チョコレートカルテット
将平(或いは、夢羽)
第1話 年上の貴方に、飛びっきり甘いミルクチョコレート
男は四十から!
なんて言うと、いつも彼女は苦笑する。
「あんた、ほんと、ずっとそうよね」
電話口でも分かる、諦めにも似たような声音。
私は少しむくれて「そっちこそ」と返す。
「花のように花憐で、黒髪ボブで妹キャラの、可愛い女の子は掴まったわけ?」
「………」
暫しの沈黙。
あ、言い過ぎたかな。と少し慌てた。
彼女は自分が同性愛者であることをちょっとも引け目に感じていなかった…ように思うので、つい、強気な反論をしてしまった。
「……ん、ふふふふ!よくぞっ!聞いてくれましたっ!」
「えっ?!あ!幸せかよ!電話切るわ」
「えっ?!待って!待って!聞いてよぉう!!」
二人して笑い、改めて、「出逢えたんだね」と祝福の言葉を告げる。
「いや、んー。まだ、私の片想いなんだけどね。ほんと、可愛いの。今度、一緒にカフェ行くんだぁ」
「へー。良いじゃん。幸せだねぇ~」
「えっへへ!お陰様で!」
まぁ、相手が私を好きになってくれる可能性なんて、ほんの数パーセントもあるかどうかわからないけど、と少し自虐的に笑うので、「そんなの、私も」と言葉を紡いだ。
「そんなの、私もだよ。こっちなんて、子供がいるんだよ?大学生の。どう思う?」
「…………不倫は良くないと思う」
「いやいやいや!シンパパだからッ!」
加藤英和。
五十四歳。シングルファザー。大学生になった息子が一人居る。
私の席の、目の前に座る同じ部署の大先輩。
出世コースからは外れてしまって、平社員。でも、その若々しい顔立ちから、部長よりも少し年上だったなんて事実は最近知った。部長だって、若く見えて他部署にも人気のイケメンなのに。
「加藤さん、今、部長にタメ口じゃありませんでした?!」
「あー、俺の方が年上だもん」
「えっ?!そうなんですか?!」
見えませんね!とお世辞では無く言いながら、「だもん」なんて可愛過ぎか…?!と一人、頭の中で興奮した。
この会社に新卒で入社して、もうすぐ三年目になる。
新入社員の私に部署の仕事を教えてくれたのは、加藤さんだ。
「世話役」と、任されたわけではなかった。黙っていればちょっとイカツイ感じの、このおじちゃんは、見た目に反してとても面倒見がいい。
なんで奥さんはこんな素敵な人と別れたんだろう?と思ったのは、大体仕事を覚えてきた、一昨年の秋頃で。
奥さんとは死別だと知ったのは、同じ年の忘年会の時。
この気持ちにはっきりと気が付いたのは、去年の冬。つい、最近だ。
私と加藤さんは、『私がうたた寝していたら加藤さんが起こす』『加藤さんの愚痴は、私が聞く』みたいな関係になっていて、それがとてもこそばゆい。
滅多にないが、加藤さんが有給でお休みをする時は、一日はとてもつまらない。無味乾燥。そんな言葉が浮かぶ。
「山梨さん。ちょっと、頼みたいことがあるんだけど」
「あっ、はい!何でしょうか?」
我が部署の長はいつも、部下に用事があれば自席を離れてこちらまでやってくる。隣の部署の、昭和の香りをしっかりと残した部長とは天と地との差だな、といつも思う。部長には、もうすぐ中学生になるお子さんがいるらしい。
物腰柔らかくて、イケメン。
だけど、好きになったのは加藤さんの方だった。
既婚者にはときめかない大変都合の良いストライクゾーンを持っているのではなくて、部長は口数が少なくて、話す時はいつも緊張してしまう。ので。…少しだけ、苦手なのだ。
加藤さんはいつも、あっけらかんと私と話してくれるので、実は甘えたがりで口下手な私はとても助けられたのだ。
次の部長会までに統計資料を作成するように頼まれ、俄然、やる気になった。
仕事をしている時間が、私は好きだ。
誰かに頼まれる仕事程、自分の存在価値を確認できて好きだった。私、必要とされているのかなぁ、少しは。そう思える。
「お仕事頂いちゃいましたっ」
「おー。良かったじゃねぇか」
「えっへへ」
ほんと、働き者だよなお前、と言われて笑顔を返す。
「加藤さんも!お手伝いできることがあったら言ってくださいねっ」
ありがとう、と笑う。
作業着を腕捲りして、筋肉質な逞しい腕が覗いていた。加藤さんは出荷業務担当だ。…ひょろひょろの私では、手伝えることなんて微々たるものかもしれない。私の勤める会社で言う出荷は、フォークリフトや天井クレーンの操作も必要になってくるので。
