実朝暗殺考

蓬葉 yomoginoha

実朝暗殺考 説③朝廷(後鳥羽上皇)説

「親の敵はかく討つぞ」


 これは、いまから900年ほど前の1219年の2月、時の鎌倉幕府将軍源実朝が暗殺されたときに、その実行犯が叫んだ言葉です。訳す必要はなさそうですが、まあ「親のかたきはこうやって討つのだ!」というところでしょうか。

 

 実行犯の名前は公暁こうぎょう。将軍実朝のおいで、前将軍の源頼家の子です、実朝の首を斬った後に逃亡したが、結局討たれました。



 さて、事件の概要はこんなところなのですが、後世の坂本龍馬の暗殺と同じく、この事件には謎が満ちています。「黒幕」の存在が垣間見えるからです。


 有力な説をあげるとしたら次のようになると思います。

①北条義時説

②三浦義村説

③朝廷(後鳥羽上皇)説

④公卿単独犯説


 

 ①②は置いておいて、まず③から見たいと思います。なぜならこれについてはほぼ否定できると思うためです。


 皆さんは、実朝が暗殺された場所を知っていますか? 「鶴岡八幡宮」? そう、その通りです。では、そもそも実朝がなぜそこにいたのかは?


 実は、この日は実朝の右大臣就任を祝う八幡宮拝賀はちまんぐうはいがが行われていたのです。右大臣というのは朝廷の役職で、実朝は、武士として初めて就任しました。

 実朝が暗殺されたときというのは、その拝賀の儀式が終わり、八幡宮から退出した時だったのです。

 

 では、なぜ③が否定できるかというと、ここまでの実朝はかなり順調に昇進しており、です。


 また後鳥羽とはにもありました。実朝の妻が後鳥羽の妻と姉妹だったためです。血縁関係も有していたということです。


 さらに、

 実朝には子がなく、まだ若いこの段階で、自らの死後、あるいは引退後には後鳥羽の皇子を親王将軍としてつけることを、朝廷との交渉、および御家人たちとの会議によって決めていたのです。


 この二年後に承久の乱がおこることなど想像できないくらい、当時の朝廷と幕府の関係は安定していました。

 実朝は後鳥羽によって朝廷の権威を自らの政治力に還元でき、一方後鳥羽は実朝を通じて幕府のコントロールを図る、そう言う図式が成り立っていたためです。少なくともこのタイミングにおいて実朝を除くメリットはないと言えそうですよね。それに暗殺という手段も朝廷らしくないと思ってしまいます。

 なお、実朝暗殺の報を受けた後鳥羽は寝込んでしまったそうです。



 では他の説はどうか。見ていきましょう。

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