連中も周辺村落の略奪に忙しいので、とても陣営の移動を待ってはいられない。


 なので、各国は将官用の簡易天幕と、当日必要な食料のみを、馬を総動員して運んでいる最中であった。

 つまり、もう終わった決戦に挑むための野営陣地は、今まさに解体されつつあり、有力な軍団は前進してしまって居ない。ということになる。


 決戦にも参加させてもらえず、警護を押し付けられたアンジェリカは、いい面の皮であった。

 せっかく戦争に来たというのに、戦働きもできなければ、略奪の恩恵にも預かれない。


「それでは、供回りの当番はついてこい。今日も教皇領のところに視察にいくぞ」

「ハッ! アンジェ様」


 と、騎士の一人が跪く。


 ここには有力な軍団もおらず、女を見れば厄介事ばかり起こす傭兵たちも、負傷にあえいでいる者ども以外は一人も居ない。

 ならば一人で出歩いてもよさそうなものだが、そういうわけにもいかなかった。


 アンジェリカは、兄であるアルフレッド・サクラメンタから暗殺されようとしていた。

 毒を盛られたことも、一度や二度ではない。

 なので、護衛は常につけておかなければならないのである。



 ***



 アンジェリカは、父であり前王でもあるレーニツヒト・サクラメンタに溺愛され、王が執務に忙殺されていた時期に育った兄たちと違い、前王直々の教育を授けられた。


 その父の死後起こった熾烈な後継者争いの結果、アンジェリカの四人いた兄弟は、アルフレッドを残して全員死んでしまった。


 そして、三男であるアルフレッドが王座に座った。


 四人の兄弟のうち、当初、実はアルフレッドには王位継承の芽はないと思われていた。

 レーニツヒトが死んだ当時、アルフレッドは未だ一八歳の若者であったからである。


 王という重責を担うには、その年齢は幼児と言ってよく、対して兄二人は31歳と28歳という年齢であり、大方の予想では、そちらが有望とされた。

 兄二人は既に封土を与えられており、自ら率いる騎士団と、徴税から得た資金も十分に持っていた。

 その点でアルフレッドは、王の遺領の管理者ということで、暫定的に小さな領主にはなっていたが、なにも解らぬ状態から領地経営の勉強を始めなければならず、あらゆる意味で二人の兄に水を開けられていた。


 だが、前王の死から七年後、長男と次男の熾烈な権力争いの結果、長男が暗殺されるという事件が起こる。

 表向き、極めて賢明な大諸侯が次の王の資質を判断するための期間、とされている王の不在期間において、跡目候補同士の暗殺は、ご法度とされていた。


 そうでなければ、まっさかさまに暴力的な内乱になってしまうし、そもそも選帝侯が得る旨味というのは、王座を狙うものたちが右往左往しながら選帝侯のご機嫌取りをする間に得られるものであるから、殺し合いになれば選帝侯にとっても損になる。


