第110話ある聖人の懸想
「僕、恋しちゃったかも…」
「………………ハ?」
自分の執務室で頬杖をつきため息混じりにもらすと、ラフィリアは珍しく単語一音だけを発した。
面越しでも分かるラフィリアの冷たい視線。しかし僕はめげないのである。
「彼女の事を考えると今まで感じた事の無いような胸の苦しみを感じるんだっ……これはまさに以前何かの本で見た恋そのもの! ああっ、ついに僕にも恋を知る時が来たんだっ」
ガタンッと椅子を倒す勢いで立ち上がり、手を大きく広げて演説する。ラフィリアは呆れたようにこちらを見ている……と思っていたら、
「……遂、頭狂…主……」
ついに頭狂ったかこいつ(※特別意訳)と口にした。ラフィリアは相変わらず僕に対しては辛辣だ。別にいいのだけれど。
そんなラフィリアの言葉も軽く受け流し、僕は語る。
「姫君がね、僕の事を友達って言ってくれたんだ。それにまた会いに来てって……あんな事を言われたのは始めてだよ」
夕陽に照らされ輝く妖精のごとき愛らしさの姫君。彼女は僕の手に触れ、とても可愛らしい笑顔でまた会いに来てと言った。
今までずっとずっと聖人として生きて来た僕を…ただ一人のミカリアという人間として、彼女は接してくれた。それに、自ら僕の事を『友達』と言ってくれた。
それがあまりにも嬉しくて……あの時はつい年甲斐もなく泣いてしまったものだ。
長い付き合いのアンヘル君やラフィリアでも頑なに僕の友達や家族になってくれなかったのに。まさか、ほぼ初対面の幼い姫君が僕の初めての友達になってくれるなんて!
ふふふっ。思い出してついつい頬が緩んでしまう。
「聞いてよラフィリア〜っ、『どうか私が死ぬ前にもう一度会いに来てくださいね。後何年その猶予があるかも分かりませんが……約束ですよ? ミカリア様!』だって! 約束だよ約束! 僕、初めて指切りなんてやったよ〜!!」
「当然如、一言一句話………恐怖…」
「えへへー、愛しい姫君の言葉は一言一句全部覚えてるに決まってるだろう? 全てそらで言えるとも!」
「変態、至急投獄推奨」
変態は檻にぶち込まれろ(※特別意訳)とラフィリアは毒を吐く。
しかしやはりそれすらも無視し、どろどろに緩む頬を整える事も諦めて僕は脳内で記憶を再演する。
僕よりも一回りも二回りも小さな幼い体に抱えきれない程の重責を背負う姫君。それなのにその手は十二歳の少女に相応しく小さい。でも皮膚が固く、マメのようなものも幾らかあるようで………彼女のそれまでの苦労が見て取れてしまった。
彼女の細く小さな指と僕の指が絡められた時。僕は何十年と生きて来て初めての感覚に襲われた。
とてつもない温かみ。今までずっと求めていたそれがようやく手に入った事で満たされた心。
夢にまで見て憧れていた友達という存在………初めて、僕自ら名前で呼ばれたいと思った相手。
最初こそ様々な違和感や疑問から来る興味で姫君に会ってみたいと思っていたけれど、いざ本人に会うと……まるでそう定められていたかのように、彼女に惹かれていた。
想像よりもずっと美しく、妄想よりもずっと幼く、予想よりもずっと勇敢なお姫様…気がつけば彼女の事ばかり考えてしまうのは自明の理というものかもしれない。
あの時、ラフィリアが何処かに行ってしまう姫君を慌てて強制連行していて良かったと思う。そのお陰もあり、ああして僕は姫君とゆっくりお話する事が叶ったのだから。
………まぁ、最初の方はあまり話を聞いて貰えなかったのだけど。姫君はお連れのナトラという竜の少女と仲良く食事をしていて…その姿がたいへん微笑ましいものだったから別に構わないんだけど、少しは僕の話も聞いて欲しかった。
姫君は本当にコロコロと表情が変わる人だったなぁ。不機嫌な顔も怒った顔も、警戒した顔も困った顔も、笑った顔も照れた顔も……全てが姫君らしく可愛らしい。
ただ、一応歴代フォーロイト帝国皇帝何人かと会った事もある身からすれば、本当に彼女はいい意味であの家系らしくない。
その容姿は完全にフォーロイト家のものだけれど、こう、人格? とか性格がとことんあの血筋らしくないと。聖人的には思うんだよね。
「……主、氷王女事、本気?」
ラフィリアの
ずっと黙り込んで脳内で記憶を再演していたからか、ラフィリアとて不安を覚えたらしい。
僕はラフィリアに向けいつもの様に笑いかける。
「──どうだろうね。姫君が本当に神の言葉を聞いていたら良かったのに、なんて思うぐらいには姫君を手元に置いておきたくて仕方ないよ」
「………氷王女語、天啓──偽証」
「分かってるよ。大陸西側にあのような天啓が下った事も無ければ、神気も観測されなかった。あーあ、本当だったら良かったのに……そしたら合法的に姫君を国教会で囲えたのになぁ」
心の底より吹き上げられた重いため息を口から押し出す。
姫君の天啓と言う発言を聞いて、フォーロイト帝国を中心とした一定範囲の神気(神々が降臨された際にその場に残留する神聖力の事)の観測と、ここ数年間の神託の調査をラフィリアに頼んだ。
数時間が経ち、神殿都市に戻った僕はその調査結果をラフィリアから聞いた。すると姫君の話していた天啓と思しきものは見つからなかった。
つまり姫君の話していた天啓は嘘。姫君は、天啓ではない別の何らかの方法をもって緑の竜の件を知ったという事になる。
嘘をついたという事は、つまり姫君はあの場で話せないような方法でもって例の事を知り得たという事。だがそれを追求するつもりは無い。
誰だって隠し事の一つや二つあって当然だ。それに、国教会の信徒という訳でもない彼女が嘘をついていたとしても……僕にはそれを咎める資格など無い。
そもそも僕にとっては彼女が嘘をついていた事よりも、彼女を合法的に囲う理由が無くなった事の方が個人的に心苦しい。
………こんな事を考えてしまうなんて。やっぱりこれは恋だ。
だって昔本で読んだもの。特定の誰かの事ばかり考えてしまう、その人の事を考えているだけで胸が温かくなり同時に苦しくなる……それは恋をしている証拠なのだと!
「………もしもの時は、フォーロイト帝国と全面戦争でもしようかなぁ」
それで姫君を苦しめるエリドル皇帝陛下とフリードル皇太子殿下をこの世界から消してしまおう。そうすれば彼女とてきっと喜んでくれる筈。
確かにフォーロイト帝国の戦力は決して侮れないものだけど、それでも──僕の敵では無い。それなりに教義に反する事になるけれど、フォーロイト帝国をただ滅ぼすだけなら容易い事だ。
彼女に求められて差し出した小指…姫君の小さくも逞しい小指が絡まっていたこの指は、どうしてか未だに熱がこもっているようだった。
そんな小指を見つめ、僕は呟く。
「それかいっその事、姫君を拉致して…」
「不可能、精霊妨害確実」
「だよねぇ。じゃあやっぱりあの国と全面戦争を……」
どうにかして姫君を国教会に…というか僕の側に置いておきたくて、色々と方法を考える。その途中でふと思い出したのだ。
──やけに姫君と仲が良さそうだった、あの男の事を。
「どうせやるなら、フォーロイト帝国の前にリンデア教から潰したいよね。あのリンデア教の切り札も気に食わないし……何で僕よりあの男の方が姫君と仲良さそうなの、僕の方が凄いのに!」
「…当然…」
当然の事だろ。(※特別意訳)と呆れたようなため息をでかでかと吐くラフィリア。何が当然なの、とラフィリアを睨むと、ラフィリアはふいっと顔を背けた。
じとーっとラフィリアを睨みつつ考える。
あのリードとか名乗ってるらしい男………あの男の事を思い出して僕は腹を立てていた。
リンデア教が数十年前から僕に対する切り札を用意していたのは知っていた。でもそれとあんな所でこんなに早く会うとは思ってなかったんだ。
どうして東の人がこんな西側にいるのかな、早く東に帰って欲しい。そう何度も密かに下唇を噛み締めていた。
彼、生意気にも僕が作ったオリジナルの魔法を真似していたようだし、何より姫君と仲が良さそうだ! 魔法の事は最悪どうでもいい。ただ姫君に信頼されているようなのは駄目だ。
僕のプライドが許せない。他の誰かであったならまだ辛うじて気に食わないで済んだけれど、他ならぬあの男なら駄目だ。許せない。
僕に対抗する為だけに用意されたリンデア教の切り札。そんな男が僕よりも姫君と仲がいいなんて許せない。