はぁ、逞しい腕だな…。
また一つ、加藤さんに萌えながら、私は黙々とExcelで統計をまとめ、資料を作成していく。
「はぁー。はりきり過ぎたなぁ~!」
会社を出ると、もう外は真っ暗だった。
暦の上では立春を過ぎ、日中は少し暖かい日もあるが、まだ朝晩は冷える。
すっかりシャッターが閉まり、閑散とした商店街の中を歩く。一本隣の方が飲み屋街で明るく、人も多いだろうが、会社からはこちらの商店街の方が近かったので敢えてそちらを歩いたりはしない。
『2.14 バレンタインデー』。
茶色のハートがでかでかと印刷されたポスターは、そこかしこに貼られていて、「ああ、そういえば」と思い出す。もうすぐだったな。バレンタインデー。
部署内唯一の女性社員である私は、去年、部署内限定で男性社員にチョコを配った。今年も例年通り、他部署の女性社員も部署内の男性にチョコレートを用意するだろう。
今年はバレンタインが日曜日だから、前倒して、金曜日には用意する必要がある。
去年はそんなに意識していなかったが、内、一つが本命なのだと言うことに。とてもドキドキと心臓が高鳴った。
それとなく、さりげなく、渡せるのだ。合法に。…いや、どんなチョコだって合法だけれども。本命のバレンタインチョコを…。
そんな時、後ろで足音が聞こえた。
すっかり活気の無い静寂のシャッター街で、私以外の足音を聞くことは、ほぼ無い。
こんな時間には、尚更だ。
(えっ……)
フラッシュバッグするのは、小学高学年の頃。
放課後友達と遊んで、すっかり日が暮れた夕方に一人で帰った。
今でも実家に帰る時には車で通る道で、いきなり、口を塞がれてお尻を触られた。
………あの時は、たまたま近所に犬を飼っている家があって、その犬が吠えて助けてくれた。
しかし、今は、まさか野良犬すら居ないであろう、シャッター街。
点々と灯る頼り無い明かりしかない。
無用心と言えば、無用心だった。
小柄な私は、特に狙いやすいのかもしれない。その後も、痴漢行為には何回か被害にあったことがある。
(………こわい、)
立ち竦みそうになるのを、なんとか足を動かして前に進んだ。
足音は、ゆっくり、でも確かに、後ろを着いてきている。わざとゆっくり歩いてみても、絶対に私を抜いて行ったりしない。
(…ついてきてる…!)
確信した。
震えそうになる全身を、悟られてはいけないと気丈に歩き続けた。少し、早歩きになる。
(もう少し………。もう少しで、大通り…!)
駆け出してしまうと、それが刺激になるのが怖くて。
走り出したい気持ちを抑えて、早歩きで進む。
「おいっ!」
「きゃッ、」
いきなり肩を掴まれて、つい、短い悲鳴をあげる。全身が硬直して、咄嗟に身構えた。
「…大丈夫か?」
え、
聞き慣れた声であることに気が付いて、視界を塞いでいた自分の腕を避ける。
「………かとう、さん……」
ドッドッド、と脈打つ鼓動が、少しずつ落ち着く。止めていた息を吐いた。
「……今、誰か、後ろに居ませんでした…?」
まさか、加藤さんが追いかけていたの?と思ったけれど、それならもっと早くに声をかけてくれていたはず。
「………なんか、つけられてるみたいだったな…」
「……つけられてる…」
私はまた全身から血の気が引いたのがわかった。
意識して止めていた体の震えを、もう誤魔化せない。
「………」
それでも、溢れる涙はなんとか溢さない。
「……あー…、家まで…は、まずいかな…。えーと…、山梨さん、晩御飯まだだろ?良かったら、食べて帰らんか?」
「え、」
涙を必死に堪える私を見てはいけないと思ったのだろう。加藤さんは引き留める為に掴んだ肩を離して、そっぽ向く。今の内に、涙を拭った。
「……いいんですか?加藤さん、息子さんが…」
「いやいや!言って、大学生だから。待ってるとか無いし。…奢るけど?」
「奢りなら行きます」
まるでタダ飯が目当てのように顔を綻ばせれば、やっと加藤さんもほっとして笑った。
「現金なやつ!」
「えっへへ!」
家まで送ろうか?と言いかけて、ご飯に誘ってくれた気遣いが嬉しい。
一人暮らしであることを覚えてくれていたのだろう。流石に、そんな女性社員のアパートに行くのは悪いと考えたのだろう。何処かに逃げた、後ろをつけていた不審者がまだどこで見ているかともわからない。
