data_073:花落ちて雨降るる

 部屋の中央には大きな机のような、しかしベッドにも浴槽にも見える奇妙な機械が設置されている。

 全体は金属でできているようだが上面だけはガラス張りになっていて、しかしその表面が電灯を反射しているので、中身が見えそうで見えない。


 それが何であるかを知るために、ヒナトとコータは一歩近づいた。


 そして、見た。


 透明な液体に浸されている、ミルクのように白い肌をした、小さな少女の裸体を。

 それは紛れもなくフーシャだったが、しかし別人のように痩せている。


 少女は眠っているように見えた。しかしそうではないことは、装置内の液のどこにも気泡が浮いていないことが証明していた。


「……フーちゃ……」


 コータがよろよろと機械に近寄る。

 少年の手はガラスに触れ、その硬さにはっとしたように一瞬動きを止めた。


「今朝の十時二十二分に死亡を確認した。このあと地下に搬入する」

「しぼう……?」

「死んだってことだ。墓地に入れたらもう会えないから、今のうちにお別れを言ってやれ」


 死亡。墓地。お別れ。

 聞き慣れない言葉が次々にリクウの口から出てくるのを、ヒナトは呆然として聞いていた。


 何が起きているのか理解できない。理解、したくない。

 硬直するヒナトの横を誰かがすり抜ける。

 コータに歩み寄ったアツキが、少年の細い肩を抱きしめながら、涙混じりの声で言った。


「フーシャちゃんに、バイバイって、言わなくちゃ……」

「……ど、して?」

「もうフーシャちゃんは起きないの。ずーっとずっと、眠るのよ」


 それが、死んじゃうってことなんだよ──アツキの声が、なぜか遠くから聞こえる。


 アツキとは反対側にタニラが来て、さようなら、と言いながら棺を撫でた。

 彼女の隣にソーヤが立ち、黙って俯く。

 サイネとユウラはその傍には行かず、少し離れたところにふたり並んで、祈るように目を閉じていた。


 どうして、ともう一度少年が言った。

 さっきより大きな声だった。


「どうしてもう起きないの? まだ『眠り』に入る日じゃないのに。あと一日あるのに。

 なんでこんなに、こんな、……なんでフーちゃん……なんで……ッ!」


 ガラスに縋りつくようにして、少年は吠えるように泣いた。

 ダメだと何度も叫んでは、時折震えた拳が振り上げられるのを、ソーヤが掴んで止める。


 他のソアや職員は、それを黙って見ているしかできなかった。


「なんでだよぉッ! 嫌だ……嫌だよ、フーちゃんじゃなきゃダメだ……!

 フーちゃんしか描けないのに、こんなのダメだ、嫌だ、ッ……また絵、描いてって、言ってたじゃないかよぉぉッ……!」


 コータの慟哭が室内にこだまする。


 ヒナトはアツキとともに、泣きじゃくる少年を抱きしめた。

 他にどうすればいいかわからない。

 自分の眼から溢れてくる涙すら止められないのに、コータの悲痛を受け止めてやるなんて、できるはずがない。


 どれくらいそうしていただろう。

 永遠のように長く感じた。


 少年が泣き疲れて声を枯らすまで、リクウと職員は待ってくれていた。


 もはや気力の尽き果てたコータはなおも棺から離れようとしなかったが、それをやんわりと引きはがし、職員たちはフーシャの遺体を納めた部分を取り外す。

 底面に車輪がついていて、そのままエレベーターで地下まで運ぶという。


 長い廊下の隅にあるエレベーターホールは、いつもより暗かった。




・・・・・*




 花園の地下には花開くことのできなかった芽たちが眠っている。

 かつてメイカとここで育った友人たちもみんなここで、いつかメイカが来るのを待っている。


 遺体の保管期限は長くても十年。

 収容スペースの都合上、それを過ぎたら外部施設に運ばれて火葬され、遺骨となってってくる。

 死んですぐに焼かないのは、遺体すらも研究材料になりうるからだ。


 そして今日もまた、新しい遺体が地下墓地の仲間入りをする。

 まだ休眠すら迎えていない少女だった。


 しかし、花園のソアのじつに半数近くは、両手で数えられない歳のうちに死亡している。

 そう考えると彼女の死亡年齢は平均に近い。

 本来なら彼女の同期もあと四名のソアがいたが、みんな乳幼児のうちに亡くなっている。


 個体というより世代による差が激しく、ほとんどが休眠を迎えられる世代もいて、たとえば今のGHもそうだ。

 自分たちもそうだった。


 だから仲間の死を、物心がつくどころか多感な時期を迎えてから、何度も目の当たりにしてきた。

 目の前で、時には己の腕の中で。


 ここであたりを見回せば、棚に並んだ真四角のケースのラベルに、いくつも見知った名前が記されている。

 顔も思い出せる。

 それぞれとどんな会話を交わしたのかも、彼らが何を愛していたのかも、まだすべて覚えている。


 ──だから私たちは狂った。


 同意を求めるようにしてメイカが視線を送ったのは、幾人かのラボの職員や棺に隔てられた向こうにいる男だ。

 濃いネイビーのシャツの上に白衣を纏った、かつてのメイカの共犯者……懐かしくて、憎らしくて、そして誰よりも愛おしい相手。


 リクウもメイカのことを見つめていた。

 言葉はなかったが──ふたりに会話は禁じられていたし、それどころか今日は特例で、普段は会うことすらないような措置がとられている──何を言いたいのかはその瞳が語っている。

 まだそこにかつての狂気が潜んでいるのを確かめて、メイカは息を吐いた。



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