異世界云々よりも前に、説明してくれ
葛城2号
プロローグ
――フッと、目が覚めた。その瞬間、彼の脳裏を過ったのは、骨身に浸みるような肌寒さであった。
今日は飲みたい気分(時間的に、昨日かな?)だったので、種類問わずに気の向くままに酒を買った。
基本的に、飲む時は1人が好きなのだ。性分なのか、酒を飲むときに回りに人がいると、どうにも気が散って上手く酔えない。
なので、飲むときは自室でひっそりと飲む。もともと、酒に強いのか幾ら飲んでもほろ酔い感覚から変わらないし、記憶が無くなるような事もなかった。
だから、特に気にするような事は何も無く、二日酔い対策に水とスポーツドリンクを用意しておくことだけは忘れず……ああ、そうか。
(ベッドに入ったとこまでは覚えているが……こりゃあ、蹴飛ばしてしまったな)
季節はまだ晩夏とはいえ、さすがにシャツ一枚でそのまま寝ていたら身体も冷える。良くも悪くも自室が、風通し抜群だからこそ、余計に。
眠くて眠くて億劫だが、このまま二度寝をして風邪を引いては堪らない。
とろけた頭でそう考えた彼は、放りっぱなしの腕を動かし、ベッド下へと転がっていると思われる、掛布団へと手を……?
がりっ、と。
指先が、明らかに異質なナニカを削り取った。
最初は眠気のせいで認識出来ても理解出来ていなかったが、3回、4回、5回と、自室には存在し得ない感触が繰り返されれば……寝ぼけた頭も違和感を覚え始める。
彼の家はワンルームマンションの一室。玄関やユニットバスなどの例外を除けば、床は一面フローリングだ。
つまり、指で削れる箇所など存在しない。床を傷付けないよう、ベッドの足には小さなマットを噛ませているが、アレを指で削るというのはあり得ない。
……では、いったい何を?
そこまで考えた辺りで、彼は指先を眼前に持ってくる。霞んだ視界の中で、指先より零れ落ちたそれが頬に当たる。
既に時刻は夜に差し掛かろうとしているのか、薄暗くてよく分からないソレを、鼻先に持って来た彼は……途端、まどろんでいた意識が一気に浮上するのを実感した。
(……この臭い、土か?)
原因は考えるまでもなく、指先より臭った、自室内では存在しないはずの臭い。暗さゆえに輪郭しか分からないそれを捏ねれば、ぽろぽろと粉みたいなものが落ちて、頬に……?
とにかく、明かりだ。
それを考えるまでに頭が動き始めた彼は、むくりとベッドより身体を起こし……身体を……え?
「――っ!?」
気付いた瞬間、彼は……生まれて初めて、心から絶句すると悲鳴はおろか言葉一つ出せなくなるのだということを知った。
いったい何が……答えは一つ。それは、彼が寝ていた場所が……自室ではなかったからだ。
具体的に言えば、外だった。それも、マンションの外とか、道路の脇とか、そんなレベルではない。
一言でいえば、自然だ。
これでもかと言わんばかりに我が物顔な雑草たち、そんな雑草を悠然と見下ろす木々たち、ありのままに存在感を示している地面。
薄暗くても、分かる。それらが、彼の視界の全てに広がっていた。
あまりに非現実的な光景と事態。むせ返るような緑の臭いに包まれながら、彼は最初……そのまま、ポカンと辺りを見回すしか出来なかった。
誰だって、そうなる。経験者でなければ、誰だって状況を上手く認識出来なくなる。
平和な国で育った平々凡々な一般人である彼もまた、例外ではない。目覚めてすぐに状況を受け入れて行動出来るやつなんて、そう多くは無いのだ。
「……ドッキリ?」
たっぷり、間を置いた後。
尻を付けた大地より伝わる冷たさ、頬や首筋を流れて行く風の冷たさ、無慈悲なまでの、強烈な現実感がもたらす冷たさ。
それから目を背けたい……そう思っていなくとも、無意識にそうであってほしいと願っていた彼は、気付けば願望を呟いていた。
だが、そうではない。嫌でも、そうではないのだ。
わざわざ言われずとも、彼は理解していた。いや、理解させられていた。ドッキリ等という、そんな生易しい事態ではないということを。
――ぞわぞわ、と。
寒さにも似た怖気が、背筋を走った。身体が冷えているだけではない、本能的な……生まれて初めて体感する、底知れぬ恐怖を彼は自覚した。
それは、本能的である。あるいは、原始的と呼んだ方が……まあ、何にせよ、だ。
(……こ、ここは何処だ?)
