第161話




 玉座の間にある玉座に座るトリエス国王な陛下の膝の上で、私は村人女子仕様の丈の長いスカートを捲り上げていた。

 それは別に足を曝け出す習慣が無いという国の王様に色仕掛けをするとかそういう事では全くなく、両足にグルグル巻きにされている包帯を解く彼の邪魔にならないようにしているだけだ。

 陛下が右足の包帯を解き終わった。

 解き終わった包帯は玉座の横に落とし、彼は私の右足の傷が良く見えるように足首を持ち上げた。

 それによって当然私は体勢を崩して、陛下の膝の上でコロリと寝転がり気味になってしまう。


「え、ちょっと」

「……なんだ此れは。酷いな」

「大分良くなりましたよ? 怪我をしてから随分時間が経ってるし。ただ瘡蓋がね、まだ残ってて、それが動く度に服に引っかかって微妙に痛いというか不快というかで包帯を巻いてもらってただけです。皮がね、捲れてたりもしたから、まだ痕が残っているのは仕方ないかなぁ。あ、でも、捻挫は完全に治りましたよ!」


 陛下が溜息をついた。

 次いで彼は反対の足の包帯も解き出す。

 そんな陛下の行為を大人しく受け入れながら、私は此れ迄の事をポツリポツリと話していた。


「小山から落ちたパピヨンの村だけじゃなくてね、ディルクさんの故郷の村にも寄りました」

「ディルクの?」

「はい。とっても長閑な村でしたよ? それでね、ディルクさんの実家の裏に洞窟があって、そこにね、陛下の大嫌いな両生類がたくさん生息しててね? ヘロルドさんが捕獲しに行って、ディルクさんと同郷の王城料理人のフリッツさんが調理してくれて、皆で両生類を食べました」

「…………」

「村の珍味なんだって。両生類のこんがり串、なかなか美味しかったです」

「……そうか」

「あー…でも、ウオちゃんは食べなかったかなぁ。きゅんぴきゅんぴ五月蠅く鳴いていたから欲しいのかと思ってあげてみたんですけどね」

「酷だな。お前は」

「何がですか?」


 陛下によって左足の包帯も解かれた。彼はまた玉座の横に其れを落とし、傷痕を確認している。

 気になる瘡蓋があったのか、陛下はピラピラしていた其れを触った。


「……陛下さ」

「なんだ」

「あのね、あの……人がね、多分、いっぱい死んじゃった」

「……そうだな」

「それとね、あの、私ね」

「ああ、どうした」

「ウオちゃんの不思議な力でね、ガルなんとか国の軍隊をね、紫の雷で攻撃させちゃいました」

「聞いている」


 そこまで言って私の目にジワリと涙が滲み出した。

 ずっとずっと心に引っかかり続けている事を今から口にしようと思うからだ。


「……それでね、クラウディウスさん、どうしただろうって、思うんです、ずっと。優しかったんです。あの国の人達の中で誰よりも。とっても良くしてくれたの。最初はおかしな事を言っていたりもしたけど、本当にね、優しくて。……でもさ、もし国が無くなったらさ、クラウディウスさん、どうしたのかなってっ」


 触っていた足から手を離し、寝転がりの体勢になっていた私を陛下が抱き起こした。

 彼の澄んだ紫の瞳の中に私が映る。

 涙で濡れだした私の目尻に陛下は口を寄せた。


「―――なあ、小娘、色々と疲れただろう? 余も今日はこの後は何もするつもりはないから一緒に休もう。話したい事は寝台で寝転がりながらでも、ゆっくりと聞くから」

「はい。陛下に話したい事はいっぱい、本当にいっぱいあります」


 彼の言葉に私は素直に頷いた。

 そうしたい気持ちは陛下よりも勿論私の方がきっと大きい。


「そうか」

「陛下、」


 私はギュッと陛下の首に両腕を回して絞めるくらいに強くしがみついた。


「陛下、怖かったの。凄く凄く怖かったです。血がね、いっぱい。本当にいっぱいっ」

「お前を攫われるような失態は二度とするつもりは無いし、周囲にもさせない。すまなかった、本当に。今回の事は全て余が悪い、そう思ってくれ。そうだな、これから少しずつ怖かった記憶を塗り替えるような事を共に探しでもするか」