 暗殺事件の結果、次男は兄殺しの評判が立ち、権威が失墜する。

 暗殺の証拠はなかったが、長男の親衛隊が次男の領を報復的に攻め、玉砕したことで、世間的には次男の仕業だったという説が一般的になっていた。


 アルフレッドは、そこでようやく立ち上がると、選帝侯に接触した。

 七年の間に、政争に加わるに不足ない経験を得たと感じたのか、それとも暫定領地からの税収が安定し、最低限必要な財力が得られたからか……。


 結果、アルフレッドは、次兄からの暗殺を避けつつ、王家領を担保にして借金をし、それを選帝侯への賄賂として大盤振る舞いに使う。という方法で、選挙での票を取り付けた。


 それは実質的に王家の財産を切り崩す行為なので、王家を一つの家とみなせば、家に対しての背信行為と言ってよかった。

 アンジェリカは当然それに憤慨したが、アルフレッドからしてみれば、負けて次男が王になれば、暗殺されることは避けられぬので、死にものぐるいであった。


 アルフレッドは、戴冠式が終わると、次兄を暗殺し、つぎに弟である四男を暗殺した。


 アンジェリカも一度ならず暗殺されかけたが、難を逃れている。

 十年に及んだ後継者争いのさなか、アンジェリカは幼いながらに自ら高名な学者を家庭教師として招き、知識をつけていた。

 そうしながらも、他人任せにせず、自分の担当となった暫定領地を掌握するのに力を傾け続けた。


 その結果、アンジェリカは十八歳という若さにありながら、アルフレッドが王になってからも、強権で奪うことが難しいほどに強固な地盤を、己の領地に持つことに成功した。


 己の城の隅々まで注意を張り巡らせているため、城にいる限りは毒を盛られる心配はなく、また暗殺団が領内に侵入すれば、たちまちに知れる。

 そういった体制を作ることで、アンジェリカは身を守っていた。



 ***



「……ウーン」


 アンジェリカは、粗末な椅子に座って、首をひねっている。


 目の前には、広い範囲に灰と炭ばかりがある。


 三日前、ここで盛大な火事が起こり、一帯の陣幕が全て焼失してしまったのであった。

 ここは城や町の中ではなく、一週間後には野原が残るだけなので、誰も焼け跡を片付けようとはしていない。

 すべてが終わった後は、草原の中にぽっかりと黒い焼け跡が残るだけとなるのだろう。


 ここは、カソリカ教皇領の陣地であって、ティレルメ神帝国とはほとんど関係がない場所だった。

 もちろん、戦場では肩を並べて戦ったのだから、一蓮托生という意味では関係がある。


 しかし、もう決定的な会戦には勝利してしまったのだから、この被害が自国に及ぼす影響は、ないといってもよかった。


 だが、その方法については興味がつきない。


(なにかの獣の油でも使ったのか……? それとも、オリーブ油などに何かを足せば発火するようになるのか?)


 火攻めというのは、戦争において非常に重要な意味を持つ。


 だが、油というのはそう簡単に発火するものではなく、城での防御戦などで、煮えた油などを敵兵にかぶせたり火矢を射かけたりする方法で使うことはあるが、野戦では油の使い道はない。

 火攻めは乾いた時期の草原などの土地環境を利用するものであって、積極的に地面に油を撒いて焼いたりするものではない。


 同じような兵器に、火薬玉、あるいは擲弾というものがある。

 これは火薬と鉄片の入った陶の容器に導火線がついているもので、実際に使用されてもいるが、かなり不便があり、案外使いにくいものであった。


 ただの火薬玉であるから、導火線に火をつけたあと、とうぜん敵陣に投げ込みにいく必要がある。

 まずそこで、手での投擲より射程の長い弓や弩、そして鉄砲に打たれ、倒れる危険がある。


 また、導火線が短すぎ、空中で爆発したりすることもあるし、手に持ったまま爆発することもある。

 そして、敵陣の中に肝の座った者がいれば、導火線がまだ長い場合、拾って投げ返される場合もある。

 確かに強力な兵器ではあるものの、欠点を上げればきりがない。


 長耳が使ったのも、実際はそのような兵器だったのかもしれない。

 しかし、騒動を見たものは、空からなにかが連続的に落ちてきたと思ったら、炎が燃え広がった。と口をそろえていっている。


 投擲火薬玉であれば、そのような表現になるのはおかしい。

 轟音を伴って爆発した、という表現が抜けている。


 ここ教皇領の荷物積載地では、長耳の鷲が何かを投下したあと、火薬に燃え移って爆発し、それが原因でこのような有様になった。

 だが、その前に標的にされたペニンスラとフリューシャの合同積載地では、火薬は別途に保管していたので、被害は最小限で済んだ。


 いくら水気に強い樽に入れてあるとはいえ、湿気やすい火薬を雨で濡れかねない外に積んでおいたというのは、いかにも教皇領らしいが……。


 それはともかく、大きな火薬玉を使ったのであれば、燃えるだけというのはおかしい。

 爆発してから、燃える。という順序になるはずだ。


 やはり、容易に火のつく可燃性のなにかを降らせたのだろう。

 これも、若干証言とは食い違うが、空中で分裂する火のついた松明のようなものでも投げたのかも……。


「おまえら、何か思いついたことはあるか」


 と、アンジェリカは顔を向けずに、つぶやくように周囲の者に聞いた。

 きちんとした答えを求めていたわけではない。

 なんとなく、他人の意見を知りたかっただけである。


「アンジェリカ様」


 しかし、手をあげる騎士があった。


「おい」

「あっ」


 アンジェリカはその騎士を睨んだ。


「私の事はアンジェと呼べと、何度も何度も言っているだろう。お前らはなんべん言ったら解る」

「す、すみません……アンジェ様」


 騎士は、慌てて言い直した。


 アンジェリカは、いつになったらこの呼び方は浸透するのか……と、頭を抱えたくなった。

 もう八年も言い続けているのに、自分の兵にすら浸透しない。


 アンジェリカが部下などにアンジェと呼ばせているのは、別に気安く愛称で呼んで欲しいわけではない。

 単純に、アンジェリカなどという可愛らしい響きの自分の名前が嫌いだからだ。


 父であるレーニツヒトは自分をアンジェと呼んでいたし、自分もその呼び名が好きなのだ。

 アンジェのほうが短くて言いやすいし、キリッと引き締まった感じがしてよい。

 アンジェリカは女々しくて惰弱な感じがする。


 つまりは改名をした時のように呼び方を変えてくれ、という意味で言っているわけであって、領主であり主人である自分を愛称で呼んでくれ、などという無茶な要望をしているわけではない。

 アンジェと呼ぶのに、なんの気兼ねも必要ないのだ。

 もちろん、愛称と違って気安く呼んでいいわけではないから、実際には様とか殿下とか敬称をつける必要がある。


 だが、兵や下仕えの者共は、どうしても愛称のように感じてしまうらしく、アンジェ様、或いはアンジェ殿下、とはよびたがらない。

 当人がいない所では「アンジェリカ様がなんたら」と言っているために、当人を前にしても口を滑らすわけだ。


「ふーっ、まあよい。発言してみろ」


 アンジェリカは発言を許した。


「はい。昨日、酒を飲んでいる時に思ったのですが、酒精を使ったのではと……」

「あっ」


 アンジェリカは思わず声を漏らしてしまった。


 その手があった。

 アンジェリカは、未だ酒は嗜まないが、きつい匂いのする蒸留酒の中には、火をつければ容易に燃えるものがあるのを知っている。

 それを使ったのかもしれない。


 ありそうな感じだ。


「よくやった。確かにそれはありそうだ」

「ハッ」

「よし。帰ってみたら、早速検討してみよう」


 とは言ったものの、よくよく考えてみると、どうも疑問であった。


 油ならばともかく、酒に酒精が含まれているといっても、半分以上は水なのではないか?


 料理などで、良く焼けた鍋の上に酒などをふりかけて、燃やすのは見たことがあるが、火をつけた酒瓶ごと投げつけて燃えるようなものなのだろうか……。


「……ところで、逃げた長耳が捕まったという話はないのか?」

 そう言うと、

「ありませぬ。トカゲ乗りのほうも未だ帰っておらぬとか」

 という答えが、別の騎士から帰ってきた。


 これをやった鷲乗りの長耳は、今回特別に着いてきていた竜騎士ドラゴンライダーに墜とされた。


 竜騎士というのは、本来はイイスス教にとって敵性の宗教であるココルル教が持つ兵種であり、イイスス教圏においては、ドラゴンという存在自体が忌み嫌われている。

 だが、時折イイスス教国家においても、彼らが現れることがある。


 今回ついてきた竜騎士は、エンターク竜王国の王権争いで負けた側についていた者で、一種の亡命者であったらしい。

 自分の竜を見世物のようにして、ペニンスラ王国で生計を立てていたと聞くが、教皇領に大金を積まれると、北方まで出稼ぎにきた。


 それはいいのだが、彼が打ち墜とした鷲は二羽で、その片方に騎乗していた一人の長耳は、死体で見つかっている。

 もう一人は逃亡し、追手がかかっているという。


 不可解なのは、同時に逃げた竜騎士が、未だに出頭してこないことだ。

 話では、賞金目当てにもう一人の長耳を追っているのだ。という理屈になっているらしいが、アンジェリカの感覚では、それは理屈になっていない。


 確かに片耳を持ち帰れば小遣い程度の金を支給されるが、竜騎士は既に多額の前金を得ている。

 また、立派に仕事をこなしたのだから、残りの金も教皇領から貰えるだろう。


 その金と比べれば、耳を持ち帰って得られる金などは、小銭のような金にしかならない。


 大金を目の前にして、はした金を求めて森に入り、武器を持った長耳を追う……などということが、果たしてあるのだろうか?

 落下の衝撃で長耳が半死半生の体になっていて、少し追えば殺せる、という状況だったと想定すれば、ありえなくはないが、そうであれば三日も帰ってこないのはおかしい。


 ともかく、もう一人の長耳は、作戦に従事していたはずであるので、そいつを捕らえられれば、この新兵器がなんなのかを聞き出せるはずであった。


「ふむ……それでは、関係者に捜査の進展を聞くとしよう。捜索をやっている担当者はどこにいるのだ?」


 すると、各陣営間の連絡員をしている騎士の一人が手を上げた。


「私が知っております。ついてきてください」

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