この時、彼は……生物として極めて標準的な機能……すなわち、生存へと意識を傾け始めたのであった。
(声は、出さない方が良い……だったか?)
非常にうろおぼえな知識。元がテレビからなのか本からなのかネットからなのかすら思い出せないソレだけが、この場では唯一頼りになる情報だ。
キョロキョロ、と。
辺りを見回した彼は、ひとまず周囲に己の私物がないかを確認する……が、しかし。
……。
……。
…………何も、見えない。
考えなくても、当然の結果だ。只でさえ薄暗かった周囲は、呆けている間にもどんどん暗くなっていた。
辛うじて地面に落ちている石などの輪郭ぐらいは分かるが、それが何なのかは分からない。せめて、ロウソク程度の明かりが有れば別だが……仕方がない。
手探りで5、6個ほど適当に掴んでは放り棄てた後、捜索を打ち切った彼は……次いで、目印か、それに近しい物を探す。
とにかく、自分が今、何処に居るかを把握しなくては。動くにしても、動かない方が良い場所なのかすら、分からないのだ。
けれども、足元すらおぼつかないようになっているというのに、離れた場所にある物体を目視で認識出来るのかと問われれば……そんなわけがない。
結局、どうにもこうにも出来ないまま暗闇が視界全てを覆い隠し……どうしようもなくなった彼は、おそらくは元々居たであろう場所にて座り込む他なかった。
……。
……。
…………辺りは、静かであった。
時折吹く夜風によって揺れる枝葉の音。後は、ぽつぽつと聞こえる虫の羽音を除けば……己の生存を知らせる音しか聞こえない。
……寒い。
興奮と緊張によって火照った身体もすっかり冷えて、どうしようもない寒さだけが残っている。
手足をまるめて必死に体温を保とうとするが、悪足掻きだろう。元々、彼が着ているのはゴムが伸びて袖が解れた薄手のシャツに、少しばかり穴が開いているパンツだ。
どう言葉を選んでも、夜を越せるに適した衣服ではない。
せめて、薄いとはいえ使っていた掛布団が見つかれば違うのだが……見つからない以上は、考えても意味はない。下手に考えると、余計に辛くなる。
声だって、出さない。
下手に大声を出すと、野生動物を引き寄せると何処かで耳にしたから。間違っていようがなかろうが、今はソレに縋る他ない。
兎にも角にも、夜が明けるまで耐えなくては。
震え始めた身体に涙が出て来るのを自覚しながらも、彼は体力の温存を意識しながら……只々ひたすらに、時が過ぎるのを待つのであった。
……。
……。
…………が、そんな彼の覚悟とは裏腹に、変化は思いの外早く現れた。
それは、淡い光であった。しかし、太陽の光でもなければ、焚き火などでもなく、ライトのような人工物の明かりでもない。
淡く緑色に輝く光……蛍の点滅のように見え隠れする明かりが……彼の視界の端に姿を見せた。
――アレは、なんだろうか。
気になった彼は、光の下へと向かう。足元が分からないので、四つん這い……とまではいかなくとも、身を屈めて両手を前に付き出しながら、向かう。
光そのものは、けして強くない。淡い、と称したとおりに。おそらく、昼間なら気付く事は出来なかっただろう。
距離にして、20メートルもない。けれども、足や手を取られないよう注意しながら進んでいた為、到着するまで非常にやきもきしながらの行進となった。
(……地蔵か?)
