昔話/テン

やまの かなた

第1話

注釈

テンの生年月日は迷いに迷って明治35年にしました。

その当時の教育制度を詳しく調べた訳ではなく、全て自分の頭の中の空想だけで書いたものです。

ですから、学校も小学校、中学校、高等学校としました。



テン


やまのかなた


 人には自分がほんの幼い頃どうだったのか。

物心つく前の出来事は周りの人や写真から知らされなければ覚えてはいないものだ。

が、例え何も知らされていなくとも大人になった時、時にふと思い浮かぶイメージがある。

初めて見た景色に懐かしさを覚えたり、偶然耳にしたメロディーに急に何かを思い出せそうな衝動に駆りたてられたり、そんな事はないだろうか。

私達は前世かそれとも胎児の時か、あるいはまだ物心のつかない赤子の時に確かに何かを見て聞いていたからではないだろうか。

はっきりとした記憶が何歳頃から残るかは別として、まだあどけない時に耳にした優しい言葉や、話し掛けられた声、流れていた音楽やにおいや香り等は確かにその時からその人の人格形成に何らかの影響を与えているのではないかと思う。


今からはかなり遠い昔になるが、江戸時代が終わり明治の世の中になり、それも大分落ち着き新しい時代になった頃の事です。

とある日、

広い芝生のある庭で、写真屋が来て家族写真を撮っている。

三歳にもなっていないような愛らしい男の子を抱いたその父親らしい、目の涼しい若い男とその妻らしいがまだ娘のように初々しい女性、祖父と思しき痩せてはいるが威厳のある老人は見事な白髭をたくわえている。

その隣には、いかにも生まれながらにずっとおっとりと年を重ねて来た事が想像される福々しい上品な老婦人が見える。


小さな男の子を抱いた父親を中心に、右に若い母親、左に祖父、その隣に祖母という具合に並んでいる。


その朝は、若い夫婦の婚礼時に仲人を務めてくれた、ある議員の子息の婚礼の日であり、そこに招待されてこれから揃って参列する為、礼装している。

孫も三歳になって可愛い盛り。

丁度、記念にと写真屋を呼び、記念写真を写す事になったのだ。

写真を撮り終えた後、息子と親達の二夫婦は車で小1時間もかかる式場へ向かう事になっていた。

写真が撮り終わると若い母親が、小さい男の子の可愛い手を両の手の平で挟むようにして、

「坊や、じゃ行って来ますからネ。いい子でいてネ。おキヨを困らせるんじゃありませんヨ。」と優し気に話した。

小さな男の子は素直に頷いている。

若い母親は尚も引き寄せて、自分の胸に抱き上げようとしたが、おキヨと呼ばれた女が、

「若奥様、今が一番大事な時ですから、お坊ちゃまを抱き上げるのはもう暫らくおよしになった方が宜しいと思います。」と言った。

するとすぐにまた、おっとりとした老婦人が、

「そうですヨ。詩乃さん、大事をとるに越した事はありません。今日だって無理しなくたっていいんですヨ。私達三人で行って来ますから。」と言った。

「いいえ、私がお役に立てるのは、これが最後だと思っています。これからはおナカも段々目立って来ますし、二人目が生まれたら当分は公の場に出る事も出来なくなるでしょうから。」と若い母親が言った。

まだ見た目には解らないが、どうやらおナカの中には二人目の子が宿っているらしい。

「そうか?大丈夫かい?君が出てくれたらきっと先生御夫妻もお喜びになるだろう。」と若い夫は気遣いながらも言った。

祖父は何も言わず憮然としていたが、だが母親と父親にひとしきり抱きしめられた幼い孫に向かって、

「テン、大丈夫か?留守番出来るか?泣かないで頑張れるか?」と言ってから、

「男子たる者、どんな事があっても奥歯をぐっと噛みしめて頑張るのだぞ!いいか!

ホラ、爺のようにギッと噛みしめてごらん。」と言って歯を噛みしめた自分の顔を小さな男の子に見せた。

小さな孫は祖父の顔を見るとそれを真似て、歯をカッチリと噛み合わせて、その口元を祖父に見せた。

祖父はそれに満足して、

「偉い、偉い、テンは偉いナー。将来は大物になるぞー。」と言って、孫の頭を撫でた。

テンと呼ばれた男の子は、おキヨに抱かれながらも歯をカッチリと噛み合わせた顔で四人を見送った。

祖父と若い父親は紋服の羽織、袴の正装であり、祖母と若い母親も裾模様のある黒留袖に金糸銀糸で織られた豪華な帯をしている。

大事な華やかな席へ出る為の申し分なく整えられた姿の四人であった。

小さなテンはキヨと一緒にいつまでもいつまでも遠ざかって行く車を見送っていた。

色白で目のパッチリした、いかにも賢そうなきれいな子だ。




あれから何年か経ち、テンは十歳になっていた。

髪はボーボーに伸び、顔も首も手も足も垢や埃にまみれて、見る影がない程、薄汚れたなりをしていた。


「テンはいるか!!どこにいる!!テン!!」

どこかでテンを呼ぶ声がする。

テンは急いで声のする方へ走って行った。

顔中髭もじゃの恐そうな男が仁王立ちして待っている。

「第二工場の木屑の片付けは終わったか!!」

ドラ声はいかにも恐ろし気だ。

「はい、監督。今、裏手に運んで来たばかりです。」

「そうか、それならもう昼時だから一休みして来ていいぞ!!」と言ったかと思うと、その監督と言われた男は周りを見回してから、

丸めたゴミのような物を右手の森の方へ向かってボンッと大きく放り投げた。

テンはその森の方へ歩いて行きながら途中で何かを拾うと、後ろを振り返ってお辞儀をしようとしたが、髭もじゃの監督はもう工場の方へ歩いて行って、テンの方を振り向きもしなかった。

