16.香子先輩とナイスシュート

「ねえ瀬川、あんた、高明に浮気されたんだって?」


 その瞬間、体育館が凍り付いた。

 扇風機の回る音と、バスケットボールの弾む音、それ以外の音が消え失せる。

 いや――


「ごはっ!?」


 遠くから変な声がしたので振り返ると、パスを取り損ねたらしい粟木がその場に倒れていた。

 それで少しは気が逸れたのか、沈黙は長くは続かず、すぐに練習が再開される。


 だけどやはり、みんな先ほどの爆弾発言が気になって仕方がないらしい。

 コートに出ている者も、休憩中の者も、香子先輩たちをチラチラ振り返っている。


 部活の雰囲気が完全におかしくなってしまった。

 これはもう練習にならないな……。


 さて、そんな混乱の中で、僕はどう動けば香子先輩の助けになるだろうか。

 考えているそばから動き出す人影があった。媛宮だ。


「ちょっと、相手の足止まってる! パス回して!」


 大声でパスを要求しつつ、女バスのコートへ飛び込んだ。

 えっ? えっ? とボールを持っていた子が戸惑いながらもパスを出し、それを受けた媛宮が敵陣へドリブルで切り込んでいく。

 媛宮なりの注意の逸らし方らしい。

 身体を張って香子先輩のピンチを救おうとする姿には素直に感心したが、人数がおかしい。5対6になってるんですがこれは……。


 ルール上の問題はともかく、媛宮の参戦によって女バスの練習は少しずつ活気を取り戻していた。

 男バスの方は、起き上がらない粟木を心配してゲームが止まっている。

 香子先輩たちへの注目はいくらか紛れたようだ。


 とはいえ、爆心地の周辺はまだ険悪なまま。

 香子先輩はずっと黙り込んでいる。


 汗を拭いたりポカリを飲んだりと何かしらの動作はしているが、すでに汗は拭ききってさっぱりしているし、ペットボトルの中身もほとんど減っていない。あれでも一応、無視ではなく聞こえていないだけ、という体を取っているつもりらしい。そのカモフラージュの雑さが、いかにも香子先輩だった。 


「なんとか言ったら?」

「ウチらが聞いてんだけど?」


 アマゾネスたちは煽り続けている。


 最初こそ威勢が良かったものの、香子先輩があまりにも平然としているせいで、煽りが単調になってきていた。さっきから同じ言葉ばかり使っている。語彙のスタミナ不足だ。


 浮気の暴露という爆弾によって優勢を得たアマゾネスたちだが、香子先輩が動じないでいることで徐々にその勢いが弱っていき、逆に平然としている香子先輩のほうが優位になってきていた。


 弱者ほどよく吠える。かつての力関係もこう・・だったことを、この場にいるみんなが思い出しつつあった。

 

 すべては作戦だったのだ。

 力自慢をフットワークで翻弄して、弱ったところを仕留めるように。

 すなわち――蝶のように舞い、蜂のように刺す。


 相手の体力は十分に削り取って、あとは止めを刺すだけ。

 さすが香子先輩だ。僕の心配なんて最初から必要なかった。


 ……そう思っていた。

 佐木先輩の挑発が直撃するまでは。


「遠恋でも気持ちをつなぎとめる自信がある――だっけ? 結局アンタ口先だけだったんだね」

 

 ぴしり、と。

 香子先輩の平坦な表情にひびが入ったのがわかった。

 手ごたえを確かめているのか、佐木先輩は様子見の姿勢。


「……そんなこと言いましたっけ」


 香子先輩はしらばっくれた。

 そして、遠くからでもわかるくらい大きなため息をついて、


「どっちにしろ、関係ないことです。もう別れたので」


 騒ぐようなことではないとアピールするために、淡々と語る。

 もちろんアマゾネスたちにそんな意図は通じない。

 その内容もだが、まず反応があったことで、嬉々として攻撃を再開する。


「だから言ったじゃない、遠恋なんてどーせ続かないって」

「関係ないってことはないっしょ、抜け駆けしといてさぁ」

「そうよ、他にも高明を好きって子はいたのに」

「みんなの気持ち、考えたことあんの? 無責任だよあんた」


 僕が同じ立場だったらきっと泣いてしまうだろう、そんな一方的な数の暴力にも、香子先輩は眉ひとつ動かさない。


 それどころか、攻撃が止んだのを見計らい、その一つ一つに対して反撃を始める。


「――続かなかったのは結果論です。結果論でモノを言うのって年寄りっぽいですよ」


「――抜け駆けってなんですか? 好きな人に好きって言うのに他人の許しとか要ります?」


「――他の好きな子って誰ですか? 口に出さない程度の感情しか持ってなかった人に、わたしの行動をとやかく言われたくないです」


「――みんなの気持ちとか、意味がわからないです。恋愛でもフェアプレーですか? みんなで同盟を組んで、大会が終わるまで告白禁止とか、珍妙なルールを決めてましたけど、そういうの、率直に言って気持ち悪かったです」