そうして、ようやくたどり着いた彼が目にしたのは……淡く緑色の光を放っている、奇妙な造形の地蔵であった。
まず、表情が違う。彼がよく知る地蔵の顔は、だいたいが目を瞑り、唇は閉じているが、この地蔵は満面の笑みを浮かべている。
けれども、普通に笑っているわけではない。
いわゆる、漫画的な表現というやつなのだろう。それぐらいに大げさに笑みを形作っていて、印象的だ。
そのうえ、両手でピースサイン(または、Vサインか?)を作っているだけでなく、腹部には大きく○の形に溝が掘られ、その中には『ら』の文字がデカデカと掘られていた。
……明らかに、普通の地蔵ではない。
大きさは、彼がよく知る地蔵とそう変わらない。だが、造形の違いに加え、なによりも石像そのものが淡く光るという謎の現象を前にして、彼は……?
「……?」
何だろうか、見覚えがあるような……そう思いながら、彼はしばしの間、地蔵を見つめ続け……あっ!?
「――『らっきー地蔵』!?」
理解した瞬間、彼は場所も状況も忘れて叫んでいた。「――っ!」反射的に口を押さえたが……それぐらい、彼にとっては衝撃的な事実であった。
と、いうのも、だ。
今しがた、彼がこぼした『らっきー地蔵』という言葉。
それは、幼少時の彼がプレイしていた家庭用シミュレーションゲーム『剣王立志伝』の、ある意味マスコットキャラとして扱われていた地蔵の名前である。
とはいえ、マスコットとは言っても、大してマスコットはしていない。だって地蔵だし、造形だって、あくまでも地蔵だし。
そもそも、データのセーブをする為に、地蔵に話しかける必要があるだけ。次の目的地を教えてくれたり、アイテムを交換してくれたりもするが……無くてもクリアは可能である。
……で、だ。
どうして、『らっきー地蔵』がここに有るのか……それが分からなかった彼は、困惑に首を傾げた。
何故なら、『らっきー地蔵』が登場する『剣王立志伝』というゲームは、言っては何だが今ではレトロに分類されるゲームシリーズの一つだ。
最初に販売された『剣王立志伝』の対応機器は、ファミコン。そう、あのファミコンだ。
『ファミリーコンピュータ』の略称のそれが販売されたのは、今から35年以上も前で……『剣王立志伝』は、その頃に作られたゲームである。
当時としては画期的なドット絵の美しさがウケて、続編として『剣王立志伝2 ―下剋上―』が販売され、シリーズ完結として『剣王立志伝3 ―剣王の最後―』が販売されたのが今より30年ぐらい前。
つまり、最新作(完結作)でもファミコンの後継機に当たる『スーパーファミコン』時代のゲームである。レトロもレトロな、知る人ぞ知る、みたいな感じなのだ。
そりゃあ、人気は有った。シリーズとして3作品出たのだから、固定のファンも居た。
だが、国民的シリーズ作品となったRPGゲームや、海外にも広く知れ渡ったアクションゲーム、アニメ化のみならず映画化までされた作品に比べたら、地味も地味、誰も覚えていない。
ぶっちゃけ、今もその名を覚えていたら、容赦なくマニア認定されるぐらいにはマイナーになってしまったゲームである。
だからこそ……彼は困惑するしかなかった。
場所が場所なら銅像なり石像なりが建てられても、まあ不思議ではないビッグタイトルに比べれば、『剣王立志伝』は忘れ去られた作品の一つでしかない。
個人的に思い入れが有って覚えている彼はともかく、当時プレイしていた子供たちも、ほぼほぼ忘れていて当然のゲームである。
そんなゲームに登場するキャラクターの……それも、主人公やヒロインではなく、当時でも大して人気がなかった『らっきー地蔵』を、わざわざ作ったりするだろうか?
……常識的に考えて、有り得ない。
コアなファンが作ったにしても、だったらネットで宣伝するなり何なりするはず……少なくとも、彼はこれまで実際に作られた『らっきー地蔵』が有るなんて話、見た事も聞いた覚えもなかった。
制作会社が作って、完結したから捨てた?
いや、捨てるにしても、こんなふうに光るような石像なんて、どうやって作ったのだろうか。
内臓バッテリーもそうだが、最低でも20年以上は電力が持つバッテリーなんて、あの当時に存在していただろう……ん?