拾った物は粗末な紙を丸めたような物だった。

テンはそれでもその紙包みをボロボロの破れかけた着物の懐に入れると、心なしか嬉しそうに森へ入って行った。

森はシーンと静まりかえって物音一つしない。

鳥の声もしない静かな場所だった。

よーく耳を澄ませると、今来た工場の方で微かな働く人達の声やカンカンという音等が聞こえるには聞こえるが、まだ昼時には少し早いこの森はしばしテンの心と体を癒し慰めてくれる場所だった。

テンは自分がいつも決めている場所に着くと、そこにある切り株に腰を降ろす前に、他の木々の中央にある一本の太い木に近づいて行った。

そこは森の木々の間にわずかに開けた場所があって、その中央に何十年も、もしかしたら百年以上経つような太い木があった。

この森の王様のような木だ。

両腕をぐるりと回してもテンの腕では抱えきれない程太い木だ。

テンはここに来るといつもその木を抱きしめて、木の幹に耳をつけて木の声を聞く。

よく耳を澄ますと、幽かにコーッと音がする。

木が地面から水を吸い上げている音だろうが、でもテンには木の声に聞こえるのだ。

まるでテンに話しかけているような気がして来るのだ。

「生きている!!お前は確かに生きているんだネ。」

テンはこうして木に話しかける。

木は相変わらずコーッと幽かな音を立てているばかりだが、テンの声をしっかり聞いてくれてるような気がするのだ。

「お前は幸せかい?ここからどこにも歩いて行けないのにお前は幸せかい?

僕の事を知ってるだろう?僕の名はテンというんだヨ。

もう覚えてくれただろうネ。本名は天子天水って言うんだヨ。

生年月日はネ、明治三十五年二月四日生まれなんだ。

これは絶対忘れちゃいけないんだって爺が言っていた。

自分の本当の名前と生年月日だけはきちんと忘れないで覚えていなきゃいけないって。」

そう言った後、テンの顔は悲しそうに曇った。

「だけど、僕は字が書けないんだヨ。学校にも行っていないんだ。

字を覚えて何でも解る人になりたいんだけど、学校に行っていないんだ。

だから、みんな僕の事、馬鹿だと思っている。」

テンはそれだけ言うと悲しそうな顔をして、木の切り株に腰をおろした。

「フーッ」と一つ大きく深呼吸すると、気持ちを切り替えるように懐に手を入れて、さっき拾った紙包みを取り出した。

それは誰かに見られてもただの捨てられた紙屑のように見えただろう。

だがそれはゴミ等ではなかった。

紙包みを大事に開くと、中には大きな握り飯と黒砂糖の塊が入っていた。

テンの目はいっぺんに明るくなった。

監督は恐そうな顔をしているが、本当にいい人なのだ。

時々、いいや殆ど毎日のように、弁当や昼飯のないテンがおナカを空かせて辛い思いをしないように、テンがいつも森で一休みする事を知って、森の方に向かってゴミでも捨てるように、こうして食べ物を放ってくれるのだった。

どうしてそんな事をするのかというと、それは誰かに見られた時の事を考えているからだった。

誰がどこにいて見ていたとしても、何か物を捨てたように

しか見えなかったろう。

それでも人の目のないのを確かめて、森の方に向かってボーンと放って、監督は知らんぷりするのだ。

つまりテンに優しくしている所を絶対に知られないように注意しながらの事だった。

人の口はうるさい。

どこに目があるか解らない。この事は他の誰に知られてもならない事だったからだ。


監督がテンに優しくしているヨと誰かが吉本のダンナに告げ口したら、

きっと監督はここにいられないだろう。

首を切られるか他の所に回されるだろう。

そうなったら、もうテンの為に何かしてくれる人は一人もいなくなってしまうのだ。

だから、テンも監督の優しさを知っているけれど、そうじゃないフリをしている。

どうしてだか解らないけれど、吉本のダンナはテンに親切にする人を嫌う。

それはここに働く人は誰もが知っている事だ。

だから吉本のダンナの目を恐れて、誰もテンに優しく声を掛ける人はいない。

テンがひとりぽっちで貧しい汚い身なりで、字も読めず、みんなから馬鹿のテン、阿保ーのテンと言われているのをかえって喜んでいるのだ。

前は解らなかったが、十歳になった今ではテンにもそれがはっきり解るようになった。

テンは“学校へ行きたくない”なんて一度も言った事がない。

それなのに誰かお客様が来ると、吉本のダンナは本当に困ったような顔をして、


「本当に困った子供なんですヨ。

私も自分の本当の子供と思い、どうにかして学校にもやり身なりもきちんとさせようと。

ホラ、全部こうして揃えてあるのですが、あれ、あのような汚いなりで風呂にも入ろうとしません。

土蔵の中で寝起きして着替えもしないんですヨ。本当に困ったものです。」と言って、用意した勉強道具や衣服を相手にわざわざ見せては本当に困ったように溜息をついているのだった。

あんまり幼くてそれまでテンは知らなかったが、いつか物陰で偶然それを聞いてしまった時、テンは驚いてしまった。

何故?そういう事を言うのだろう?

学校へ行くように言われた事等一度もなかったし、汚いから風呂へ入るようにと着替えを持って来てくれた事も一度だってなかった。

何が何だか解らなくなってしまった。

その時、五助爺の言葉が蘇って来た。


「テン坊、これからテン坊は沢山沢山苦労をするじゃろー。

だがのー。その時のテン坊の気持ちの持ち方が大事なんですじゃ。

苦労はそれはそれは有難いものなんじゃ。

昔から苦労は人を作る。苦労は買ってでもしろと言うからのー。」

五助のそんな言葉が頭の中から聞こえて来た。

「テン坊、

世の中には理不尽な事がヨーケーあるんじゃヨ。

そうさなー、小さなテン坊に難しい事を言っても解らないだろうが、爺が昔話をしてあげましょう。


昔々、お武家様が刀を腰にさして何かというと年がら年中、戦をしていた頃の話じゃ。


ある殿様とある殿様が戦をした。

当然どちらかが勝ち、どちらかが負けた。

勝った方は負けた方の殿様の子供達を皆殺しにする場合もあったが、中にはいろいろな事情から殺さずに人質として相手方の子供を自分の所に預かって育てる者もいた。

いろんな事情で、負けた側の家来達やまた、負けた殿様の仲間がいつか仕返ししないように用心した為だろうと思う。

テン坊、その人質の子供は大切に育てられたと思うか?買った殿様の子供より大切に育てられたと思うか?

そうではなかったろうヨ。

周りの家来や世話をする碑女までが憎い敵の子供だと、大抵は辛くあたるものだ。

食べ物も着る物もそうだが、学問にしろ剣術の稽古にしろ、本人が泣いたり悔しがるように辛くあたる。

剣術等は周りのその家の家来達が手加減をしないで思いっきりビシビシ打ち込んで痛い思いをさせる。

そうするとどうなる?

その子供はそのままではいつまでも打たれると思い、必死に強くなろうと努力するだろう?

人の目のない所でも秘かに稽古をする。

それとは反対に勝った殿様の子供はどうかというと、御家来衆から若様、若様と大事にされて下にも置かぬように育てられる。

わがままをしても本気で叱る者がおりゃ、あせん剣術の稽古でも痛い思いをさせぬように手加減して打ち込みます。そして強くもないのに凄い!若様お強くなられましたとお世辞を言われ甘やかされて育って行くそういう者と、辛くしごかれて育つ者とはおのずと“根性”というものが違って来るんですじゃ。

テン坊はどっちがいい?」

と爺が聞くと幼いテンは、

「解んない。」と言った。

「そうか、そうか。テン坊には解らないか、

だけど、ここが大事な所なんですじゃ。

それはナ、辛い思いをして育った方がいいんですじゃ。根性のある男らしい男になる為にも辛い思いをしてそれに耐えて育った方がいいんですじゃ。と言うのはある日、

勝った方の殿様が暫らくぶりに自分の屋敷に帰って来た。

自分の息子を見、随分大きくなったと思い満足した。

次に人質の子供の方を見に行った。

そして驚いてしまった。

その子供は顔付きもきりりと凛々しく、居ずまいも礼儀も正しく、しかも剣術の稽古をしている所を見ると、驚く程上達し、強くなっているではないか。

殿様はこれはどうした訳だと人質の子供を見る者を呼んで問いただした。

あれはどういう事だ。


私はお前にあの子を辛く育てろと言った筈だ。

はい。ですから私は辛く辛く厳しく育てましたと家来は答えた。

すると殿様は、お前は何を思い違いしているのだ!

私が辛くと言ったのはあの子供を甘やかして骨抜きにするようにという意味だぞ!

あれでは骨のある人間になってしまったではないか!と悔しがった。

甘やかされて育った自分の子供は、人質の子供に比べると確かに骨抜きになってしまっていた。

そういう話ですじゃ。

テン坊、爺の事はいつか忘れてしまっても、この話だけは覚えていて下さいヨ。

昔の人はよく苦労は買ってでもせよと言いますじゃ。

苦労は丁度、こやしのようなものです。

苦労を知らない者は立派な人にはなれません。

苦労をした者だけが、やがて本当の意味での立派な人になるのです。

坊はこれから辛いことがいっぱいいっぱい押し寄せて来るでしょう。

その時は相手を恨んだり、妬んだりしてはなりませぬぞ。

悲しい時、苦しい時はこれがこやしだ。これは自分のこやしだと思って下されヨ。」

そう言った後、爺はテンの顔をじっと見て笑った。

笑ったけれど、その目は年寄りだからか潤んでいた。

テンがそろそろ六歳になろうという頃だった。

その後間もなく五助爺は何故かテンの傍からいなくなった。

五助は出て行く時、テンに、

「爺は遠くの山の見回りをいいつかりました。

こんな年寄りですから、そんなに長くはかからないだろうと思います。」と言って出掛けたが、いつまで待っても爺はテンの元へ帰って来なかった。

テンはあの後、土蔵の中で一人ぽっちで過ごして来た。

五助爺がいなくなった後、

朝ご飯と夕ご飯は誰かが蔵の入り口に置いて行く。

だが、五助爺がいた頃のように五右衛門風呂を沸かして一緒に入り、テンの体を洗ってくれたり、着ている者が汚れたり、ほつれたら洗濯して繕ってくれて着替えをさせてくれる人は誰一人いなくなってしまった。

誰もテンに話し掛けず、テンを見かけると、、何故か逃げるように遠ざかって行ってしまうのだった。

テンは誰からも愛されず、世話もされず五歳かそこいらで、

ただ朝、夕の粗末なご飯をあてがわれたっきりで一人ぽっちで生きて来たのだ。

六歳になっても、七歳になっても、テンに学校へ行くようにと言った者は一人もいなかった。

風呂に入れてくれる人もいなければ、、髪を切ってくれる人もいなかった。

すれ違う人は何故か関わり合いにならぬように顔を背ける。

八歳になった頃、ある日、土蔵の入り口に夕ご飯を持って来た年のいかない若い下女が初めてテンにこう言った。

「あんたクサイね。まるで乞食じゃないか。」と蔑むように眉をよせた。

初めて見かける若い下女だった。

その時、子供ながらにテンは傷ついた。

五助爺はまだ帰って来ない。

毎日毎日、こんなに待っていても帰って来ない。

五助爺はもう帰って来ないのだろうか。

五助爺はテンの事を忘れてしまったのだろうか。

いいや、爺がテンを忘れる筈はない。

もしかしたら、死んでしまったのだろうか。

爺は年寄りだから、もしかして死んでしまったのかも知れない。

そう思うと悲しかった。

悲しくて会いたくて涙がポロポロ落ちた。


悲しい時、苦しい時はこれは自分のこやしだと思いなさい。

五助爺の言った言葉を思い出した。

だから泣きたくなると、これはこやしなんだ!

立派な人になる為のこやしなんだ!と考えてきたのだ。

下女が帰った後、テンは少し考えると、

まだ春になったばかりで、水は雪解けの山から流れて来る水で冷たかったけれど、近くを流れる小川の方へ歩いて行って、体ごと川に浸かった。

服を着たまま頭や体を洗った。

体の芯まで凍り付く程冷たかった。

それをじっと見ていた男がいた。

それが髭面の恐そうな監督だった。

川から上がってブルブル震えているテンを監督は首根っこを掴むようにして引きずって、工場の奥に連れて行った。

そこには大きなストーブがゴンゴンと燃えていた。

その男は無言で、急いでテンの濡れた服を脱がせると、それを近くの腰掛けに干して、テンの裸の体を自分が着ていた上着で包んでくれた後初めて、

「馬鹿野郎!こんな寒い時に川に入る奴があるか!お前は馬鹿か?」と怒鳴った。

テンがガチガチ震えながら、

「だってクサイって言われたから。乞食みたいだって言われたから。」と言うと、

監督は驚いたような目でテンを見た後、ムッとして何も言わず、

茶碗にやかんから湯を注いで、それをテンの前にグッと突き出した。

テンはそれを素直に受け取った。

久しぶりに手に触れる温かいぬくもりと人の情のぬくもりを感じて嬉しかった。

テンは何も言わず一口すすった。

ただのさ湯さと思って飲んだテンは驚いた。

甘い砂糖湯だったからだ。

驚いて監督を見ると、わざと大きなドラ声で、

「さ湯でも飲んであったまりな。ここで熱でも出されて挙句の果てに死なれでもしたら目覚めが悪いからナ!」と言った。

何か気配を感じてテンが振り向くと、

吉本のダンナが自分の手下を連れてこっちに向かって来た所だった。

すると監督が、「ダンナ!このアホガキ、まだ雪が溶けたばかりの川に入ってるんですぜ!

頭がまともじゃないのかネー。

一人で放っといたら何するか知れやしません。ここで木くずを集めたりの仕事をさせたいんですがよろしいですか?」と言った。

ダンナと呼ばれた吉本はテンをジロリとねめ回すと、フンと鼻で笑って、

「仕様がないナー、お前に任せるヨ。」と言って、工場の様子を簡単に見ると行ってしまった。

大人の男にしては小さめなずんぐりとした狡そうな目をした嫌な奴だとテンは思った。


それからテンは一人ぽっちでありながら、一人ぽっちではなくなった。

「お前はテンというんだってナ。」

周りに人がいない時、聞いて来た。

監督はテンの名前を知っていた。

「飯は食っているのか?」と聞かれて、

「朝と晩。」と言うと、

「昼飯はないのか?」と言う。

テンは黙って頷くしかなかった。

それからテンは、工場で出る木屑を拾って集め、決められた場所に運ぶ仕事をするようになった。

監督はテンに対する物言いは乱暴だった。

人の耳にはいつも叱り飛ばしているように聞こえた

かも知れない。

だけれども、森に入った所にいい場所があるのを教えてくれたのも監督だった。

そしてそれ以来、昼時になると、

人目のないのを確かめて何かを放ってくれるのだ。

誰が見ているかも知れない。

表立ってテンに親切にする人は誰もいなかった。

きっと暗黙のうちに人々は何かを感じ取ってテンと関わり合いになる事を恐れたのだろう。

テンは朝、土蔵の入り口に置いてある朝ご飯を食べ終えると工場に行って、昼になると森の中で少し休んで監督のくれた握り飯を食べ、また働いて夕方にはまた土蔵の前に帰って来る。

すると外にコトリと音がして、土蔵の扉を開けるといつものように夕飯の御膳が置いてあった。いつも、だいたい同じだった。

麦の多く入ったごはんと冷たくなった味噌汁とたくあんの漬物が何枚かと野菜の油炒めだ。

それでも育ち盛りのテンにとっては有難くて美味しい食事に思えた。

夕飯を食べ終わるとお膳を扉の外に出して、テンは粗末な布団にくるまって眠った。

それでも五助爺がいなくなって誰とも話をしないで過ごした頃よりはずっとずっといいと思って寝た。

「爺、今、どこにいるの?テンは頑張っているヨ。工場の仕事だってしているんだヨ。」

そう話しかけて眠りについた。


テンはいつか九歳になっていた。


監督が、「テン、こっちへ来い!」と大声で読んだ。

「これも忘れるなと言ったろ。このアホ!!」とわざと大声で怒鳴った後、小声で、

「テン、お前、学校に行きたくないっていうのは本当か?」と聞いて来た。

テンはキョトンとして、

「僕、学校、行ってみたい。」と答えると、監督は、

「やっぱりな。」とボソッとつぶやいて、

「今の事は忘れろ!」と言ってサッサと行ってしまった。

それから監督は学校の事を口に出す事はなかった。

やっぱりなというあの一言が何だったのか、テンは最初気になったがそのうちに忘れてしまった。

その頃テンは、カバンを肩にかけて学校から帰って来るダンナの息子とその友達の子供達の姿を見かけた事があった。その子供達は楽しそうだった。

それからまた違うある日、

テンはその子達が学校から帰って来るのをぼんやり見ていた事があった。

そのテンに気付くと、子供達がテンを指さして何やら笑っているのだった。

それはテンの事を馬鹿にして笑っているのがはっきりと解った。

テンは何だか恥ずかしいような悲しい気持ちになった。

こんな時、五助爺がいたらナー。

五助爺はあれから何の音沙汰もない。

爺はもう帰って来ないのだろうか?


テンはある日、近くに誰もいない事を確かめてから監督に、

「五助爺の事を知っていますか?」と聞いてみた。

「五助爺が帰って来ません。すぐに帰ると言ったのに、年寄りだから死んじゃったのかナ。」

そう言うと監督は、

「遠い山の中で元気に働いているんだろ。お前ももう自分の事は自分で守るんだナ。」と素っ気なく言うと言ってしまった。

振り返るとこちらを見ている人がいた。テンはビックリした。

監督と話をしている所を見られてはいけないのだ。

誰が吉本のダンナに告げ口をするか知れない。直感的にそれが身に沁みて解った。

テンはそれから更に気を付けるようになった。

とにかく自分の事は自分で守るしかないんだ。


勉強道具を用意して学校に行かせようとしても行かないで困っているんですー。

あのダンナは嘘を言っている。

何故、そんな嘘を言うのだろう?

ある日、監督がテンの所に来て小さい声で、

「お前、“いろはにほへと”を空で言えるか?」と聞いた。

五助爺がテンを抱いて子守歌のように唄っていたので、テンの頭には染みついていた。

「はい。」と答えると、

「これが“いろはにほへと”の字だ。

空で言えるなら、これを見ながら家で口に出して勉強するんだ。これは俺から貰った事は内緒だぞ。もしも見つかったら、拾ったと言うんだ。」

そう言うと、小さく折り畳んだ紙切れを素早くテンの手に渡して足早に行ってしまった。


夕方、土蔵に帰ってそれを広げて見ると、

いろはにほへと ちりぬるをわか

よたれそつねならむ うえのおくやま

けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす

と書いてある。

いろはの手習いの紙だった。

テンはそれを見て目を輝かせた。

これが字だ!!

これが“い”で、これが“ろ”だ!

その時の嬉しさといったら!

それからテンは、土蔵に帰ると枕の縫い目に小さく畳んで隠しておいたそれを見ながら、

いろはを小さな声で繰り返し言ってみた。

どれが“ほ”か、どれがへ“か解るようになると、逆から口に出して読んでみた。

解らない字は最初から唄うように暗誦して、これは“ゆ”だ。これは“ね”だという事が解った。

もうすっかり字は読めるようになった。

この後は字を書く練習をしたかったが、テンには字を練習する道具がない。

それでも指に水をつけて床に字を書いてみたりしたが、その字の跡がいつまでも残らないのは物足りなかった。

ある日、木屑の片づけが終わったので、土に木の枝を見つけていろはを書いてみたりしていた。

人の目のある所ではしていけないヨと誰かが言っている。

姿の無い誰かがテンに注意してくれるのだ。

どうしてなのかは解らないが、そういう誰かが注意しないといけないヨとテンの背中で言うのだ。

大事なものは人に知られてはいけないヨ。

大切な物は盗られるからネとテンの心に教えてくれるのだ。

本当にそうだった。

五助爺がテンに作ってくれた木彫りの馬だって、あんなに大切にしていたのにいつの間にか無くなっていた。

テンにはもう何一つ残っていなかったのだ。

石板もないし、石墨もない。

土に木の枝で書くより仕方がないのに。

それさえ人に見られては危ないと誰かが背中でテンに注意している。

辺りを見回してみても誰もいない。

五助爺が死んで幽霊になってテンを守ってくれているのだろうか?

とにかく今は隠れるようにして練習しなければならない。

テンは土に書いた文字を急いで足で消した。

遠くから人の声がする。

離れた所で働いている人達も工場の人達も昼食に集まって来る頃だ。

監督がのっそりテンの所に来ると、

「テン!片づけが済んだら、ウロウロしてないでどっかに失せろ!

お前がその辺をウロウロしていたら昼飯も喉を通らネー。

オーオーゆっくりどっかへ行って休んで来い。」

それから、

「オイ誰か。俺の石板と石墨知らネーか?

あれ?俺、酔っ払ってどっかに落として来たかナー。」と言っている。

すると人々の笑い声が聞こえた。

その人々の陽気な笑い声を聞きながら、テンは力なくトボトボと森の方へ歩いて行った。

いつもの大きな木の所に行くと、そこに見慣れた紙包みと石板と石墨が置いてあった。

テンの心は急に明るくなった。

監督だ!!これを僕にくれたんだ!!

テンは辛い時は歯を食いしばってでも泣かなかったが、嬉しくて嬉しくて目の奥から熱いものが溢れて地面にポトポト落ちた。

紙包みの中のでっかい握り飯を食べながら、テンは石板にいろはの字を書いて練習した。

書いては袖で消し、また書いては袖で消した。

勉強って面白い。

今まで出来なかった事が出来るのは面白い。

学校に行きたいナー。学校に行けたら誰よりもいっぱい、いっぱい勉強するのにナー。

だけど誰もそんなテンを学校に行かせてくれる人はいないのだ。

遠くで人々の声がする。そろそろ昼時が終わるようだ。

石板と石墨を古い

倒木の下に隠して、テンはそこを帰りかけた。

今日はあまりの嬉しさで大きな木を抱きしめるのを忘れていた。

思いっきり抱きしめてコーッという木の声を聞かなかったっけ。

何か木に悪いように思って振り返ると、その時一瞬、その大きな木の陰に年取ったお爺さんを見たような気がした。

確かにそのお爺さんがニッコリ笑いかけて大木の根元を指さしたように思ったのは、何だか気のせいだったようにも思った。

テンはその木に近づいて行ったが、やっぱりお爺さんはいなかった。

木の精だったのだろうか?

テンは太い幹に両腕を回して「ごめんネ。」と言いながら抱きしめると、コーッという音がする。

「お前は生きているんだネ。ちゃんと生きているんだネ。僕も頑張るからネ。」と話してそこを離れようとすると、そこにくたびれた古い麻袋が一枚雨ざらしになって落ちていた。

それは毎日のようにここに来てこの木を両腕で抱きしめても今まで気付かなかった事だった。

昨日も気が付かなかった。

誰がいつ置いて行ったものだろう?

あちこちに大きな穴が開いているのが一目で解る。

こんな穴の開いた袋、使い道の無くなったのを誰がここに捨てたのだろう。

テンの大事な木の根元に…。

暫らく考えた後そのままにして去ろうとすると、

「お前にやるヨ。」と声が聞こえたような気がした。

えっ?と思って振り返っても誰もいない。

やっぱり気のせいかと思ってまた行こうとすると、

「この袋は誰もお前から盗っては行かないヨ。持ってお帰り。これはお前の物だ。」

確かにまたそう聞こえた。まるでその大きな木が言っているように聞こえた。

不思議だが確かにテンに言っているのだ。

これなら誰だって欲しがらない。

こんなボロボロの穴の開いた汚い袋だもの。

だけど…。暫らく迷ったが、テンはその汚い袋を拾って帰る事にした。

誰かがテンの為に話しかけてくれたのなら、それが自分の心の中から漏れ出た言葉だとしても…。自分が考え出した幻だとしても。

単なる気のせいだとしても…。捨て去る事が出来なかったのだ。

テンは丸めて持って来たその袋をその辺に置いて、また昼からの木屑を集めたが、その袋の事はずっと頭の隅にあって、仕事を終えた後、何気なさそうにそのボロ袋を丸めて土蔵に持って帰って来た。

そんなゴミのようなものを持って帰ってどうすると誰も何も言わなかった。

それ程、誰が見ても気にならない物だった。

土蔵の入り口にはいつものように夕飯が置いてあった。

麦入りの飯がご飯茶碗に一杯と大根の味噌汁とキャベツか菜っ葉の煮た物と沢庵が二切れ、それだけの夕飯だった。

ごはんも味噌汁もおかずも冷え切っていたが、テンは育ち盛りである上に仕事から帰る夕方にはどんな物でも喜んで受け入れる用意があった。

他の人から見てどんなに貧しい食事でも、テンの腹の虫を寝かしつけておとなしくしてくれる食事は有難かった。

誰が誰に命じてこの食事をそこに置いて行くのか。

どんな意図でこの食事が運ばれて来るのか等、幼い頃のテンには解らなかったが、成長した最近のテンの頭の隅で、何故?何故?と囁く声がある。

だけどそんな事、誰に聞けるというのだろう。

例え聞いたとしても誰も話しちゃくれないし、聞くだけ無駄だ!

考えたって無駄だ!

考えても無駄な事は考えないようにしよう!

テンは冷たくなった飯を目を閉じてゆっくりゆっくり噛みしめた。

たった一口の麦飯なのに目を瞑ってじっくり噛むといろんな味がする。

噛めば噛む程甘みが出て来るような気がする。

味噌汁も飲まず、おかずも食べないで、もう一口ご飯を口に入れて目を閉じて、ゆっくり噛みしめてみる。

すぐに飲み込まずにじっくりじっくり何度も何度も噛みしめる。

今までは腹が空いて、つい急いでよく噛みもしないで腹の中に流し込んで来たが、何故だか今日はじっくり噛みしめて見ようという気になったのだ。

二口目の飯も噛めば噛む程、中から甘みが出て来る。

その発見が嬉しくて、次には味噌汁も目を閉じて味わった。

冷たい味噌汁はいつもしょっぱいだけの味気ない物だったが、口の中に含んで舌の上や口の中で温めていると、味噌の味が蘇って来る。

この味噌汁を作った人の姿が思い浮かぶ。

その人はこの味噌汁をどんな気持ちで作ったろう。

きっと一生懸命美味しく作ろうとした筈だ。

大根の皮をむき、それを切り、更に細く拍子木に切り揃えて、味噌を入れる時も味噌の量と入れ時を考えたに違いない。

出来上がったばかりの温かい味噌汁はきっと大変美味しかっただろう。

それにその味噌にしたって、誰か作った人がいる筈だ。

テンは誰に何を教わったという訳ではないが、味噌が大豆から作るという事は何となく解っていた。

誰から聞いたのだろう。

五助爺からだったろうか?

いいや女の人だったような気がする。

「坊っちゃん。畑に種を蒔き雑草を抜き、一生懸命に世話をしてお百姓さんはいろいろな物を作って下さるんですヨ。

大根もそうですヨ。豆もそうですヨ。

その豆で味噌を作る人は一生懸命、味噌を作るのですヨ。

ですから好き嫌いをしたらその人達ががっかりしますヨ。

さあ、坊っちゃん何でも好き嫌いなくたんと召し上がれ。そして大きくなるんですヨ。」と誰かに優しく教えられた。

もう名前も顔も思い出せないが、テンをとても可愛がってくれた女の人だった。

この味噌汁は、その味噌とその大根で作った味噌汁だ。

冷たいだのまずいだのと急いで流し込むように飲んではいけないと思った。

一口、一口有難く味わっていただこう。

その事にテンは今、初めて気が付いた。

きゃべつの煮物だってそうだ。

きゃべつの煮物といってもしょっぱいだけの、それは飯の後に急いで喉に流し込んでいたが、飯や味噌汁同様、一口のキャベツを口の中に入れて何度も噛んでみる。

やっぱりそうだ。

目を閉じてじっくり噛んでいると塩辛いだけだと思っていたキャベツの中から甘みが出て来る。

このキャベツだってお百姓さんが一生懸命育ててくれたんだ。

味付けの醤油だって、醤油作りの人が一生懸命作った醤油に違いない。

テンは今までそんな事は一度も考えた事がなかったけれど、どうした訳か今日は初めて目が覚めたようにその事に気が付いた。

沢庵二切れもその事に気付いて食べると、しょっぱい二枚の沢庵が有難く貴重に思われて、その二枚をごはんの合間に少しずつかじって食べた。

この漬物を作ってくれた人々の事を考え、目を閉じて味を確かめ、時間をかけてじっくり食べたので不思議に今までとは違う満足感と満腹感を感じた。

それは大きな発見だった。

いつもは冷たいご飯と味噌汁を一気に流し込むように腹の中に入れた後は、侘しさと物足りなさだけが残ったけれど、今日の夕食は、会った事はないけれどこの食事が出来上がるまでに携わった多くの人達に感謝し、ゆっくりじっくり噛んで味わって食べたせいか、毎日変わり映えのしない食事だが有難いという感謝の気持ちが生まれて来た。

誰だか知らないが、この食事を届ける人、届けさせる人のお陰で自分はこうして生きているのだ。

その事に気が付いた最初の日だった。

テンは満足すると、自分が少しだけ子供じゃなくなったような気がした。

どうしてなのか解らない。

あの石板と石墨のお陰だろうか?

人に知られないように、そっと置いて行った監督の真心を感じたせいだろうか?

それとも?

あの拾った穴の開いた汚い麻袋のせいだろうか?まさかね。

チラリとその袋に目をやる。

誰も振り向きもしないような汚い袋だけど、あの太い幹の陰でニッコリ笑ってあのお爺さんは木の根元を指し示したような気がした。

あれは幻だったのだろうか?

五助爺に会いたいと思っているテンの心が見せた幻だったのだろうか?

それからまた、

「その袋は誰も、お前から盗っては行かないヨ。持ってお帰り。その袋はお前の物だ。」と確かに言う声が聞こえたっけ。

あれもテンの心から出た声だというのか?

これまでの事を考えれば確かにテンが大事にしていた物は、ブリキで出来ていた車も小さい時から大事にしていたクマの人形もいつの間にか無くなっていた。

どうしてだろう?

土蔵の外には持ち出した事がないのに無くなってしまうのだ。

あの時、

「可哀想に。テン坊の物は誰かが持って行ってしまうんだナー。」と嘆きながら、五助爺が小刀で作ってくれた木彫りの馬も、大事に大事にして無くならないように布団の間に隠しておいたのに、五助爺がいなくなった後、いつの間にか無くなってしまっていた。

どこかで意地悪な神様が見ていて、テンが大事にしている物を知っていて、どこに隠しても持って行ってしまうような気がした。

テンのいる土蔵の中に泥棒が入ったって一目で何もないと解るのに、土蔵の中は古い布団とちゃぶ台替わりに使っている蓋の付いた茶箱だけだ。

その木箱の中だってボロボロに着古した着替えが入っているだけだった。

土蔵の右奥に架けられた梯子段の上には登って行って見た事はないけれど、五助爺が置いた欠けた皿やどんぶりや木の板切れが積まれて足の踏み場もなく、長い間誰も登った事がないのだろう。至る所、白い埃が積もったままで、泥棒も悪い神様もそこを登って行く気持ちは起きなかったのだろうか?

あのブリキの青い車とフワフワしたクマの人形と、木彫りの馬はテンの大切な宝物だったのにそれらが無くなった事を知っているのは今じゃ誰もいない。

ブリキの車とクマの人形が無くなったのは五助爺だけが知っていて、

可哀想に、可哀想にと言っていたのだ。

その後、五助爺が彫って作ってくれた木彫りの馬が無くなったのは爺のいなくなった後だった。

だから今ではテンには何も無くなってしまった。

でも「その袋は誰もお前から盗ってはいかないヨ。」と言ったあの声の主は全てを知っているようだった。

確かにどんな泥棒だってこんな汚い穴の開いた袋に目をくれるものか!

テンはこんな袋を持って来た自分を笑いながら、改めて袋を手にとってみた。

穴は見事に大きな穴だ。

しかも上の方にあるなら底の方に何かを入れる事が出来るけれど。大きな穴はどれも底の方にある。

「これはどうしたって使い道はないナー。

これはお前のものだなんてあの不思議なお爺さんはどうかしてるナー。」

テンは袋を両手で開いて何気に内側を見てみた。

あれ?今のは何だ?

何か変だ。

内側から見るとその袋はまるっきり違って見えた。

外からは大きな穴がたくさん開いたボロ袋なのに、内側から見ると何か窓や扉のようなものが見えるのだ。

???

テンの目の錯覚だろうか?

よく見る為にテンは、恐る恐る袋の内側に頭を入れて見た。

すると驚いた。

それはまるっきり違う景色だった。

外からは穴に見えたものが、内側から見るとやはり窓や扉のように見える。

自分の頭はどうかしてしまったのだろうか。

学校にも行かないで、馬鹿だ阿保だと言われているうちに、本当に頭がおかしくなってしまったのだろうか?

そう思うと恐ろしくなってテンは袋から頭を抜いてしまった。

するとやっぱりそれはどう見たって穴の開いた汚い袋だ。

だけどまた、恐る恐る内側をそっと開いてみると、まるで違った景色が見えるのだ。

テンはびっくり仰天して心臓がバクバクした。

だが覚悟を決めた。

目を瞑り心を落ち着かせる為に何度か深呼吸して息を整えると、

どっちみち馬鹿!阿保!って言われてるんだ。頭がおかしくなったって違いはないだろうという気持ちになって、

勢いよくその袋を頭からガバッと被った。

するとどうだろう。その袋はテンが思っていた以上に大きかった。

すっぽり被って立ち上がると、不思議な世界の中に迷い込んだような空間が広がっていた。

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