「――それに、別れたことを無責任って言われても……、恋愛は契約じゃないんですから、その感情が無くなればお終いです。ああ、もしかして他の高明を好きだった子に対して無責任だ――的な意味ですか? トーナメントみたいに敗者の気持ちを背負って次の試合を戦えって発想? あはっ、スポーツマンシップに精神を乗っ取られちゃいましたか? 恋愛脳ならぬスポ根脳ですね」


 反撃というレベルじゃなかった。


 明らかに過剰防衛やりすぎなその火力は、数の優位に立っていたはずのアマゾネスたちを、精神的に打ちのめしていた。真っ赤な顔で怒りを吐き出そうとして、でも言葉にならなくて口をぱくぱくさせている。


 遠くから見ていても危機感を覚える。

 限界まで膨らんでいる風船に、さらに空気を送り込むかのような。


 それは当然、破裂してしまう。


 屈辱のレベルがある一線を超えると、感情が高ぶりすぎて暴力に訴える人がいる。アマゾネス先輩たちの中にもそういう者がいた。そいつらは言葉にならない声を上げて、香子先輩に掴みかかろうとする。


 本当に必要になるとは思ってなかったが、こうなったらやるしかない。

 こっそり拝借していたバスケットボールで、その場で軽くドリブルをする。


 手になじむ感触を頭上に持ち上げて、狙いを定める。

 先輩たちが争っている近くのゴール。

 膝の曲げ伸ばしを意識して、放つ。


 高い高い山なりの軌道を描いたボールは、リングネットにこすれて、ぱつん、と小気味よい音を立てた。バスケット選手みんなが大好きな音だ。怒り心頭の先輩たちの耳にも届いたのだろう、少しだけ動きが鈍る。その直後にボールは、だぁん! と大きな音を立てて床をバウンドした。必要以上に高い軌道にしたのはそのためだ。


 シュートが入ったのは出来すぎだけど、それはともかく。


 アマゾネス先輩たちの注意を逸らすことには成功した。

 あとは僕が生贄になるだけだ。


「ああっ! すいません! 急にスリーポイントが打ちたくなってしまって!」


 先輩たちの視線が集まる中、へらへら笑ってボールを拾う。

 お調子者を演じていないと恐怖で震えてしまいそうだ。


「島津君……」

「お前、高明の……」


「お久しぶりです佐木先輩、今日は後輩たちへの指導ですか? 精が出ますねぇ。大学でもバスケ部なんですよね。調子はどうですか? やっぱり高校よりもハイレベルなんでしょうね。ここはぜひ、大学レベルのバスケを叩き込んでやってください」


 荒ぶるアマゾネス先輩たちに冷静になってもらうために、内容なんてどうでもいいのでとにかく話を途切れさせないようにする。そして、先輩方がちょっとイラっとしてきた頃合いで、


「ああ、もうすぐ顧問の先生も来るみたいなので、声をかけてあげてください、きっと喜ぶと思います」


 この場の責任者であるバスケ部顧問の存在をチラつかせると、さすがに大人の目があるところで暴れるつもりはないのか、アマゾネス先輩たちは戦意を失くして、ぞろぞろと離れていった。


 助かった……、のか?


「はーっ……」


 しゃべり続けて出しっぱなしだった空気を求めて、大きく息を吸い込んだ。

 緊張の糸が切れて、その場にしゃがみ込みそうになる。


 この圧力を真っ向から受け止めて、しかも反撃までするなんて。香子先輩の胆力には感心しきりだ。尊崇の念を新たにしていると、その香子先輩かみが近づいてきた。


「ナイスシュート」


 僕の肩に手を置いて、香子先輩が笑いかける。


「あのときと同じ角度だったわね」


 そう言われて、息をのむ。


「……覚えてたんですか」

「今回は決められたじゃない。練習の成果ね」


 離れ際に僕の肩をぽんと叩いて、香子先輩はコートへと戻っていった。








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「どうだった? 俺の死んだふり」


 ドヤ顔で身体を起こす粟木。

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