「はい、そうします」

「とりあえずだ。小娘、部屋に戻ったら美味しいものを用意させよう。今、何か食べたいものはあるか」

「ローストビーフ、シュイネブーテンかなぁ。濃厚ソース、濃厚汁? 付きのが希望です」

「……ソースで通じる。分かった。直ぐに用意させよう。他には?」

「うーん、甘っこいパンかな。陛下と一緒に食べたいです」

「分かった」

「表面がお砂糖でパリパリのやつね? 陛下、大好きでしょう?」


 そんな会話をして陛下は私を抱っこしながら玉座から立ち上がる。

 こうして私は、やっとのことで彼の部屋へと帰還を果たしたのだった。




 季節外れの蝶がヴィネリンスの庭園で軽やかに舞っていた。

 もしかしたら迷いこんだのかもしれない。

 でもその蝶は庭園に張られた大きな蜘蛛の巣に囚われる。

 蝶は待ち構えていた蜘蛛によって、その存在を喰われた。









 此処で少し待っていて欲しいとディルクという男に言われたミヒェルは、城から近い場所に設置されている庭園の腰掛けに座っていた。

 初めて足を踏み入れた荘厳華麗な王城を唯ぼんやりと眺める。

 回廊から見える城の使用人と思わしき者達が忙しそうに動いていた。

 通りがかる文官と思われる人らは皆、一様に窶れている。予想通りといったところだ。中央は火が吹いているのだろう。

 今いる場所から離れた所では、城の修繕作業が行われていた。

 学友の手紙にあった「珍獣様による破壊行為」によるものだろう。

 実際の倒壊状態を見る限り、かなりの規模だ。元の状態に戻すのには相当な費用と年数がかかるだろう。

 王国の象徴、王の居城ヴィネリンス。それを此処まで倒壊させておきながら、彼女は頗る元気であった。心に翳りが無かった。王を恐れてもいなかった。それはつまり何のお咎めも無かったという事なのだろう。溺愛が過ぎる姫君とは学友の言葉で、今日、ミヒェルも其れを実感した。彼女に自覚は無さそうだったが、相当に甘やかされている。そして其れを周囲も正しく理解しているようだった。


「……悔しいな」


 自分の存在のちっぽけさを痛感した日だった。彼女を手中に収めた王を前に、虫螻むしけらにもなれない自分が居た。それが只管ひたすらに悔しい。どうしようもなく自分自身に憤る。

 トリエス王という存在を実際に知ってしまった今、いや、それだけではない。ヴィルフリートという公爵家の人間をも知ってしまった今はもう、あの小さな辺境の村でだけで満足出来そうにないのを自分は自覚してしまった。