案内されたのは、行きつけだという居酒屋だ。
会社の近くでも、普段寄り道せずにアパートへ帰るので、飲食店が軒を連ねる光景も、目新しいもので何だか胸がワクワクした。
「おっ!お疲れー!何、その可愛い子は?」
店の店主とおぼしき男性が、加藤さんを見て笑顔を見せる。「いらっしゃい」じゃなくて、「お疲れ」なのが良いなって思った。
「会社の後輩だよ。おっちゃん、取り敢えず生。……山梨さんは、ウーロン茶?」
「あっ、わ、私も生で!」
「取り敢えず、生!」。
良い言葉だな、と思う。大人って感じ。居酒屋って感じ。
平日の夜だというのに、お客さんがそこそこ入っている。店主のアットホームな雰囲気が良くて、皆、居心地が良くて集まっているのがわかる。
定位置があるのだろう、加藤さんは一切の迷い無くカウンター席に座る。私もそれに倣って、隣に腰掛けた。
長い一本の木で出来たカウンターは、木目が綺麗でホッとする。ガヤガヤと口々に、常連さん同士が話して、そこに時々店主が混じる。
この空間に自分がいることが、なんだか嬉しいと思った。
「……このお店、加藤さんの行きつけなんだって、凄くよくわかります」
お店全体の雰囲気と加藤さんの雰囲気が、重なる。
「私、ここ、めっちゃ好きです」
想いを込めて言ったけど、加藤さんは勿論、それには気が付かずに、だけど嬉しいそうに笑った。
「だろ?俺も好き」
「……」
勿論、その「好き」は自分に向けられた言葉ではないことはわかっているが、つい赤面して俯いてしまった。
ビールが来ると、お疲れ様の乾杯をして、適当に注文した料理をつつきながら色んな話をした。仕事の話が主だったけど、趣味の話とか、あと、加藤さんの息子さんの話も聞いたりした。
先程の怖い経験なんてすっかり忘れて、喜びと緊張で、いつの間にやら、もうビールも三杯目になっていた。
ずっとビールじゃん、なんて笑われて、じゃあ熱燗でも頼みますか?と、本当に注文してしまうくらいには酔っていた。
「……加藤さんて、甘いもの食べますっけ?」
そうだ。チョコレートが苦手じゃないか聞いておかなくちゃと、脈絡もなく聞いた。
「食べる食べる!チョコとか、めっちゃ好きやぞ」
「……やっぱ、ビターですか?カカオ80とか?」
「いやいや。チョコレートは甘いのが好きでなぁ。バリバリのミルクチョコ」
えっ!可愛い!
頭の中で叫んだはずが、その言葉は私の鼓膜を打った。あらま、口から出ていたわ。
「……可愛いだろ?」
加藤さんは苦笑した。
その照れを誤魔化すように眉を寄せた顔がまた、少し可愛くて。もう、今更引っ込みもきかないかなぁと、変に腹を括る自分がいた。
「じゃあ。バレンタインに、私がチョコレート渡したら、受け取ってくれます?」
「え、くれるの?そりゃ、喜んで貰うけど?」
いまいち伝わってないな、と、「そういうのじゃないですよ」と、意味を正す。
「違くて。本命です。本命」
「………は?」
あっ、やばい。
酔い過ぎてる。
でも、もう遅い。
まぁ、いっか。と、思った。
「私、好きなんです。加藤さんの事が」
「えっ……」
しーん。と。
それまでの賑わいがまるで幻だったかのように、静まり返った。
あ、やばい。また思った。
今度は、スーッと酔いが冷めてゆく。
「あ、あの、嘘じゃないです。ずっと、好きでした……その、迷惑じゃなければ、一度、考えてください……」
「…え、いや、…好きって……」
三十くらい年の差があるだろう。
俺には息子が居るんだぞ。
ありとあらゆる、言葉にしない言葉が浮かんだが、結局、加藤さんはそのどの台詞も口にすること無く、絶句したままの口をパクパクとさせて、閉じた。
「…あ、突然、すみません。あの、ご馳走さまでした…!もう、帰ります!」
席を立ち、店を出る時にまた、「すみません!」と頭を下げた。楽しく飲んでいた皆さんに。沈黙を与えてしまったので。
ああ、暴走してしまった。
私は走って、アパートへ帰宅した。
次の日。
どんな顔をして話せば良いんだ。会えば良いんだ。いっそ…休んでしまいたい…。
そんなことをぐるぐると考えて、あんまり眠れなかったと言うのに。
当の加藤さんはケロッとした顔をして、私にいつもと変わらない挨拶をした。
「山梨さん、おはよう」
「……………おはようございます…」
あれ?昨日のことってもしかして夢だったのかな…?