(そういえば……眠る前に、『剣王立志伝』をプレイしようとしていたな……)
ある種の幻想的な光景に半ば思考を飛ばしていた彼だが、ふと、我に返って……想起するのは、こんな場所で目覚める前の事。
――起きる前、彼は自室にてテレビを見ながら晩酌(時刻は、深夜だったが)をしていた。
テレビの内容は酔いもあって正確には覚えていないが、レトロゲームをプレイするという内容だった気がする。
その中で、偶然にも『剣王立志伝』が紹介されたのを見て、むらむらっとやる気が湧き出て……押入れよりゲーム機本体(ファミコン)とカセットを引っ張り出したのは覚えている。
基本的にゲームをしなくなって久しいが、このゲームだけは別だ。
今は亡き両親が共に居た子供時代の、思い出。
初めて買ってもらえたゲームだった事もあって、これらだけは捨てずに、時折思い出しては電源を入れていたのだ。
(ああ、そうだった……読み込み(データ読み込みの事)が中々上手くいかなかったけれど、ようやく読み込んだ……とこまでは覚えている)
子供の時に比べて気力も根気も衰えているので、最後にゲームクリアをしたのは10年以上も前のこと。
元々、ゲームの難易度を上げることで少しでもプレイ時間を増やしていた作品が多かった時代の、一つなのだ。
とてもではないが、日々の仕事で疲れ切った頭と身体でクリア出来るようなゲームではない。なので、ここ数年は最初のボスを倒した辺りで止めるというのを繰り返していた。
……で、今回は最初のキャラメイク……主人公のステータスにポイントを割り振っていたところまでしか、覚えていない。
ゲーム機を引っ張り出した時にはもう、それなりに酔いが回っていた。うろ覚えだが……最初のOP(オープニング)の文字列を見た、そこまでは何とか覚えている。
――駄目だ、思い出せない。
だが、その後は何とも……と、そこまで考えた辺りで……不意に、彼の脳裏にある事が過った。
(そういえば、剣王3も、こんな感じだったっけ……戦火から命からがら逃れた孤児の主人公が、戦を憎み、平和を成す為に、立志を天に誓うところから……だったかな?)
それは、ある種の現実逃避であったのかもしれない。
けれども、逃避であっても彼の心を少しばかり慰めてくれる。ただただ途方に暮れるよりも、何でもいいから行動したかった。
(たしか……そうだ、地蔵に祈りを捧げたシーンの後、少しばかり森を進むとチュートリアルみたいな感じで雑魚敵が現れ……それを倒した後、『時は流れ……』……だったか?)
今は持っていないが、彼の手元には1,2,3のみっつとも揃っていた。しかし、何時も電源を入れていたのは『1』だけで、3にいたってはゲーム機そのものが無くなって久しい。
なので、3の出だしに関してはうろ覚えもうろ覚えだ。正直、どんなストーリーだったのかすら、正確には思い出せない。いくら何でも、30年以上前の事なのだから。
(……状況は全く分からない。だから、試せる事はとにかく試しておくべき……か)
幼い頃はゲームに夢中になっていた時期もあって、様々なサブカルチャーには触れていた。
だから……と言うべきかは迷う所だ。
だが、有り得ない状況ではあっても、それを認める事すら気が狂ったのかと疑うような事であっても、否定出来る材料が無い以上……彼は、幼き頃のゲーム知識を頼りにする他なかった。
……正確には、少しでも身体を動かして余計な事を考えないようにしないと、心が参ってしまいそう……なのだが、今はいいだろう。
「『かしこみ、かしこみ、お頼み申す、お頼み申す、お助けください、お助けください』」
――で、そんな彼が、最初に行ったのは、だ。
『剣王立志伝3』においては有名な『裏ワザ』の一つである、通称『お助け地蔵』の発生条件を満たす事であった。
……いや、まあ、正確には裏ワザというよりは、製作者側の救済処置というのが正しいのだろうが……話を戻そう。
前述した通り、『3』に関して、彼が覚えている事は多くはない。
だが、色濃く頭に残っているモノが幾つかある。具体的には、覚えている『裏ワザ』や、隠しイベントがそれに当たる。
その一つが、ニューゲームを押して最初に表示された場面……すなわち、『らっきー地蔵』に誓いを立ててから道なりに進むはずの、スタート地点。
そこで、プレイヤーはチュートリアルが発生する場所へ向かう前に……セーブポイントでもある『らっきー地蔵』に、7回連続で『調べる』をするというものだ。
より正確には、『セーブをしますか?』のテキストを7回表示させれば条件が成立するので、セーブまでする必要はない……が、問題なのはそこではない。
ゲームだからこそ疑問なくやれたが、現実として、テキスト画面を表示するとか、どうしろと言うのだろうか。
試しに頭の中で念じたり声に出してみたり、ぺたぺた触って調べるフリをしてみたり、淡い光を頼りに地面に『調べる』と書いてみたり……色々試した後。
地蔵に変化が見られなかったので、もはや半ば投げやりな感覚で、『フラグ(特定の処理が実行される条件の事)』を達成した時に表示されるテキストを、自ら口に出した。
すると……始めて地蔵に変化が現れた……というより、光に変化が現れた。
まるで、道標のように緑の光が等間隔に伸びて、木々の……そう、森の奥へと続く。そうだ、『光の道が……』というテキストが表示され……こんな感じだ。
(……行くぞ)
思わず声を上げかけた彼だが、ここが自然の中である事を思い出し、えっちらおっちら……へっぴり腰で、光を追いかける。
そうして……距離にして、おそらくは数百メートルか。地図で見れば大した距離には思えないだろうが、目的地である……小屋へと到着した。
……あれ、小屋だったっけ?