「悔しい」

「それは我らが主君に対してか? まあ、気持ちは分からないでもない」


 背後から突然話しかけられて、ミヒェルは体をビクリと震わせた。

 それに背後の男は肩を竦める。


「ああ、悪い。気配をつい消して行動してしまうのは職業病だ。許して欲しい」


 ミヒェルを此の場で待たせていたディルクという男だった。

 派手な色の両生類を頭上に乗せているディルクという男は、手に皮の小袋を持ちながら、ミヒェルが座る腰掛けに少しの距離を空けて腰を下ろした。


「うちのお姫様が色々と迷惑をかけて悪かった」

「きゅんぴきゅんきゅん! きゅんぴぴ!(ボクからも謝るよ! ごめんね!)」

「いえ。最初からおかしいとは思っていたんです。庶民だと言う割りには彼女は一人で着替えも出来なかった」

「まあ、皇妃となられる方だからな。今後も何一つ自分自身でされる必要は無い方だよ」

「皇妃?」

「あー…保護してくれた礼に情報をひとつ。そう遠くないうちに此の国は帝国に格上げになる」

「……そうですか」


 会話が一旦途切れた。

 何処か慌ただしさの伝わる王城にディルクという男と視線を向け続ける。

 ディルクという男は山小屋で会った時から酷く疲れているようで、目の下の隈が道中消える事は無かった。


「この城は大きいですね。僕には国王陛下の存在の大きさをそのままに体現しているように見えます」

「存在の大きさ、か。大きいな、確かにあの方は」

「……ただ悔しいですね。当たり前なのは分かっていても、国王陛下にとっての僕という存在の矮小さが」

「それは仕方ない。相手はあのトリエスの王だ。その辺りの国王より質が悪い」

「分かっています。それでも」

「では、その悔しさを忘れずに君が大きくなればいい。あの方を超える事は出来ないが、少なくとも注意を引けるくらいには」

「……そうですね」


 視線を向け続ける王城に変化があった。

 ミヒェルの居る場から眺め見える回廊に現れた人物に対して、忙しく動いていた使用人が姿を隠すような動きをし、間に合わない者は深く頭を下げる。窶れた様子を見せながらも回廊を慌ただしく歩いていた文官らも一斉に腰を折った。

 王城ヴィネリンスの主が先程の玉座の間から出てきたようだ。

 他者の存在を微塵も気にする様子を見せずに王は回廊を進む。

 腕の中には彼女が居た。

 ミヒェルの目には二人はとても楽しそうに見えた。

 国王の髪が気になるのか、彼女が黄金の其れを摘まみ取っては観察したり、また撫でつけてみたりしている。

 そんな彼女にされるがままの王は、目を疑うくらいの柔らかな笑みを浮かべていた。


「—――どうやら僕の入る隙は始めから無かったようですね。今し方まで、あんなに泣き叫んでくれていた彼女の安心しきった様子が正直堪えます。それに僕から見た先程の国王陛下は世の噂通りとても怖い方でしたが、彼女にはあのような表情をなさる」

「あの二人は第三者から見たら出会った時からあのような感じなんだよ。それも互いにずっと無自覚で。今回の件で陛下の方は自覚されたが、珍獣様はなぁ、どうなのか。俺は彼女の気持ちというか思考の方向性は読めないんだよなぁ」


 かなり変わっているだろ彼女、と言葉を続けて、ディルクという男は回廊を通る二人から視線を外してミヒェルの方を向いた。


「結果的に巻き込んで悪かった。結構、本気になっていたんだろう?」

「……いえ、もう終わった事です」

「きゅんきゅんぴぴ? きゅんきゅ。きゅん、きゅんぴきゅんぴきゅんぴぴきゅんきゅんきゅんぴぴきゅんぴ。きゅきゅきゅんぴきゅんぴきゅんぴきゅんぴぴきゅんぴきゅんきゅんぴぴきゅんきゅんぴ、きゅんぴきゅんぴ、きゅんぴぴきゅんぴきゅんぴきゅんぴぷぷぷぷ、きゅんぴきゅ、きゅんぴぴきゅんぷきゅんぷぴきゅぷぷきゅんぴ。きゅんぴきゅんぴぴ(本気だったの? そっかぁ。でもさ、神獣の乙女と知られてしまったあの娘はもうマティアスの下でしか安全は得られないんだよね。引き出し役の継承者が居ない神獣の乙女とボクなんて、制約のせいで殆ど何の役にも立たないんだけど、そんな事実はさ、欲望を持つ者達の前では関係の無い事だしね。なんか本当にごめんね)」

「此処で待たせるべきではなかった。あんなものを見せてしまって。待たせた理由だが、陛下が先程おっしゃっておられた渡したい物はこれだ」


 ディルクという男が皮の小袋をミヒェルに手渡した。

 ズシリとした重さを伝えてくる其れにミヒェルは眉を寄せる。

 予想されるものに不快さが湧き上がった。


「……中を見ても?」

「どうぞ?」


 小袋を縛る紐を手際良くミヒェルは解いた。

 そして中身を確認すると、屈辱感に怒りが込み上げる。


「随分な金額です。……私は金などっ!」

「ああいや、誤解しないで欲しい。これは君の村のとある村民宛てなんだ。届けて欲しい。マリリン・バーレは知っているか?」


 ミヒェルは不審を表情に乗せた。


「マリリン? ええ、幼馴染という程の付き合いも無いですが、古くからの知り合いではあります。これを彼女に?」

「ああ、渡して欲しいんだ」

「何故、と聞いても? 国王陛下がこのような大金を彼女に渡す理由を」


 どう言えばいいかなといった様子で、ディルクという男が首後ろに手を当てた。


「あー…うーん、説明が難しいんだが、ある出来事があって、陛下が使用人である彼女を城から一方的な理由で放逐せざるを得なくなったんだ。だけど彼女、母親が闘病中だろう?」

「はい。随分と重かったようですが、最近、良い医者と薬を得られたようで少しずつですが回復をしているようです」

「それは良かった。―――で、話の続きなんだが、陛下の都合でしかない解雇の詫びに、定期的に治療費と生活費を仕送りする事になった」

「そうですか」

「王城への帰還の間、君の事は俺の手の者に急ぎ素性を調べさせ、ずっと観察もしていた」

「…………」

「結果、悪い人間ではないと判断した。頼みがある。マリリン・バーレが分不相応な額の金を手にし続けている。周囲に気づかれ、その事が広まれば、良からぬ者に目をつけられるだろう事は容易に想像がつく」

「……そうですね」

「君が守ってやって欲しい。出来る範囲で構わないから気にかけてあげて欲しいんだ。一度、俺は彼女に会っているんだが、あの子、騙されやすそうだしな」

「分かりました。同じ村の者なので、それは私が責任を持ちます。―――しかし何故、貴方がそこまで彼女を気になさるのですか?」

「あー…それね。あの時の珍獣様の話が妙に心に刺さって、俺の」

「彼女……いえ、珍獣様のですか?」

「ああ。面白かったんだ、珍獣様の話が」

「はぁ、そうですか」

「そうだ。マリリン・バーレには兄が居るだろう?」


 ふと思い出したようにディルクという男が言うのを耳にしながら、ミヒェルは皮の小袋の紐を固く結んだ。


「ええ、居ますね。コーエンという兄が一人」

「そう、コーエン・バーレ。今現在、まだこのヴィネリンスの敷地内の片隅で雑用をやっているんだが、あれには一切この金を渡さないでくれ。金の存在すら知られたくないだろう、おそらく陛下は」

「そうなのですか? 分かりました」

「じゃあ、宜しく頼むよ」

「はい」

「さて―――」


 バシッとディルクという男が自身の両大腿を叩いた。

 そして腰掛から立ち上がり、ミヒェルにも腰を上げるよう視線で促す。

 ミヒェルは素直に従った。


「陛下が軍の食堂に宴会の場を用意して下さった。家庭持ちは早々に帰宅するだろうが、多くの独身組は其処に雪崩れ込んで盛大に騒いで羽目を外すだろうな。君も参加組に入っている」

「え? しかし僕は軍の人間では」

「それは構わない。珍味の時のユーリウス・ベルクヴァインも軍人ではないが参加するし、同じく軍人ではないアドルファス・エインズワースという人間も参加する」


 ディルクという男の言葉に戸惑いながらもミヒェルは首を横に振った。


「ですが、僕は王に退出を言い渡されております」

「それは彼女の前から消えろという意味なだけだ。宴会の参加については陛下は一切お気になさらない」


 それでも尚、躊躇うミヒェルの背中をディルクという男はバシリと叩いた。


「細かい事は気にせずに、とにかく行こう。軍の独身組が君を待っている」

「何故ですか」

「我々にとって、こうなる事は分かりきっていたからだ。道中、皆が君に同情していたよ。軍の独身組が君を慰めたいそうだ。かなり暑苦しいとは思うが、まあ、彼らの気持ちを受け取ってやって欲しい。それに、貴族から平民まで色々な家の者が居るから多くの知り合いをつくるのにもいいと思う」