どうにかして姫君からあの男を引き離さないと。
「ラフィリア、ちょっとジスガランドの教座大聖堂を襲撃して来てくれないかな。勿論国教会の人間だとバレないようにね?」
「ハ?」
「流石に教座大聖堂が襲撃されたとあればあの男も東に帰るだろう? 僕としてはね、さっさと僕達の西側から出ていって欲しいんだ。特に姫君の側から消えて欲しいと思う。だって彼女は僕の友達であり、彼は僕の敵だ。僕は僕の友達を僕の敵から遠ざけ守らねばならない」
「……ハァ。当方、主命反抗不可」
面越しでも分かるラフィリアの呆れ果てた顔。コテン、と項垂れつつラフィリアは嫌々のそりと立ち上がり、そして換装した。その全身を真っ黒の衣服で包み込み、更に顔につけた面をも黒いものへと変えていた。
あれはラフィリアが偵察任務等の際に正体を隠す為の衣装。西側諸国の裏社会ではそれなりに存在を知られているようで、黒の亡霊だなんて通り名もあるらしい。
まぁ、数十年間ずっとあの姿で暗躍していたのだから当然だ。得意の空間魔法で神出鬼没な事も亡霊と呼ばれる所以かもしれない。
「主側、離脱許可求」
「ああよろしくね。なんなら教皇をやっちゃってもいいよ、そうしたらあの男はきっと東に戻らざるを得ないから」
「………主、其、独占欲。否、恋心」
「これが恋じゃないって? 独占欲も恋から来るものでは無いのかい?」
ラフィリアが珍しく僕の言葉を否定した。面の隙間から見える彼の
そしてラフィリアは面を少しずらして口元だけを外界に晒す事により、己に課していた言語制限を限定的に解除した。
「──主ノ其レハ、人生初ノ友人ニ対スル唯ノ独占欲ト執着ニ過ギナイ。恋トハマタ違ウモノ」
「どうしてラフィリアがそう断言出来るんだ? 分からないだろう、僕のこの感情の正体が何かなんて」
「………其ノ問ニ解答スルナラバ、答エハ否。当方ハ主ノ恋物語ノ結末ヲ知ル。当方ガ作ラレタ時、神々ニヨッテ遥カ未来ノ結末ヲ
「僕の、恋の結末を知る? そんなの初耳──…」
ラフィリアは嘘をつかない。そもそもそのような機能がラフィリアには無い。だからこれは真実だ。ラフィリアは本当に……僕の恋物語の結末を知っているのだろう。
しかし神々も訳の分からない事をするなぁ…何でラフィリアに僕が恋をした場合の結末を教えるんだろう。相変わらず我等が神々の御心は分からないよ。
「主ハ誰カニ恋ヲシタ瞬間、壊レテシマウ。ダカラ当方ニハ分カル……主ノ其レハ、マダ恋デハ無イ。主ガマダ壊レテイナイ事ガ、何ヨリノ証拠」
ラフィリアがぎこちなく、されど言い淀む事はなく言告ぐ。
壊れる、僕が? 恋をしただけで? ……全く訳が分からないな。確かに恋は人を変えると言うけれど、そんなにも僕は変わってしまうのか。
どうせ誰かに恋をして壊れてしまうなら…僕は姫君に壊されたいな。初めての友達である姫君がいい。他の人間に壊されたくないな。
「…そうかい。確かに壊れている自覚はまだ無いからね、僕は恋をしていないのだろう」
この気持ちが恋ではないと分かってしまい、残念だと伏し目で眉を寝かせる。
僕がこれを認めた事により、ラフィリアは満足したのか面を戻して「任務、実行」と言って姿を消した。恐らく数時間もすればジスガランドにある教座大聖堂が何者かに襲撃されたと言う報告が上がる筈だ。
あとはあの男が大人しく東にとんぼ返りする事を待つだけ。
「…これ、恋じゃないのかぁ………」
ゴンッと額から机に突っ伏して未練がましく呟いた。
恋ではないと分かっても、姫君の事を考えると僕の心臓は早く熱く鼓動する。まだ恋では無いけれど、僕が姫君に大なり小なりの好意を抱いているのは確定だろう。
そして姫君に信頼される程親しい仲のあの男に嫉妬しているのも確定だ。ああ、これが嫉妬か。
あの男が気に食わない。彼はあくまでも僕を模倣したものに過ぎないのに、どうしてその元となった僕では駄目なのだろうか。
姫君は僕の友達なのに、どうして──そう、僕は生まれて初めての胸の苦しみに苛まれていた。
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