「…昨日は、ちゃんと無事に帰れたか?」
「…ああ、はい。すみません。ありがとうございました。ご馳走様でした…」
夢じゃない。
と、なると、はぐらかされているのか?本気にされていないのか?私は、じわじわと自分の中で沸き上がる怒りを感じた。
「あのっ!」
流石に、昨日のような沈黙を職場で起こすのは気まず過ぎて退職願いを書く未来が見えたので、加藤さんが出荷業務の為に倉庫に籠ったところを襲撃することにした。
「ん?どうした?」
何食わぬ顔で訊く。
作業する手を止めてくれるところには、きゅんとしながらも。
私は、「私、怒ってます!」という態度を崩さずに、言おう言おうと思っていた言葉を告げる。
「私、本気ですから…!」
「………」
「本当の本当に、好きなんです!」
「……」
加藤さんは困った顔をして、うーん、と唸った。
「……俺さぁ、五十四歳なんだよね」
「知ってます」
「……大学生の息子が居てさ、」
「知ってます」
「………結婚経験、あるんだよね…」
「それが、どうかしましたか?」
私の意思の籠った目を見て、加藤さんはとても驚いた顔をした。
「気持ちは、」
「先程のことを断る為の理由にするのなら、納得行きません。もっと真剣に、私のことを考えて下さい」
気持ちは嬉しいけど、なんて枕詞で、この告白を拒絶させたりなんてしてやらないぞ!と思った。
私は、意外と打たれ強い。
生粋の、オジ専なのだ。
舐めるなよ。
今までの恋愛遍歴は、ちょっとやそっとじゃ語れない。私は、見た目に反して逞しいのだ。
「……」
遂に、困って後ろ手で頭を掻いた。
加藤さんを困らせたいわけではなかったが、私のことを考えているせいだと思えば、やっぱり嬉しい。
ごめんなさい、こんなめんどくさい女が、貴方を好きになって。
「………年の差なんて。大したことでは無いです。恋愛って、感情でするもんじゃないですか?…私、加藤さんの傍に居たいなぁと思ったんです。出勤前も。退勤後も。休日も…」
「……」
「……好きなんです…」
「……はぁ、」
溜め息を吐かれて、流石に少し、傷付くところがあった。でも、めげない。折れない。諦めない。
「……十二日、本命チョコを渡すので。受け取れないと思ったら、断って下さい」
私はそう言い残し、倉庫を後にした。
そして、バレンタイン前の最後の出勤日である二月十二日。
私は、相当気合いを入れて出勤した。
はい。いつもは時間がかかるのでしませんが、今日は髪の毛を巻きました。
好きな香りのボディーローションを塗って、お化粧も念入りに致しました。
若さ!可愛さ!!あどけなさ!!!
