08.香子先輩と決別の電話

『……おう』


 元頼れるキャプテンの倉知高明先輩は、その肩書きからは程遠い、ダルそうな声で電話に出た。あんな出来事の直後ではテンションが低いのも当然だ。


「どうも、高明先輩。あの、大丈夫でしたか?」

『ああ、警察沙汰になるような負傷じゃない』

「それはよかったです。……で、さっそく訊きたいんですけど」

「なんだ?」



「――今日のことは事前に伝えてたのに、どうして女の人が部屋にいたんですか」



 責めるような口調になっているなと自覚しながら、僕はそう尋ねた。


 香子先輩から浮気の相談を受けた日。

 その日の夜にはすでに、僕は高明先輩に連絡をしていた。


 香子先輩の疑念を本気にしたわけではなかった。

 高明先輩の潔白を疑ったわけではなかった。


 しかし同時に、香子先輩の疑念を完全に否定することも、高明先輩の潔白を信じ切ることもできなかった僕は、そこで、安全策を採ることにした。

 今日のアポなし訪問――香子先輩が言うところの〝奇襲〟を、高明先輩に前もって伝えたのだ。


 高明先輩のことを信じてはいるが、間違いが全くないとは言い切れない。

 だから万が一、疑わしいことがあっても、当日だけは隠して乗り切れるように。

 あらかじめ、奇襲の情報を流しておいたのだ。


 その結果がこのザマである。

 高明先輩は、遠恋中の彼女が来ると知っていて、浮気相手に出迎えさせたのだ。


 どうしてそんなことを。

 理由を尋ねるより先に、高明先輩が口を開いた。


『瀬川は高嶺の花だ』


 瀬川、と。

 高明先輩は彼女だったひとを名字で呼んだ。


「……はい、だから高明先輩くらいのレベルじゃないと釣り合わない――」

『俺にとっても、あいつは高嶺の花なんだよ』

「え」

『対等じゃないってことだ』


 投げやりな声色のそれは、敗北宣言に聞こえた。

 瀬川香子の彼氏をやるには力不足だと認めるかのような。


『俺も高校の頃は、自分がそこそこ〝上〟の人間なんだと思っていた。バスケ部のキャプテンなんてレアな役目も、いい感じにこなせてたからな』

「そうですよ。高明先輩のおかげで去年のバスケ部は結束してました」

『ま、実際のところはガラじゃなかったんだけどな。途中からはしんどかった』

「……そうですか」


 尊敬する先輩の弱音を聞いても、思ったほどの失望はなかった。

 去年のインターハイ地区予選準決勝。

 最後の試合が終わった瞬間の、安堵の表情を見てしまったからだろう。


『やっと重圧から解放されたと思ったら、瀬川と付き合うことになって……、そのときはまだいい気分だったんだけどな』

「香子先輩に告白されて、その……、優越感があったんですか?」


 優越感。嫌らしい言葉を選んでいるという自覚はあったが、他にいい言葉が思い浮かばない。高明先輩は気を悪くした様子もなく、僕の不躾な問いかけに応じた。


『あいつは学校のどの女子よりも特別だったからな。それに好かれる自分も特別なんだと、勘違いしてしまうほどに』

「二人はうまくいってるように見えましたけど」

『表面上はな。それか……』

「それか?」

『瀬川が楽しんでいるほど、俺は楽しめてなかったのかもな』


 自嘲的な先輩の声色から、その感情を察するに――かつての〝そこそこ上〟という自己評価が、香子先輩と付き合ううちに崩れていったのかもしれない。


 在学中からだったのか、それとも遠距離恋愛が始まってからか。

 高明先輩がいつから香子先輩との関係に疲れていたのかは不明だ。


 それでも遠距離恋愛なら。たまに会うだけなら。

 ずるずると引き延ばして薄めた関係を続けられたのかもしれない。


 だけどその間に、大学で親しい女性ができてしまった。


 そろそろはっきりさせないと、という危機感もあったんだろう。

 そんなタイミングで降って湧いた今日のイベント。

 遠路はるばるやってくるならちょうどいいと、彼女と浮気相手を鉢合わせるよう仕向けたのか。


「今日の一件は、別れ話に都合が良かったってことですか」

『悪かったな、利用しちまって』

「いえ……」


 高明先輩のしたことに対して、思うところがないわけじゃない。

 だけど、もう終わってしまったことだ。

 不満を言葉にしたって何も変わらない。


「まあ、遅かれ早かれ終わる関係なら、たぶん早い方が良かったんですよね」


 今というタイミングが早かったのか、それとも遅かったのか――それ当事者にしかわからないことだ。


 高明先輩が押し黙る。

 締めの言葉を考えていることが、伝わってくる気配でわかった。


『瀬川は自分が正しいと思ったことを強引に押し通すやつで、それがいいところなんだが、同時に敵を作りやすい。だからそばで見てやってほしい』

「僕なんかじゃ、それこそ釣り合いが取れませんよ」

『ただの勘だが、お前ならうまくやれそうな気がするんだ』

「まあ……、努力はします」

『じゃあな』

「はい」


 どちらからともなく通話を終わらせ、液晶画面を眺める。


 ――お前ならうまくやれそうな気がするんだ。


 尊敬する先輩の評価を、真に受けて喜ぶことはできなかった。


 今までの僕にとって、高明先輩の言葉は道しるべだった。一言一句を聞き逃さないようにして、そのアドバイスを一分のずれもなく実行しようと努めていた。


 だのに今はもう、右から左へと通り抜けていく、なんの重みもない雑音に成り下がってしまっていた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 香子先輩を起こさないよう、忍び足で席に戻る。静かに着席して先輩の麗しい寝顔を眺めようとしたら、その目がいつの間にか開いていた。


「高明と電話してたの?」

「ええと」


 認めるかどうか、少しだけ迷う。うなずいてしまえば、さっきの通話の内容まで明かす流れになりそうだった。あれは要約すれば、高明先輩が、香子先輩の彼氏という立場に重圧を感じていた、という話である。失恋直後に聞かせるには酷な話だ。


 とはいえ、このタイミングで電話をかける相手なんてほかにいないわけで。

 部分的に認める作戦を取ることにした。


「……はい。傷は浅いそうです」

「そう、よかった。ぶん殴っておいてどの口が言うのかって話だけど」

「そんなことないですよ。香子先輩はある意味被害者なんですから」

「恋愛上はそうかもね。でも、物理的には100%加害者なわけだし」

「裁判官もきっと情状酌量してくれますよ」

「やけにわたしの肩を持ってくれるのね」

「客観的なつもりですけど。……大丈夫ですか?」


 単調なやり取りに耐えきれなくなって、ついに聞いてしまう。

 香子先輩はいつもどおりだ。

 彼氏の浮気を知った直後にしては、あまりにも、いつもどおり過ぎる。


「何が?」

「何がって……、あまりにも平然としてるので」

「感情を抑え込まない方がいい?」


 香子先輩は挑発的に口元を上げて、雨が降り続ける窓の外に目をやった。


「涙を我慢しないで、この降りしきる雨みたいにわんわん泣けばいいって、キミは言うの?」

「いや、そこまでは……」

「泣いて泣いて涙が枯れたら、そのうち気持ちも晴れるでしょうって?」


 歌うように語りながらこちらに向ける視線は、面白がっているようにも見える。


「なんか……、開き直ってません?」

「そうしないとやってられないでしょ。……って、本当によく降るわね……」


 つぶやきに釣られて僕も外を見る。

 列車の窓に打ちつける雨は、出発した時点よりも明らかに勢いを増していた。

 香子先輩の横顔が不安に陰る、それくらいの雨量である。


「大丈夫ですよ、山の天気は変わりやすいって言うし――」


 そんな気休めの言葉を遮って、唐突に車内放送が響いた。



『えー本日はァ、当列車にご乗車いただきましてェ、まことにィ、ありがとォございまァす。

 お客様にィ、運行停止のご案内をォ、申しィ上げまァす。

 大雨の影響によりィ、次野駅とォ園次野駅のあいだでェ、土砂崩れがァ発生いたしましたァ。

 そのためェ、当列車は次野駅にてェ停車ァ、以降はァ全線不通とォなりまァす。

 なおォ、運行再開の見通しはァ立っておりませェん』

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