 引く様子を見せないディルクという男に、ミヒェルは諦めに息を吐いた。


「分かりました。参加させて頂きます」

「よし。じゃあ、行こうか。ああそうだ、今夜は食堂で一晩を明かす事になるだろうが、君は特別に軍の独身寮に四泊五日のご招待だ」

「え?」

「我々は五日間の休暇を頂いた。君とその間、語り合いたい者達が居るらしい。まあ、頑張ってくれ。俺は頃合いを見て帰宅するけど」


 使用人を雇っているとはいえ家を放置し過ぎているから一旦帰りたいんだ、とディルクという男は言葉を続けて歩き出す。

 戸惑い続けながらもミヒェルも付いていく為に足を動かした。

 歩きながら、ミヒェルは王城へと最後に視線を戻す。

 誰にも聞こえないように口の動きだけで今ある思いを言葉に乗せた。


「……いつか自分自身の力で此処を訪れる事が出来るくらいに頑張るよ、フェリシア」


 何処まで自分は上り詰める事が出来るのか、どこまで力をつける事が出来るのか、未来への決意にミヒェルは大きく息を吸った。


「きゅぴぴ、きゅんぴきゅ、きゅんぴきゅんぴきゅんぷぷぷぷ? きゅんぴきゅきゅきゅんぴきゅんぷぷぴぴきゅ? きゅんぴきゅんぴきゅきゅぷきゅんぴきゅんぴぷぷぷぷきゅんぴ。きゅんぴ、きゅんぴきゅんぴきゅんぴぴきゅんぷ? きゅんぴきゅんぴきゅんぴきゅきゅきゅきゅきゅんぴきゅぷぷぷぷきゅんぴ、きゅんぷぷぴ? きゅんぴきゅんぴきゅんぴぴきゅんぷきゅ。きゅんぴきゅんぴきゅんきゅんきゅんぷきゅ、きゅんぷきゅんぷぷきゅ、きゅんぴきゅ! (ねえねえ、ディルク、ボクもその宴会に参加していい? 両生類の串焼きなんて出てないよね? 出てたら制約の縛りが解消された瞬間に軍の施設を破壊するからね。あとさぁ、ディルクんちに付いて行ってもいいかな? 今後はマティアスにベッタリくっつく気ではいるけど、流石にねぇ? 今はお邪魔だろうしさ。ボクもその辺は気を使ってあげたいし、って事で行くからね、ディルクんち!)」


 きゅんぴきゅんぴとディルクという男の頭上に乗っている派手な色の両生類が五月蠅く鳴いた。








 ミヒェルのその後の事を私が知る事が出来たのは、十七年という月日が経ってからの事だった。

 十七年後の彼はトリエスで三本の指に入るくらいの大商会の会長になっていて、非常識なレベルの高価値な物を献上品として、私への謁見を陛下に願い出たのだ。

 それに陛下は呆れ、また彼の努力を認めて、少しの間ならと私とミヒェルがお茶をする時間を許してくれた。

 お茶の時間はとても楽しいものだった。

 あの後にあった出来事をミヒェルは話してくれて、彼とマリリンは縁があって五年後に結婚をしたのだそうだ。

 三人の子供にも恵まれたとも。

 パピヨンの創作料理屋さんは予定通り開店したけれど、軌道に乗ると直ぐに人に任せ、ミヒェルは色々な所に飛び回っていたのだそうだ。

 話を聞いていて、彼が物凄く頑張っただろう事は私にも十分に伝わった。

 とは言え、ミヒェルに何かを私が与えられる訳ではない。

 だから私が出来る事という事で、彼の頭にそっと触れた。

 再会の懐かしさに、あの日の幌馬車での事が思い出されたからというのもある。

 三十七歳となった大商会の会長さんの頭に触れるなんて、正直どうかと私自身思ったのだけれど。

 触れた時、ミヒェルは酷く驚いた顔をしていたけれど、触れた彼の頭を私が撫でると、次第に照れ臭そうに、そして何処か達成感を得たような表情になって、ミヒェルは私に「我が商会は貴女に忠誠を」と言った。

 それに対して私が「そんな大層なものは貰えないよ」と言ったら、「何かして欲しい事があったら言ってくれればいいだけの事だよ」とあの時と変わらない口調で言ってくれたので、「じゃあ出来ればでいいんだけど、遠い国々の食料や物の輸入をお願い。なるべくトリエスの皆が手に入れられるような形で。皆の暮らしの豊かさを上げたいの」と言ってみた。

 「分かった。頑張ってみるね」と満足そうな笑顔で退出したミヒェルは数年後、それを現実のものとする。

 ミヒェルはトリエス皇室には決して逆らわず、非常に協力的でもあった為、陛下の犬だの私の犬だのと陰口を叩かれている事を知ったのは更に数年後。

 また、彼は大商人としての不動の地位を築いたようだと陛下が夜の雑談の時に教えてくれて、そんな陛下とミヒェルの付き合いも良好に続いたみたいだった。



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