全てを武器にしようと思って。
新しいパンプスを履いて、足元から気分を盛り上げた。
「ぃよしっ!」
普段は塗らないリップグロスを塗った。
気合い入れ過ぎ!…と口に出してからかってくるような、気安く話が出来る社員は加藤さんだけなので、誰からも指摘はされないだろう。…皆、思うとは思うけど。
部署に渡す分のチョコレートは一つの大きな紙袋にまとめ、加藤さんのだけ別の紙袋に入れた。
中は勿論、とびっきり甘いミルクチョコレート。
朝礼後、席に着く部署の皆さんに、部長から順番にチョコを渡した。
加藤さんの席には行かなかったことに、何人の社員が気が付いただろう?と思う。
その日の業務を滞りなく終わらせ、終礼後、事務所内に人がまばらになってからやっと加藤さんに声をかける。
「加藤さん!」
今日一日、気が気でなかっただろう加藤さんは、苦い顔をしてこちらを振り返った。
大丈夫ですよ、と心の中で言ってやる。流石に私も、断り辛い社内で、本命チョコだと言った上で本命なんて渡さない。
「ちょっと相談したいことがあって…。今日、良かったら飲みに行きませんか?」
断っても良いんですよ?と、心の中で少しだけ挑発的に思う自分がいた。
「いいぞ」と言われたら、やっぱり、期待してしまう。逃げても良いんですよ?と、思った。
「…………いいぞ。俺も、話したいことがある…」
「………」
腹を括ったような真剣な顔をして言われ、私はつい返事が出来なかった。
「…これだけメールさせて。すぐ、片付けるから」
「…あ、ありがとうございます。わかりました」
今更。
心臓が太鼓のように胸を打つ。
汗が出てきて、バレないように深呼吸をした。
トイレで化粧直しなどをしている間に、加藤さんは鞄の準備をしていた。
「じゃ、行くか」
「…はい」
そう言って先を行く加藤さんと、その二歩後ろを歩いている私の姿以外、事務所にはまだ数人の人がおり、「もしかしたら噂になってしまうかもしれないな」と少し、申し訳なく思った。
飲みに行く。
…前に。
人通りの少ない道で、加藤さんは私を振り返った。
「…ごめん。それは、受け取れない」
「……」
「…山梨さんを、そういう風に見たことがない」
「……ですよね」
鞄と一緒に持っていたシックな紙袋に目をやる。
可哀想なチョコレートだ。きっと、紙袋の中で泣いている。私が、本命だと先に告げてしまったから、受け取って貰えなかった。
折角、生まれてきたのにね。
「…………すみません。あんなことを言ってしまったけど、やっぱり、加藤さんのことを想って選んだんで。せめて、チョコだけでも受け取って貰えませんか?」
「……」
ごめんね、ミルクチョコレート。君に、罪はないのだよ。
私は紙袋を加藤さんの前に突き出した。
「チョコレートには、罪はないので」
「………ありがとう」
加藤さんは長く思案していたが、やがて、しっかりとその紙袋を受け取ってくれた。
自然と、笑みが溢れた。勿論、笑ったのは私。
加藤さんはずっと、眉間にシワを寄せて難しい顔をしている。
うん、そんな顔も素敵。
「………加藤さん、私のこと、好きですか?」
「…え、」
「異性としてじゃなくて、訊いてます」
「……嫌いじゃないけど、」
ふふ、と笑う。
こういう時は、嫌いじゃなくても「嫌い」と答えるべきなのだ。
「じゃあ、これからも、毎年バレンタインにはミルクチョコレートを用意して待っておきますね」
加藤さんはますます眉間のシワを深めた。
「…いつか、私のこと、『そんな風に』見て下さい」
そういうなり、踵を返した。
まさかこれから、二人で居酒屋など行けたものではない。
「また、月曜日!」
なるべく明るく言った。
それから、わりと、数ヵ月後の出来事になりますが。
私達は、二人で加藤さんの行きつけの、例の居酒屋に行く事になった。
「お疲れー!あ、何?付き合うことになったのかい?」
加藤さんと私が店に入るのを見て、店主がからかって声をかける。
加藤さんには秘密にしていたが、実はあの告白の後、私も一人でこの居酒屋に通って『行きつけ』にしていた。
店主には沢山話を聞いて貰ったので、あんなことがあった後のツーショットでも、気軽に声をかけてくれたのだと思う。
「………そうなるかもしれない人。おっちゃん、取り敢えず、生二つ」
えっ、と目を丸めて加藤さんを見たが、狭い入り口に加藤さんが先に暖簾を潜ったので、私からは加藤さんの後ろ姿しか見えない。
ねぇ、今、どんな顔をしているの?
「ははっ!良かったな、山梨ちゃん!」
おっちゃんの気前のいい、明るい声がカウンターから覗く。
「あ、あのっ、加藤さん……!」
私はなんといっていいかもわからないままに、彼の名前を呼んだ。
「……………来年も、とびっきり甘い、ミルクチョコレート………くれるんだろ?」
少しだけ振り向いて、顔を真っ赤にして言う加藤さんが、やっぱり可愛くて。
「……………勿論です!」
私は少し、泣いてしまった。
ーおしまいー
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