小屋を前にして、彼は首を傾げた。
何故なら、彼の記憶ではたしか……小屋など無い行き止まりの空間が有って、そこにアイテムが入った葛籠(つづら:ツルを編んで作った箱の事)が数個置かれているだけ……だったはず。
葛籠の中にあるのは、序盤においては強力なアイテム。
ゲーム中盤までは十二分に通用するやつで、コレがあるだけで生存率がグンッと跳ね上がる……のだが、これは……勝手に入って良いのだろうか?
――いや、考える必要は無い。そこまで、己は清廉潔白ではいられない。
幸いにも、鍵などは掛けられていなかった事もあって、彼はすんなり中へと入る。すると、やはり誰かの物なのか、天井より吊り下げられた提灯に、火が灯っていた。
非常に、提灯の明かりは強い。ついでに、室内は暖かくて心地良い。
下手に触って壊したり落としたりしたら嫌なので、提灯に手を触れたりはしないが……蛍光灯の明かりに、勝るとも劣らない強さだ。
そんな光に照らされた室内は、思いの外広く、それでいて時代が古い。全体的に見れば、少し広めの1LDKといったところか。
入ってすぐ右手側には簡素な竃(かまど)が設置され、釜も有れば鍋もある。小さな上がり框(かまち)を進めば囲炉裏が有って、ゆらゆらと炎が音も無く揺れていた。
囲炉裏を囲うように、板の間。イ草か何かを束ねて編み込み作ったと思われる御座は囲炉裏を挟んで二つ。部屋の端には、寝床と思われる畳が2段、重ねられている。
後は、部屋の隅にひっそりと置かれている2段の箪笥(タンス)と葛籠(つづら)だ。箪笥の上には、これまた小さな鏡が置かれていて、傍には……貝がぽつんと置かれていた。
……やはり、誰かが使用しているだけでなく、今は席を外していると見て……間違いないだろう。
常識的に考えれば、勝手に入った己は咎められるだろう……けれども、明かりに照らされた室内を見て、出て行こうという気持ちは出て来なかった。
「……駄目だ」
明かりと温もりに触れて、気が緩んだせいだろう。
唐突に湧き起こる、強烈な眠気。それは今まで感じたことが無い、抗う気持ちすら瞬時に飲み込んでしまうほどで。
辛うじて……ぐらぐらと揺らぎ始めた視界の中で、何とか上がり框を登り、部屋の端に置かれた畳の上にごろんと寝転んだ彼は……そのまま、すとんと意識を落としたのであった。
ゆらゆら……ゆらゆら……。
ゆらゆら……ゆらゆら……。
ゆらゆら……ゆらゆら……。
音も無く揺れ動く囲炉裏の炎だけが、時の流れを教えてくれる。
青ざめてはいるが、深く深く寝入っていることが一目で分かる様子の彼は、当然ながら自分がどれだけ不躾であり馬鹿な事をしているのかも分からないまま……ただただ、寝息を立てるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます