第113.5話ある青年の決意

 少女が、泣いていた。

 あんなにも勇敢で、明朗で、堂々とした少女が。人目につかないような場所で一人で泣いていた。

 まるで誰にも涙を見せないように。まるで誰にも啜り泣く声を聞かせないように。小さな体を更に小さくして、彼女は泣いていた。


「私は…っ、死にたく、ないよ……! めいいっぱい長生きして、最高に楽しくて…幸せだったって、そう、最後に笑って死にたいの………! 散々嫌われて、利用されて、棄てられる人生なんて……そんなの嫌だよ…っ」


 夕陽を全身に浴び、美しい銀色の長髪を風に預けて…彼女はさめざめと泣いていた。

 たまたま、甲板を歩いていてこの場に出くわしたけれど。僕は……彼女を慰める事も出来なかった。ただ物陰に隠れて彼女の心の叫びを聞く事しか出来なかった。

 どうして僕の耳は良いのだろう。どうして僕の目は良いのだろう。どうして、彼女が誰にも見せたくなかったであろう姿を目にし耳にしているのだろう。

 離れないと。この場を離れて見た事も聞いた事も忘れないと。

 そう思っても叶わない。僕の足はまるで床に縫い付けられたかのようにビクともしなかった。だけど……その代わり、僕の手はかつて無い程に震えていた。

 怒りから強く力が込められた手は爪がくい込み血が出ている。この憤怒を発散する方法もなく、溢れんばかりのそれがこの手と腕を震えさせているのだ。

 ──許せない。たった十二歳の少女にあんな言葉を言わせる人間が。

 生きる為に普通の女の子である事を諦めて異常にならざるを得なかった事が。

 誰よりもきっと報われるべき少女が、こうして人知れず苦しみ涙している現状が。

 こんな時であろうとも何も出来ない出来損ないな僕自身が。

 何もかも許せなかった。


 僕がどんな人間かも知らずに信頼して期待するようなお人好し。誰にも負けない才能を持っているのに、育った環境故かやけに自己を過小評価している天才。いっつも…見ず知らずの誰かの為に体を張って命を懸けている大馬鹿者。

 聖書に書かれた神の使いかと見紛うような美しく幻想的な容姿からは想像もつかないような、明るく前向きな人柄。

 とてもとても危なっかしくて、世間知らずで…笑顔がとっても眩しい女の子。

 あの子の事を考えるだけで沢山の情景と言葉が泉のように溢れかえる。

 そんな風に泣かないで欲しい。苦しまないで欲しい。

 君は泣いた顔よりも氷像のような顔よりも一輪の薔薇のような……パッと咲いた花のような笑顔が似合う。だからどうか、笑って。

 君が何の気兼ねもなく笑って幸せになれるよう、僕が頑張るから。君の幸せや君の未来を守る為と思えば、最悪な修行も苦じゃないよ。

 だからどうか、どうか…君には笑っていて欲しいんだ。

 人間は、ちゃんと幸せにならなきゃ駄目なんだ。どんな生まれであろうと人間には幸せになる権利がある。それは勿論君にだってあるんだ。

 君は幸せになれる。いや、幸せにしてみせる。君が幸せになれるよう、僕が──僕達が君を守るから。


『そんなに沢山の国に行ってたんですか?』

『すごい……そんな絶景があるなら見てみたいなぁ』

『私もいつかそんな自由な旅がしてみたいです!』


 瞳を輝かせて、あんなにも無邪気に初対面だった僕の話を聞いてくれた心優しき君に。

 今までの人生でただの一度も感じられなかった生きて来た意味を、初めて僕に感じさせてくれた君に。

 僕を……聖人を超える為の道具としてでもなく、その肩書きや役職でもなく、ただの一人の人間として頼り期待を寄せてくれた君に。

 目標も意味も無く、ただ周りに言われるがまま定められたつまらない人生を送っていた僕に、意味と目標を与えてくれた君に。


 ──僕は、恩返しがしたいんだ。

 きっと君はそんな自覚も無いだろう。そもそもこれは僕が勝手にそう受け取っているだけに過ぎない。君にとっては身に覚えのない事だろうね。

 でも………それでも僕にとってはとても重要な事なんだ。大事な事なんだ。

 枯れて後はもう擦り切れるだけだった僕の世界が息を吹き返したように、真っ白で何も描けないまま色褪せたキャンバスに、もう一度だけ色を与えてみようと思えた。

 これが最後のチャンスだ。分不相応な力を望み、手に入れた僕は…ろくな死に方もしないだろうし長生きも出来ないだろう。

 だからこそ、これが残りの人生できっと最後のチャンスになる。僕が、この人生の終わりに──生きていて良かったと、意味のある人生だったと胸を張って言えるようになる為の最後の決意。

 切っ掛けは確かにシュヴァルツ君だったかもしれない。でも、これは紛れもなく僕自身の意思で決めた事だ。他の誰でもない、僕の意思。

 大いなるご意思でも、父の言葉でもなく、僕というただ一人の人間の決意。

 アミレス・ヘル・フォーロイトという少女の幸福な未来の為に、僕はもう一度あの場所に戻ろう。

 もう逃げない。一度は目を背けた僕の役目と向き合う時が来た。

 聖人を超える必要なんてない。僕は僕のやり方で彼女の為にこの身を尽くそう。誰の為でも無く、僕の為に。僕がこうしたいと思ったから。


 君が君らしく振る舞えるように。もう、そんな風に泣いて苦しむ事が無いように。少しでも君の未来の支えになれるのなら、それが本望だ。

 だからね、王女殿下。少しだけ待っていて欲しい。

 僕が君を守れるようになって、堂々と君の前に僕……として立って名乗れるように。

 強く、偉くなって戻って来るから。聖人にも負けないぐらいの力と権力を手に君の盾となるべく戻るから。

 だからそれまでは……どうか、待っていて欲しい。


「………そうと決まれば、もう動かないと」


 ボソリと呟いて、僕はその場を離れた。彼女に声はかけなかった……きっとあの少女の事だから、誰にも弱い所を見せたくないと思ったのだ。僕が彼女の弱々しい姿を見たと話せば、きっとそれは彼女を傷つける事になる。

 だから何も言わず、何も無かったように僕はその場を立ち去った。

 僕に与えられていた部屋に戻り、急いで荷物を纏める。元より荷物は少ない方だからすぐにそれは済んだ。

 続いて…彼女への手紙を書いた。内容は簡素に──


『いつかまた必ず会いに行きます。その時はどうか、改めて名乗らせてください』


 ──たった二行。でもそれは、僕にとってはとても重要な決意。

 与えられた全てを受け入れ、与えられた全てを掴み取って初めて叶う事。彼女の前でが名乗る為に超えなければならない壁や困難はまだまだ山ほどある。

 即ち──それら全てを打ち破り、見事君の元に戻って来てみせるという誓い。

 この手紙は、一応、そういう意味も兼ねているのだ。……まぁ、心の弱い僕がもう二度と逃げ出せないように逃げ道を無くす…なんて意味もあるけどね。

 その手紙を手に、僕はまずシャンパージュ嬢の元に向かった。基本的に操舵室にいると聞いていたのでそこまで迷わずに行き、ここで僕は船を下りると伝えた。

 当然だがシャンパージュ嬢は眉を顰め、


「どうやって船を下りるつもりなのでしょうか」


 と問うて来た。それに、実は一回限りの移動手段があるんだよね、と答えると。

 シャンパージュ嬢は興味無さげに「そうですか」と返して来た。

 シャンパージュ嬢に下船する事を伝えられたので、僕は次にシュヴァルツ君を探した。彼はどうやら僕の事情をある程度把握しているようだし、王女殿下に手紙を渡す役目を任せたいと思ったのだ。

 ……別に手紙を任せるのはシャンパージュ嬢でも良かったかもしれない。しかし、個人的には…事情を把握しているシュヴァルツ君の方が上手く渡してくれるだろうと思ったのだ。

 それに、個人的にシュヴァルツ君に言いたい事もあったからね。


「あっ、いたいた。おーいシュヴァルツ君ー」


 船の後方の甲板にて、彼はジュース……ジュースかあれ? あの色合いはどう見てもワイン………まぁいいか。とりあえず、彼は飲み物を片手に黄昏ていた。

 真っ白な髪の合間合間から飛び出る部分的な黒髪が何だか角のように見える。


「リードじゃん、どうしたのぉ?」


 彼は思い出したように笑顔を作る。僕はシュヴァルツ君に手紙を手渡して、「これを王女殿下に渡して欲しいんだ」と頼む。

 シュヴァルツ君は何度か瞬きをして、じっと手紙を見つめていた。そんな彼に向けて、僕は告げる。


「──僕、祖国に戻る事に決めたよ。彼女の未来を守る為に強くならないといけないからね」


 僕の言葉にシュヴァルツ君は目を丸くした。しかしそれも束の間、彼は満足げに笑みを浮かべた。


「そう。いい返事が聞けて嬉しいよ。今からもう戻る感じなの?」

「そのつもりだよ。一度限りの魔導具を使って戻ろうかと」

「ふーん、まぁ、精々頑張ってね」


 手紙は任されたよ。と言って、シュヴァルツ君は僕の手紙を懐に入れた。

 話はここで終わったかに思えたが、実の所まだ彼に言いたい事があるのだ。なので、祖国に帰る前に最後にもう一つ…と僕は切り出す。


「シュヴァルツ君。僕がいない間──聖人から逃げ回ったりせず、あの子の事を守ってね」


 僕の言葉に、ピタリ、と彼の動きが止まる。

 ゆっくりと上げられた彼の顔は、これまた随分と悪どい笑顔に染まっていて。果てしない闇を宿しているかのような、妖しく輝く金色の双眸が僕を捉える。


「──バレちゃったか」


 しかし。シュヴァルツ君は王女殿下の前でするような無邪気な笑顔でそう言い放った。多重人格なんじゃないかと思うぐらいの表情の変わりようである。


「いいよぅ。おねぇちゃんの事はぼくも可能な限り守るから」

「なら安心だ。それじゃあ僕はそろそろ行くね」


 少し不安が残るものの、シュヴァルツ君の言質も取れた事だし、僕は祖国に戻る準備を始めた。……準備と言っても、ずっと首にかけていたネックレスを手に持っただけだ。

 そしてそのネックレスについた赤い魔力石を──握り潰す。その瞬間、僕の足元に瞬間転移の魔法陣が出現した。

 これは僕が旅に出る時に念の為にと持ってきておいた魔導具。一度限りの移動手段…特定の場所にのみ繋がる瞬間転移の魔法陣が刻まれた魔力石だ。

 この魔力石を壊すだけで発動する優れ物。持って来たはいいけど使う気にもならなくて二年近く持て余していたのだが、まさかちゃんと役に立つ日が来るなんてな。

 瞬間転移の際に発生する白い光の向こうから、シュヴァルツ君がひらひらと手を振ってくる。それに手を振り返した時には、僕はもう転移を終え、無事に目的地に着いていた。

 そこは連邦国家ジスガランドの中央都市カセドラル。教皇オルゴシウス=ラソル=リューテーシー聖下が教え導くリンデア教の聖地であり、教座大聖堂と呼ばれる城のごとき巨大な聖堂のある場所。

 その教座大聖堂のすぐ近くに僕は転移したようだ。が、しかし。二年ぶりの実家は中々穏やかではなかった。

 慌ただしく行き交う信徒達。司祭も司教も神父も皆が忙しなく走り回っている。まるで大事件が起きたかのような騒ぎに僕は大きくため息を一つ。

 まさか帰って来て早々厄介事に巻き込まれるなんて。幸先が悪いなぁ。


「……まぁ、それでもやるしか僕に道は無いけどね」


 意を決し、三つ編みに指を絡めそれを解く。解かれた髪を後ろに流そうと頭を軽く左右に振り、僕は気合いを入れる為にパンっと自分の両頬を叩いた。

 そして一度深呼吸をしてから、ゆっくりと人々の集まる方へと歩を進めた。


「何があった」

「教座大聖堂が何者かに襲撃され──っ!! 貴方様、は…?!」


 何かの作業をしている神父に声をかけると、神父は作業の片手間に訳を話してくれた。どうやら我が宗教の聖地が何者かに襲撃されたらしい。それは確かに大事件だ。

 しかしこの時ばかりは……この場にいた神父や司祭達にとって、それを上回る程の事件が起きたようだった。その者達は僕の髪と顔を見て言葉を失っていた。

 そして、


「ご帰還なされていらっしゃったのですね──我等が光、ロアクリード=ラソル=リューテーシー猊下!!」


 彼等彼女等は跪いた。僕……いいや、私の名を口にしては深々と頭を垂れた。

 ──ロアクリード=ラソル=リューテーシー。それが、私の本当の名前。

 リンデア教を導く教皇オルゴシウス=ラソル=リューテーシー聖下の実の息子であり、その次代を継ぐ者。立場としては教皇代理にあたる大主教。

 国教会の誇る聖人ミカリア・ディア・ラ・セイレーンを超える為に用意された、リンデア教の切り札。

 ずっと、ずっと………彼女達に隠していた本当の僕だ。


「……あぁ。私が二年の見聞の旅より舞い戻ったと聖下にお伝えしなさい」


 冷たく、まるで見下すかのように彼等彼女等を見る。だがそれでも、ここの人間は皆私の事を期待に満ちた眼差しで見るばかりで。


「はっ! ロアクリード猊下のご帰還である!!」

「我等が光、ロアクリード猊下がこの危機についにお戻りになられた!!」


 喜色満面で彼等彼女等は声を張り上げる。私が二年ぶりに戻った事はたちまちカセドラル中に広まる事だろう。

 だが、それでいい。今までは興味が無かったものの……今の私には、教皇代理としての立場が必要なのだから。

 気持ち悪いぐらい私を崇め敬服する信徒達への嫌悪感など捨て置け。今の私には必要の無いものだ。私はただ、初めて得た明確な目標と使命の為に持てる限りを尽くせばいい。


 コツコツと。石畳を、大理石を、硝子の床を、規則正しく足音を響かせながら進んで行く。視界の端に映る美しい彫刻や絵画など欠片も興味が湧かない。

 すれ違いざまに惚けた顔で頭を垂れる女性の信徒も、疎ましげであったり憧れであったりと様々な視線を向けて来る男性の信徒も、全てが今の私にとっては毒にも薬にもならないもの。

 だから全てを無視した。私が目指す場所はもう定められている。一分一秒一刻一日が惜しい今、寄り道をする暇など無いのだ。

 そして。カセドラルで最も美しく清廉なる間へと辿り着く。二つの見知った顔により開かれた扉の先には──我が憎き父、教皇オルゴシウス=ラソル=リューテーシー聖下が鎮座していた。

 二年ぶりの対面。私は体に染み付いた所作で誤る事無く跪き、そして宣う。


「我が父、我が光。教皇オルゴシウス=ラソル=リューテーシー聖下に拝謁致します。二年に及ぶ見聞の旅より帰還致しました事、ここに報告させて頂きたく願い申し上げます──……」


 幼い彼女があんなにも懸命に戦っているんだ。だから私も戦おう。

 一度は逃げた戦場だからこそ、もう二度と逃げ出さない。彼女の為に戦い抜くと決めたから。

 この戦場の果てには、が望むものがあると信じて。

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